第239回例会「訂正可能性と死」
発表者はふかくさ。会場は西新宿。2023年11月4日土曜日。参加者は300名。
ふかくさ「東はサイエンスにおける〝反証可能性〟と並べて〝訂正可能性〟を提示してもいる。それはおそらく単に語呂がいいからであるに過ぎないとしても、言葉の上で既にズレがある。というのも、特定の客観的主張に対する〝反証可能性〟と、我々が主体的に、あるいは当事者性を伴っておこなう発話行為に対する〝訂正可能性〟とは異なるからである。この違いは〝可能性〟という単語に由来していて、可能性は客観的可能性(=あり得る)をさすだけではなく、〝できる〟(意図すれば必ず成し遂げる)という意味もさしてしまうからである。だから、〝訂正可能性〟はどうしても実践的かつ自由意志的な意味を持ってしまい、そこに〝責任〟や各論が絡んでしまう。今回の例会でもあきらかになり、目立ったのはそうした客観的に評論家的に哲学者的に傍観者的にクールにキメられない側面であった」
ばぶ太郎 発表をローティ流プラグマティズム的に聞いた。訂正する力と歴史修正主義の対比の一つとして、穏健派と過激派というのがあったが、リチャードローティ風にいえばアイロニーの有無になると思う。慎みつつ、いかに奇跡が起きて物語を獲得していくか。これには物語の記述が不可欠であり、この記述に用いられるボキャブラリーをアイロニーでもって更新(つまり訂正)し続けることをローティは提唱している。が、ローティによるアイロニーとは公私を区別することでもあるが、現に公と私は簡単に分けることができるものではないという批判ができ、むしろ(公に対する)私を再考することを千葉雅也氏は提唱している。過激派のいいとこどりもありかと思う。
Syun'iti Honda 訂正可能性については、クワインの全体論を社会課題の克服という観点から捉えたもののように感じた。つまり、社会的な不平等や文化的な偏見に対する新たな運動が周縁で生じたとき、過去の事実や伝統を否定するのではなく、それらを現代の文脈に合わせて再解釈し、社会的変革を促進するための新しい価値観や方針に組み込むというもの。ただし、「まえに進む」ことの基準も再解釈の対象となりうるため、全体論と同様に、どうやって「まえに」進めばよいのか、「つなぎなおし」の前後で「まえに」進んだのかをどう判断するのか、という問題は残ってしまっていると思う。 ↓発表原稿
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