資料1-04「豊陵新聞」第168号
【資料1-04】/豊陵新聞編集局/「豊陵新聞」第168号/(1969.9.24) 『息づいた豊高 真の民主化に動く!』他
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[1面]
息づいた豊高 真の民主化へ動く!
傍観者になるな !! 自分自身の問題に
豊陵新聞第一六七号に端を発した事件は、以前の豊高では考えられないような事態を引き起こした。問題の新聞が発行されて、すでに三ヶ月。新学期にはいった豊高であるが果して学校のいう教育の「変革」「民主化」はなされているのか。また生徒はもはや「傍観者」でなく、再び自治会の一員として考えはじめているのか。この事件が起こる以前にも“豊高教育の民主化”が叫ばれていたのに、われわれの大多数が傍観者であった。真に民主的な教育とは、教師と生徒があって初めてそれに向かうのである。われわれに課せられている問題は、表面的な変革ではなく、従来の高校教育の誤ったところの根本を追求(ママ)し、それを否定した上に於いて新しい豊高を創造することである。
この事件を主な問題点から見ると、大きく三つに分かれる。第一は豊陵新聞発行の六月九日から二十三日、第二は盛田先生を招いて講演会が開かれる予定であった六月二十五日から警官隊導入の七月七日まで、最後は解放同盟の糾弾及び期末テストをめぐっての問題である。ここでは最後のいわば“豊高内部の闘争”に重点を置いた。我々自身で考え、問題を解決せんものと各自主体的に動こうとしたのも、おそらく豊高始まって以来の重大な動きと言える。
豊高改革の道を誤らない為にも、もう一度ここに至るまでの過程を振り返ってみよう。主な事件としては、講演会の部外者乱入から警官導入、期末テストボイコット等々。
[写真] テスト3日目の7月16日、テスト中止を要求して職員室前にすわりこんだボイコット生たち
7月8日(火)
この日は、各クラス代表20人が講堂で、また残った者は、一・三年はクラスごとに、2年は2クラスずつ合併で、期末テスト延期について討論することになった。
講堂での討論は、九時頃から校長の昨日の警官導入に対する言明で始まった。校長は、あの事態では教師の安全の保障、HR乱入の防止のため警官導入はやむを得ないと言明した。しばらく誓約書、警官導入をめぐって、校長・教師の責任追求がなされたが、教師と生徒は互いに譲らず平行線をたどった。やがて校長の責任追求より、今後の行動を考えようと意見が出たが、結局あまり実質的な討論のなされないまま、一時頃校長が明日からの予定を発表し、各クラスで検討することになった。
▲学校が示した予定
△九・十日は自宅研修(H・R又はグループで登校して討論してもよい。)
△十日は一時から解放同盟と「会合」をもち出席者は全職員、自治会役員、各クラスの代表二名、豊陵新聞局員(但し登校生徒は教室で傍聴)。十一日糾弾集会の結果をH・Rで報告。全校集会で自治会公開質問状の解答。同和教育について今後の態度を明確にする。
△12日よりテスト実施。
なおこの発表はあくまでも予定、あるいは提案であって、生徒の意見によって変更し得るということから直ちに総務委員会が召集され(十一時半頃)討議された。また同時に臨時議会が召集され、今度の事件の中ではじめて議会が浮かびあがった。討議事項は「このような緊急事態における議会の権限」であり、特に今中心になって動いている総務委員会との相違が追求された。結局この議会では「議会は議事進行だけでなく、主体性を持って積極的に自治活動を推進できる」ことを確認し、今後も「議会として立法権を重視する」(議長談)という見解を示した。
追って十二時十五分学校から放送があり、△九日のことは自治会決定にゆだねる
△十日の糾弾集会は自宅待機、一時から登校してきてもよい、との学校見解が発表された。
そして午後二時になって総務委員会決定が次のように発表された。
△テストは十日以後の学校の状況[を]見て、十二日に改めていつから実施するか話し合う。
△九日は縦割討論を行なう。内容は、今後の方針、警官導入、またケガ人を出した事についての校長の責任、豊高民主化要求について。
7月9日(水)
八時三十分応接室に議員が召集され、昨日の総務委員会の決定は議会を通っていないので無効、今日のスケジュールは各クラス討論の上決定する事が確認された。
十時頃役員会から今後の予定が発表された。十一時十五分まで縦割り討論、十二時半までクラス討論。その後四号教室での議会では、今後の部落研に対する態度について話し合われ、役員会は「彼らが本当に民主的に助言を与え、我々に自由な選択の場を与えてくれるなら、別に拒絶しない。」旨言明した。
一時前十日、十一日の日程について校長の放送があった。それによると十日は午前中休校で一時から解放同盟の糾弾。登校希望者は、裏門から十二時─十二時半まで身分証明書を提示して校内に入る事。十一日は定刻に登校し、十日の糾弾集会の報告、公開質問状の回答を材料として今後の同和教育について各クラス討論を行なう。
糾弾集会──民主制の追求
7月10日(木)
糾弾集会が開かれたこの日は、職員が全部講堂に入るので学校側は部外者の侵入をさけるために朝からものものしい雰囲気が流れていた。その日は、糾弾集会の内容を知りたい者に対して、各教室に放送が流された。
糾弾集会は予定よりおくれて、二時頃から始まった。解放同盟約六十人と豊高全職員がテーブルをはさんで向かい合い、その側面に生徒という形で行なわれた。それから六時頃まで約四時間の糾弾で、民主制を欠いた豊高教育の実態が暴露された。
追求(ママ)された主な点、及び総括としては
△同和教育に関して府教委通達を握りつぶした形の校長の対処
△学校教育における組合活動の不徹底
△同和教育に対する府教委の姿勢
△“学校の主人公”たる生徒の真の意見の自由を剥奪
△部落差別に対する怒りが豊高差別教育に向けられた
△民主教育の欺瞞性
△真の自由とは何かを考えて、民主的な人間を育て、万人が平等な社会を建設するような教育を望む
この糾弾集会の半ば頃、傍聴していた役員三人、議長を含む六人が解放同盟の追求(ママ)が一方的であり、真の差別をなくす上では無意味だとして、退場し、集会の放送を聞いていた一年の各クラス及び二年の一部にその旨を主張して回った。このことについて糾弾集会が終ってから役員として無責任だとか、その行動に党派的性格がうかがえるとして一部生徒からの追求(ママ)があり、六人は十一日に全校集会で自己批判をすることになった。
この日関西部落研はビラをくばっていたが、後に解放同盟の人が校内に入れて講堂の横で糾弾の様子を放送で聞いていた。学校の心配したような事態は全然起こらなかった。
役員を含む六人の行動や、放送による傍聴のせいか、糾弾に対する生徒の受け取り方はさまざまであり、これが後の生徒間の断絶を生む一因ともなった。なお後に糾弾の正しい理解を望む目的で三年E組が録音テープによる糾弾集会の詳細をガリ刷りの冊子として作ろうとしたがのち先生・生徒の協議によって同冊子約百部の発行は中止された。
公開質問状に対する解答
7月11日(金)
【役員会の公開質問状に対する解答】(十一日朝学校から発表)
◎豊高教育が存在する限り当然続くはずの同和教育を、今回の差別事件が起こるまで事実上放置されていたのはなぜか?
「従来の惰性の上に豊高教育があり、学校自身の日々の創造的教育への点検と反省を欠いていた点にある。」
◎差別文書を出した責任はどうか?
「我々差別者としての自己の告発の上に立って、その責任を自覚すれば、自らが実践的に同和教育を根幹として民主教育を推進していく外はない。」
◎豊陵新聞の検閲の現状と根拠
「検閲という語は問答無用式に抑圧し、自発自主活動へ??新聞活動を止めるという意味と考えられる。しかしそのような事はしていない。学校社会という立場に立って全部員の意見が十分に反映されるよう、適当な助言と指導が必要であると考えている。」
◎これからの同和教育の方針は
「(イ)講演会(ロ)ゼミナール(ハ)教師の研修(ニ)教科活動内で取り組む。など同和問題に対する職員研修委員会を通じて計画実施する。」
◎基本方針に基づく具体的施策
「学校教育方針の樹立」
各分掌の検討
(イ)生活指導、生徒心得の点検
(ロ)自治会、新聞部の位置づけ
(ハ)教務、補習、実力テスト、カリキュラム、席次、欠点の問題などの検討
(ニ)特活係、ロングH・Rの検討
(ホ)各教科の問題の検討
以上を夏休み中に検討する。
其他の項目については具体的なとりくみの中で明らかにする。
この後各クラスで、昨日の糾弾集会、公開質問状の解(ママ)答とこれからの学校の基本方針・今後われわれはどうすればよいかなどについて話しあった。
昼頃に開かれた全校集会では、昨日の糾弾を批判した六名のとった行動に対して、自己批判を求める声が多く、役員は「あくまで個人的な意見であり、個人的な行動であるが、結果的には役員の立場で対処したよう[に]なった事を自己批判する。」と語った。
この日議会で決定した事を順を追っていくと、この日配布された学校の日程(十二日休校、十四日からテスト)[…①]中止テスト日程の決定方法は全校投票、その結果全校生はその決定に従う。② ①を決定する前に、互いの意見を理解するために、十二日の休校をとりやめて縦割討論をする。
─自治会と学校の決定、11日五時半─
自治会─十二日は定刻に登校、縦割討論をする。昼食の用意をすること。本日の予定はなし。
学校(担任を通じて)─十四日からテスト決行。同和教育及び教育方針は短期間で決まるものではなく、試験を延期すれば、混乱を起こすだけで結果として何かに利用されるのではないか、この決定は全校投票の結果に左右されるものではない。
この日PTAの二年の学年会が開かれ今度の事件の説明がなされた後、明日十二日には生徒を登校させぬよう通達があった。このことからも十二日の登校は半ば学校側と対立した生徒独自の行動であったと考えられる。
またこの日あたりから生徒間、特に三年生と他学年との感情的な断絶が顕著になり始め、そのためテスト日程についての全校投票を前に明日の縦割討論が計られた。
全校投票 テスト中止に決定
7月12日(土)
八時半から十一時半まで縦割り討論。十二時から最終的なクラス討議。二時から全校投票。
学校の十四日試験断行の態度は変らず、教師は討論に於て同じ事をくり返した。一方生徒内部では試験中止、断行との意見に分かれたが主として討論では中止派が断行組を説得するような形であった。又生徒間の断絶も夥しく、一年生などは活発に動く三年有志に一種の恐怖感さえ持っているようだった。これはこの日が設けられた理由でもあるが、短時間の討論での相互理解には余り期待できない。
ここで全体的なテスト中止理由を列挙すると、◎学校側は民主教育を言明したにもかかわらず、従来の差別教育の延長であるテストを強行しようとする。◎学校は“混乱収拾”という以外、試験断行の教育的意味を明確にせず、それは単なる収拾策動としか思えない。◎生徒各々が分裂し、討論が不足している現在、当初問われた問題は何ら解決されておらず、このまま夏休みに入ると“考える”姿勢がくずれたまま終る。等々…である。
一方十一時ごろから講堂ではPTA一年の学年会が開かれていたが、学校からの伝達内容を知りたいとして三年有志が教師の許可を得て入室した。しかしまもなく父兄の賛成多数の「民主的な方法」(PTA会長)によって、有志は退室させられた。学年会には後にも三年有志が傍聴を要請したが再三、拒否された。
さて十二時からのクラス討論を経て、二時に全校投票が行なわれ、ただちに集計がなされた。
一年 二年 三年 計
中止 182 215 278 674
断行 192 167 105 464
棄権 31 35 43 109
(投票 1247)
この全校投票の結果が発表される前に臨時議会が召集され、次の事項が確認された。
「今日の決定に関しては、自治会員は(役員会の指示に従って)統一行動を取る」
また同じ時に行なわれていたPTA学年会に対して議員団を組織し、生徒側からの説明を行う、との動議が提出されたが、支持が過半数に満たずに否決された。
全校投票を集計後、その結果をもとに役員会は学校側と最終的な折衝を続けたが、結局もの分れに終り、五時五〇分の正式発表に及んだ。
自治会発表─全校投票で試験中止を決定した限り全自治会員はこれに従い、十四日からは同和問題について主体的に考えて行こう。
次いで学校側が職員会議の決定に基づく見解を発表した。その主旨は、一、今迄の教育に欠点はあったが全面的に否定はしない。正しい面を評価するためにも試験を実施する。二、試験の内容、形式は従来とは変わったものになる。三、残された問題は試験終了後、教師と生徒とで協議する。だから試験を豊高の新しい第一歩とする、というものである。この学校見解によって意見を異にした者も多かったがなおテスト中止の声は強く、全校投票を無視した形の学校、教師に対して不信の声も大きかった。
学校側 テスト強行
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7月14日(月)
この日の到来によって全豊高生は、主体性を問われる苦痛を伴った。期末試験をボイコットすべきだと思った者は、主体性を保つために親や先生の圧力に耐えぬかねばならない。試験を受けるべきだと思った者は、自分達が決めた自治会決定を否定しなければならない。又どちらにもはっきりとした確信を持っていない生徒は、もっと悩んだ。このように生徒は、学校が秩序回復のために強行する試験のために重い荷物を背おわされ、一部の生徒は、親や先生の説得に抵抗するすべもなく、矛盾を感じながらも試験を受けた。又答案を書かずに裏に自分の意見を書いた者もいた。なおPTAは13日各家庭に試験を受けさせるように電話をかけた。学校はこの混乱のため開始を十分遅らせた。結局この日の試験をボイコットした者は約五四〇名で、八時半玄関前で各々の責任を確認した後九時講堂に入り、今後のことについて討論した。そしてボイコット生として、学校に中止要求を出し続けることを確認し、署名をした。(この署名は結局散逸して終ったようである)この後、クラス別討議に入ったが、試験を受けようとボイコットしていようと関係なく生徒全体で豊高の諸問題を考えようという事になった。そして試験終了後各クラスで今後の方針について討論会がもたれた。
検討し直したという試験内容は、ヒントがついていたり、“英語について書け”などのようなものが加[わ]っていたが本質的には、たいして変わっていないという声も多かった。
十二時頃から4号教室に於いて、クラス代表と、役員会との合同会議がもたれた。この会議では試験にはいって後の自治会の方向性が検討され、次の事が決定確認された。
7月15日(火)
試験は予定通り行なわれ、ボイコット生は昨日の約半数程になり、講堂に入りあと五日間試験をしている間に何をするかということが討論されたが、あまり意見も出なかった。
試験終了後、二回に分けて同和問題に関する“人間みな兄弟”が講堂において上映された。(フィルムは解放同盟の提供)
7月16日(水)
自治会より学校への期末テスト中止要求のビラが出される。ボイコット生は、昨日よりも又少し減り、その一部が運動場中央で座り込みをよびかけて、約三〇名が運動場中央で座り込んで話し合ったがスタンドや玄関前でぼんやり座っている者の方が多かった。
11時から講堂で、約一五〇名の生徒と、約10名の教師によるグループゼミが行なわれた。始めての試みであるなかなか熱心な討論が行われたが、教師の都合で十二時三〇分で中止された。
この後も19日まで連日約一五〇名のボイコット生があったが、実質的な討論はされなかった。座り込みは職員室前に移ったが、教師はそれをさけて通り、全く無視された。
終業式
7月19日(土)
試験最終日で終業式でもあるこの日は、終業式を大衆団交に又はボイコットせよなどのビラが配られた。
試験終了後、各H・Rで学校から“豊陵新聞一六七号における差別記事に端を発した一連の事件に関する謝罪と反省”と題するプリントが配られ、放送で校長が読み上げた。そしてH・Rで夏休み中のクラス活動について討論した後、校庭で学校に対して質問会が持たれたが、例のように少数者の追求(ママ)に終わった。
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《参考資料》
[2面]<特集・論説>
これからの豊高を全員の手で
今回の一連の騒動について、一学期及び夏期休暇中に「豊陵新聞一六七号論説事件の記録」として、その経緯の記録を冊子として局員有志で発行しました。が、何分にも発行部数が少なかった事により全生徒に行き渡らなかったため、また七月八日以降の記録も発表するために、一面に事件の経過を掲載しました。今回の騒動は、その直接の原因は豊陵新聞でしたが、これを契機として、今後豊高生として全員が考えて取り組んでいかねばならない問題を多く残しました。従って、豊陵新聞では、その線に沿って幾つかの項目に分け、その問題を提起しました。以前にも増して、より深く考え、多くの問題に取り組んで欲しいと思います。
何が原因だったか
今後、われわれ豊高生は、どのように行動すれば良いのであろうかという事を考える以前に、今回の事件がどのようにして起こったか。言い換えれば、“何が原因で起こったか”という事を、最初の当事者である編集局は明らかにする必要があると思う。
先ず、豊陵新聞に差別記事が載った際に、大多数の人はあのように事が大きくなるとは予期しなかったと思う。以前から本校教育、また現在の教育は同和教育を含んでおらず、教える側の教師にしても、その認識不足は隠せなかったと言ってしまうと何か無責任なようではあるが、いずれにせよ現在の教育体制に欠陥があったという事は、否めない事実である。民主教育というのは、民主主義にふさわしい人間を造り出すことであり、民主主義とは、自由と平等を総ての人が得られるような政治形態を指す。ところが、現在の教育体制が自然と受験体制に重きを置き、日本の社会の仕組の中にある非民主的な問題を解決するべき同和教育を、ないがしろにしていたのは事実である。しかし、そうとは言え、すべてを学校の責任にしてしまうのにも、一考の余地はある。教育とは、学校で施すだけのものではなく、家庭に於けるそれも、教育のうちであるからである。従って、多方向より広く知識を吸収し、あらゆる面での考察が必要なわけである。
現実を見つめた時、豊高生の殆どは入学時から大学受験の事を頭に置いているであろう。その父兄にしても、また然りである。言うまでもなく、それは豊高だけに限った事ではないが、豊高にせよ、どこの高校にせよ、現在の欠陥のある教育を施してきた所に、今回の事件の根本の原因は落ちつくようである。そして、豊高にその潜在的な欠陥が現実となって表れたと言えよう。が、いずれにしても、今回の事件によりわれわれが同和問題等に関して各自認識した以上は、重大な責任が今後の自分自身にかかってくるのである。その自覚が今後のわれわれに課せられた大きな課題なのである。
民主教育に取り組む姿勢を
前述のように、この辺りに今回の差別文書事件の原因があったと言えるであろう。同和問題に端を発した今回の事件は、民主教育全体について、もう一度よく考えなおしてゆく方向へと向かっている。これは、問題の本質上からも、全く必然的な事である。ここでは、具体的に今回の事件の中から、新たに問われた問題を列挙しながら、今後のわれわれの方向を探って行こうと思う。
まず、一番大きな点として、本校の教育にあった欠陥が暴露され、真の民主教育というものが改めて高校教育全般に問われたと、いう事である。豊陵新聞論説事件が表面に出た頃より、にわかに外部団体からのビラが氾濫し、学校内も騒然となるなかで、学校側もいよいよ本腰になってその対策に取りかかった。注意しなければならないのは、既にこの時点に於いて本校の本質的な欠陥、と言うよりも現在の教育全般に結びつく重大な問題が提示された事である。と言うことは同和問題がなされていなかった事であるが、これは真の民主教育がなされていなかったとも言えるだろう。現実として、この事件が発生した際、学校側にしても生徒側にしても、余りに軽く見すごしていたのではないか。生徒の中には、同和問題が何かということを、全く知らなかった者もいたのである。何と言っても、今回の事件の原因を作ったのは、この豊陵新聞ではあるが、この現実は前からなされてきた教育の欠陥を如実に表わしている証拠と言えるだろう。そして、もう一点忘れてはならないのは、今回の事件が、豊高だけで起こったというのではなく、現在高校教育の矛盾がたまたま豊高で形となって表れたと言うことである。国会でも同和対策特別措置法が成立してはいるが、まだまだ国民に広く関心が持たれていないのが現実である。しかし、だからと言って豊高だけで同和教育をしてみたところで何になるといった考え方は禁物である。民主主義に基づく人間平等の精神から、現在の日本の最大の矛盾である同和問題に対して、その差別がある以上は、徹底的にそれを憎む精神が必要なのである。そして、その精神を養うべく同和教育というものを行うのであるから、その重要性を深く認識した上で、この問題に取り組んで行くのが、最も大切なのである。と同時に、学校での同和教育だけでなく、家庭教育に於いても、この分野の問題をおろそかにしてはならないのは、当然のことであろう。
“対話不足”の克服を
次の問題として、先に掲げた問題と関連してはいるが、対話の不足ということがあげられる。これは、恐らく今回の事件に伴う数々の討論を通じて全員が痛切に感じたことであろう。今までの豊高に於いて、この対話の不足という事は、拒めない事実である。真の民主主義に不可欠である対話が不足していたと言う事は、真の民主教育が行なわれていなかったからだと言えようが、それだけで済ませてはいけない。生徒自身についても、自ら対話を求める態度に欠けていたのは事実である。雑談も必要ではあるが、何か一つの事について、深く話し合うという態度があまり見られなかったのである。この内部的な対話の不足ということが、今回の事件で明らかに実証された。今後、生徒間等の対話を重ねていくことが望まれよう。また、今後、対話を出来る限り増やして行くと言っても、今回の騒動の間に度々見受けられた、煽動的・強圧的なものに、終始していたのでは、決して対話の不足の克服にはつながらない。論争で相手を抑えるのではなく、話し合いの中で、相互の意見を納得の行くまで交換し合い、その中から新たな物を創造してゆくという、対話の基本的な姿勢を失ってはならない事を、強調したい。期末試験延期中に行われた、あるクラスの縦割討論では、この基本的な姿勢を最初から強調して、討論を行った。その結果得られたもの。それは、各学年間に渦巻いていた誤解や、感情的な反発の緩和であった。従って、これからも常に、この基本姿勢をもって、対話不足解消に努力していかなければならないのである。
自治会領域を明確に !!
次に、今後の自治会の在り方という問題が、提起されると思う。まず言えることは、総務委員会とは何かという点である。議員の立場とか、議会の位置づけとかいう問題は、以前より取り沙汰されていた。が、敢えて総務委員会を取り上げたのは、それが今回の騒動の中である期間中、議会の替りをしたことである。同委員会は、本来自治会決定の伝達や、集会の計画準備をするのが、役目である。今回の場合は、緊急を要したという、時間的な問題も含まれていたという、役員の見解ではあるが、果して非常の場合には立法機関でもある議会の役目までをも、受け持つのかどうかを、明確にしておくことが必要ではないだろうか。
さて、期末試験中止か否かを問う全校投票から、試験拒否が起こったのだが、ここに自治会運動の領域と最高決定権の問題が挙げられよう。学校側としては、試験実施の是非を決定する事までに、高校に於ける自治会活動は関与し得ないとした。しかし、自治会側は学校の主人公である生徒の意見であるとして、それを主張し、ここに対立が生じる。果して、本当にここまでが高校自治会の活動の範囲なのかどうか。今回の件に関して言えば、たとえ試験拒否を自治会決議としても、最高決定権は学校長にあるとしてそれに従わない者が、全自治会員の三分の二であったことを、注意すべきである。すなわち、自治会の最高決定権の問題である。現行の会則によると議会での決議は職員会議で承認の上、校長の最終決定により実行されるとされている。
ところで、現在、民主化委員会設置の構想があるが、この委員会のメンバーを生徒と教師により構成し、民主化に関する問題は双方対等の立場で検討してはどうであろう。もちろんこの場合、双方の納得のいく点で対等の立場で妥協は必要である。そして当然職員会議で再検討という点は省かれるのである。
が、いずれにせよ高校の自治会活動は教育の一環である。すなわち、社会に於けるそれと、校内に於けるそれとは必ずしも同等とは言えない。従って、管理権等は当然自治会活動の範囲外にあると言えるのではないだろうか。
今あげたのは、今後の自治会を考える上で、重要な事であるが、結局一番大切な事は、それに対処する会員一人一人の考え方及び心構えであると言えよう。
PTAに再確認を
最後に、PTAの問題が上げられる。現在のPTAとは、P(親)とT(教師)が極めて離れており、ただ学校の後援会的存在にすぎないとの意見もある。本来PとTとは生徒であり子供であるわれわれによって結びついている社会組織でありながら、今回の事件中の学年会に見られた生徒無視の決定や通達は充分問題にされていい。この問題に関しては、教師との話し合いよりも、家庭での話し合いの方がより重要になって来るだろう。従って、この点充分に、各人が互いに理解し合う方向での努力が望まれよう。
今回の事件から、いくつかの問題を列挙して中間総括としてきたが、夏休みも過ぎ、一頃に比べて生徒の間には自分自身の問題という感が薄らいだようにも感じられる。しかし、八月十一日に示された教育方針は、今後の豊高教育の第一歩である。これが示されたについては、試験拒否も少なからず重要な意味をなした筈である。豊高全員によって造られたこの第一歩を、無関心の一言で崩すことのないよう、全員が努力してゆかねばならない。その意味からも、現在は中間総括の段階と言えるのであろう。
思索を大切に
今まで、いろいろと述べて来たが、これまでの総括として、次の事を述べようと思う。つまり、我々は、これまで以上に、より深く考えようという事である。
今度の事件に対する関心が、自然消滅するのではないかという声がある。現に、夏休み中のクラス討論に集まった者も、休みの終わりに従って、少なくなって来たところが多いし、確かに、その感がする昨今ではある。しかし、この事件から、いろいろな事を、これからも考えて行かなければならないのに、立ち消えて行こうとしているのは、なぜだろうか…。“考える”ことを拒んではならないのではないか。私達は、人として常に考える姿勢を持っていなければならないと思う。
最後に述べたいこと。それは私達一人一人がこれらの問題をよく考え、批判し、反省して、意味ある豊高生活を創造しなければならないということである。明日の豊高は、私たち全豊高生の双肩に担われている。今度の事件が結果として、良かったのか、悪かったのか。ある意味では良かったかも知れない。けれども、本当に良かったかどうかは、これから決まるのである。そして、それは、わたし達自身によって決まるのである。もっと、もっと、深い思索をすべき時なのではないだろうか。
時は今、思索の秋である。
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[1面]<コラム>
千山万水
▲一九六九年の夏が我々にもたらしたもの……健康そうに焼けた小麦色の肌、暑さのために少々スマートになった体、けれど、もっともっと美しく尊いものを得た。我々は考えることのすばらしさと、話し合い、理解し合うことの難しさを知った。▲あの日、6月二十五日に演壇を陣取った、部落研究会の人たちの怒りの顔、顔、顔。恐らくあの瞬間が、我々が事の重大さに気付いた最初だったのではなかっただろうか。▲連日の話し合い、糾弾、授業ボイコット……我々はここで何かを感じ取ったはずだ。先頭に立って演説した人も、横で沈黙のままにじっと考えていた人も……。▲みんな頑張った。「みんな」というのは、ぜひ「全員」という意味であってほしいが。あの時、真夏の太陽の下で流れる汗を拭おうともせず、ぶっ倒れるまで話し合ったではないか。あの時の我々は、頭上に照りつける太陽にも劣らず光り輝いていたのだが。▲今、何をするべきか……考えることは沢山ある。でも考えても考えてもわからないことだらけだ。そして考えても考えてもその種は尽きない。▲人間に生まれてきてよかった。なぜかって?それは、世の中にはこんなに沢山矛盾したことがあるから。それらを無くしていくのは我々人間にしかできないことだからだ。それにしても、人間とはなんと難しい生き物であることか。いったい我々は「考える」ために生まれてきたのだろうか。▲まさに秋が始まろうとしている今、我々の心にあるものは夏の思い出と二学期への意欲そのものだ。多いだろう。毎日、それぞれが何らかの期待を持って登校する高校生。でも「何とかなる」などと思ってボヤボヤしていると、あっという間に過ぎて行ってしまう一日だ。その上、我々は後悔するような失敗が多すぎるようだ。高校時代の一日と大人になってからの一日とでは、それの持つ意味に相当の違いがあると思うのだが。▲とにかく読書の秋、思索の秋、スポーツの秋だ。大いに勉強し考え、そして大いに成長しようではないか。
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[4・5面]<写真特集>
新生・豊高の胎動
●写真説明
期末テストを受ける者と受けない者と。さまざまな心の葛藤のなかでテストは強行された。7月12日の豊高は拒絶と昂奮のうちに夜をむかえる(上)。そして約600人がテストボイコットした第1日─14日。さすがに索漠とした教室では受験する者のなかに静かに時だけがたっていった…(下)
(上)6月25日“講演会「粉砕」事件”。本校生徒及び教師集団の衝撃のなかで、激しく重い無数の言葉が飛び交った
(右)いわゆる豊高事件も内部的な「試験中止闘争」にはいり、我々の間で討論が、集会が重ねられた。右は7月14日、テストをボイコットした生徒600人が玄関前に集会を開いた際の光景。
《拒 絶》
今度の一連の事件は、およそ三段階に分けることができる。一つは豊陵新聞の差別言辞発見から全校発表に至るまで。一つは六月二十五日の講演会事件にはじまる外部団体の介入。そして目前にせまった期末テストをめぐっての学校内部の運動。そして思うには期末テストをめぐる第三段階にこそ、豊高の自治会員としてのわれわれは真に「自ら治める」自治会員となり得たのではなかったか。中止か、決行か─少なくとも各々が各々の立場で自らの問題を考えた。中でも学校がテストを強行する十四日を前にした二三日間、われわれの自主的な展開は十分記憶されてもいい。学校側の一方的な休校指示を蹴って、最終決議のために、もう一度討論するために登校してきた十二日。はたして中止賛成が過半数を占めて、学校側とは真向から対立し、生徒個々の複雑な心境をはらんだこの日の豊高は、午後八時近くなっても静まろうとはしなかった。そして十四日の月曜日。こんなにも緊張し切った、それでいてどこかちぐはぐに、ぎこちなく始まった日をわれわれはかって知らない。テスト一日目十四日─ボイコット者約六百名。色々な事情から止むなく受けた者の中には白紙答案を出す者も多かった。「不信」と「拒絶」とが全体を支配していた。受けたもの、受けなかった者の反発は、予想以上にいちぢるしく、現れた。テストが日一日と済んでゆくにつれて、ボイコット者も次第に減少して行く。そしてテストは終り、休暇にはいっていった。果してこれだけの「拒絶」を生んでまで強行されたテストは、何だっただろうか。中止派が恐れていた“収拾策動”にこのテストはやはり成り得たろうか。が、何より、テスト自体の是非は別として、期末テスト決行をめぐって動いたあの時のわれわれの力は、何だったのか。何のために、何を守るためにわれわれは討論を重ね、考え、そしてある者は「拒絶」したのであろうか。そして夏休みを経て新学期を迎えた今、同じ人の中に一ヵ月前の力は、あるのか。
《ち か ら》
七月七日。それは長い日だった。それは、今度のいわゆる豊高差別事件の一つの頂点を示す一日でもあったろう。「警官導入」─今まで何度となく耳にし、また新聞紙上に何気なく読み流していたこの一語は、突然現実としてわれわれの前にそのベールを剥(は)ぎ取った。この一語は一種絶対的な響きを持って、われわれの肩に、重い。
七月七日。その日の空は暗く、陰鬱に地を求め、時折の雨が地面を泥にした。この泥の中でわれわれと警官隊との悲しい衝突が起った。「なぜ、はいって来たんですか」「理由を教えて下さい」─朝から校内におしいった関西部落研を、校長の要請で検挙するためだった。しかし全く事情を知らされていないわれわれの問いの前に、灰色の集団は無言であった。突然隊の一角がぐらッと崩れた様に見えた。カッターシャツの白と、灰色の制服が交錯し、緊張にみなぎった空間に怒号が叩(たた)きつけられる。それが合図であった。髪の毛をつかまれて隊列の中に引きづり込まれる者。首筋をねじ上げられる者。腿(もも)をしたたかに蹴り上げられてその場にうづくまる者。片目を押さえた男子がいきなりよろける様にして列から離れて来る。このとき、警官隊ともみあっていた生徒たちの眼に、一体何人の教師が見えたろう。初めて触れた“権力”の灰色の制服は、異様にすら冷たくそぼくであった。
七月七日。この「長い日」の持つ意味は大きい。それは一つの頂点であった。この日を支点として情勢は大きく廻転する。テスト延期決定。糾弾集会。テスト中止決議。PTA学年会通達……。混乱をなお混乱として収拾しようとする者と、あくまで混乱自体の意味を問いかけようとする者と……。この日の夕刊各紙は豊高事件と警官導入を大々的に報道し、そしてもはや豊高事件は豊高の問題のみにとどまってはいない。
昭和四十四年七月七日月曜日。この日、北摂五十年の「名門」豊中高校は死んだ。
《こ と ば》
「対話」があった。
「主張」があった。
「自己批判」があった。
「非難」があった。
豊中高校一学期の四十日、それは“ことば”で繋(つな)がり“ことば”に約束された毎日でもあった。従来から一部でしきりに対話の不足が訴えられていた豊高にとって、それは一つの“奇蹟”であったかも知れない。あらゆる時あらゆる場所で討論の輪がうまれ各々は激しく意見を交し合い、その途方もない言葉の応酬のなかから何かが生み出されていった。
誰かが「主張」する。同意賛成の拍手が湧く。途端にどこからか「ナーンセンス!」の大声。マイクを奪い合い他の意見を封じ、昂(こう)奮から思わず拳が出る。確かに対話とは言えないアクシデントも何度かあった。そんな所から“ことば”への不信と絶望が生まれ、生徒間に感情的な断絶が生じもした。それを克服するための一二三年タテ割り討論。再び前進と創造がはじまった。この事件を通してわれわれの間に見い出された力は一体どこにあったのだろうか。それは一つには“ことば”であったろう。お互いが自分の殻に閉じこもることなく、次々と全体の中に飛び込んでいった。そしてそこには「参加」し「自ら治める」自分があった。この活気に満ちたわれわれのエネルギーは、あの40日間に燃えあがったまま終って、果してそれでいいものなのだろうか。
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