まつどの生涯学習論
昔書いたレポートから転記(必ず授業で使った特定のキーワードを含めるという課題だった気がする)
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要旨
評価社会において自分の実力を適切に把握し、その実力に応じた生き方を実現するためにどのようなことに注意したらいいのか2つの観点から考察する。 (2) そのときどきのライフイベントに向き合うことが優先事項であり、ウェブ社会での評価に重きを置き過ぎないこと 本文
(1) について。
私は教師を志す身として生徒の勉強への動機づけを実現するような指導方法というものを考えるとき、市川伸一の提唱した学習動機の二要因モデルというものを真っ先にイメージします。 注1 学習の功利性と学習内容の重要性の二要因による表の左上から右下への対角線が内発と外発とを区切る軸になっていると説明されているが、自分の自発的意志というものが内発と外発のどちらの要素に強い影響を受けているのかを認識することで自分の学習への態度を改善させていくことができると考えます。
私は自分自身の学習方法をメタ的に考察することでより私の望む自分を実現できると考えていて、以前まつどつよし名義でブログに発表した文章に、自分の望む理想の教育カリキュラムを作ってみる遊びというものを考えて、実際に一例を作ったものがある。注2 その際に私の学習の動機づけをしていたのは充実志向や訓練志向であった。しかし、公開後に読書メーターやtwitterなどで情報収集を重ね、ネット上における無料の学習コンテンツおよびどのような人物が情報の発信者なのか、またネット以外の教育コンテンツの現状について勉強を積んだ結果、とりあえずネット上での活動を一時停止して、より有用な価値のある情報を提供できるようになるまでは、ネット上の情報はあくまで受動的な形でのみに押さえたうえで、定評のある論文や専門書籍の学習に重点をおくようになった。時分の花でしかない情報発信よりもより正統性の高い場所で価値のある仕事を残すことこそが真の花であると考えたからである。 読書猿ブログ 注3 といったサイトの学習論を参考に学習の型を意識してより生産的な学習活動ができるよう心掛けるようになったのもこの頃からで、単に学習が楽しければいいというわけではなくその向かう先こそ意識してよりより学習を志すことこそ大事なのだと思うようになった。 (2)について。
しかし現在2016年の私は、SNS 注4を生涯学習の観点から捉え直すことを通して考え方が少し変わってきた。具体的には、ある程度の匿名性が保障されているならば、自分の考えたことをたとえ価値が少なくとも発信し続けるという態度をとるほうが自分の学習の客観性を増すことができるのではないかということだ。道理の通らない議論はたとえ閉鎖的にみえる学校空間の授業においてでも生徒がネットにアップすることで公共の議論になる時代に、自分の考えの正しさを疑われるのが怖いからとびくびくしていても時代錯誤だし、それは自分のためにも生徒のためにもならない。公共圏という概念が理想で終わらないよう、社会のあらゆる問題に対して誠実な態度で立ち向かう態度を体現してこそ、他者にとってよいロールモデルたりうるのではないかと考えるようになった。ただし条件付きである。単に広く深い教養を身につけるために学習をするという風に考えてしまうと社会における理想の価値評価を体現することが目的になって自分の実力に見合わない学習計画を立ててしまう危険性があるので、まず自分の実力を徹底的に把握し、ライフイベントなど実生活におけるリスク回避を最優先に考え行動することこそが重要であり、それがままならない場合は、ネット社会における評価をすべて放棄して実生活の充実の為に労力を投入するという思い切った判断が重要だと考える。単に広く深い知識があるというだけでなく、心身健康で生きられるような堅実な生き方をする人間こそが人間らしいという意味で全人的教養という言葉の「全人的」という形容詞の重要さを評価したい。知識習得の偏りは自分の認識する世界の狭さであり、より広い分野の知識習得が望ましいが、それに先立つのは人間らしい生活を営むことである。(1655字) (注釈および参考文献)
注1
市川 伸一『学ぶ意欲の心理学 (PHP新書)』 2001年
注2
まつどつよし2013年
二章 世界一面白いカリキュラム研究会(仮称)
三章 カリキュラム案
注3 読書猿
私はこのサイトの文章をevernoteにコピーして注釈をつけながら繰り返し自分の学習態度を評価し直すという形で活用している。
注4
SNSソーシャルネットワークサービス
ネットにおけるSNSには様々な形態がある。学習に関わるものをいくつかあげる。
スタディプラス 学習計画SNS
読書メーター など読書感想交流サイト
数学すうじあむ など特定教科のデーターベース構築交流サイト
qiita プログラミングにおける情報交換および共有サイト
Honz など書評サイト
批評再生塾 などあるテーマに関する塾の内容を広く公開するサイト
slownet, 趣味交流のSNS
食べログ など商品やサービスの評価サイト
各種MOOC、ニュースサイト、twitter、ブログ、掲示板、ニコニコ動画、小説家になろう、researchmapなど相互交流性や参入障壁の大きさ、情報の信頼度や目的の違うSNSがある。
ソーシャルメディアがもつ再帰性が「私」のアイデンティティをつくるため、依存になりやすく精神的にも疲労してしまうことが指摘されている。 以下メモ
生涯学習の観点から自分がどのレベルに到達するかはレベル0の段階では分からない。ある程度いろいろな分野の⊿においてレベル上げをすると自分の学習効率がわかるようになる。できる限り高いレベルを目指す場合、レベルの低い段階から知識の再生産( つまり能動的に創造的な知識の習得を心掛ける )を意識するため、作曲家かつ演奏家、研究者かつ教師のように一見複数のアイデンティティを内包することになることが多い。
対立軸において例えば精神医学と精神分析とを科学的方法という対立軸で対比させてみると、後者の精神分析においてその探究方法に一般化の難しさがあり、精神分析についての知識がほとんどなくても前者のほうが科学的には優れているということができる。ベイズ推定など主観確率である程度の客観性を記述するなど別の推定方法を導入して、実務的な成果を評価し直すというような合理性という意味で評価することは可能であり、一方の理論が完全というわけでない以上対立軸は残り続ける
私の生涯学習論
・
知識
社会のニーズ
共通規格分析に優れた分野もあれば、とても狭い条件でしか社会において応用できない分野もある。
学校型教育
受験勉強 査定が定量的に可能。模試や入試という形で自分の社会における各分野の知識の正確さを自分で認識できる。
自発的意志 あれよりもこれを勉強したい
短期的に成果を求められる受験勉強。教科をしぼって受かるために最低限の内容を繰り返し反復学習することによってアウトプットの確かさの精度を上げることができる。
トレードオフ
今後の人生のなかで意味のあるような学習の仕方をしたほうが長期的には得をするのではないか。
批評について
趣味としての批評について
音楽について
就職について
ゲーム的アニメ的想像力 リアリズム これまでの提案されてきた生涯学習理論を私の世代の教養である、漫画やゲーム、アニメといったメディアにおいて馴染みのある物語で書き換えることで、より実用的に学習理論の習得が可能ではないかと考えている。また逆にそういったゲーム的アニメ的な観念が適切な現状把握を阻害している側面もあるためそういった負の側面を浮かび上がらせることも重要である。
情報化社会において何を学ぶべきかという問題が深刻である。
これまでの生涯学習論に基づいてライフステージやライフイベントの観点で自分が学ぶべきことを優先的に決定していくとする。例えばハヴィガースト発達課題をどれもクリアすることが望ましいと自分の生き方を定義したうえで、それを実現する最適な学習方法というのが人それぞれ環境それぞれであり、狭い分野に留まらず、幅広い分野において確実な知識を着実に身に着け、どんどん応用可能な知識を増やしていくのが望ましいとしても青年期における学校教育のようにまとまった時間が取れるわけでなく、細切れな時間に学校教育において蓄積したストックや実社会で学習した経験をたよりに少しずつ知識を更新していくという形でしか成人期において生涯学習の実践ができない。
生徒に勉強をさせるために行動科学的に動機づけるのに示唆的なモデルで、それぞれの項目を軽んじないで生徒の個性にあった教え方ができるように準備するようにしている。これまでこのモデルに出会う前の私が勉強に向かうときの態度はこのモデルにおける充実志向、訓練志向、自尊志向
よく、勉強もしないうちから、自分の成績はこのくらいだから、どうせこの辺の大学と勝手に決め込む諸君がいる。努力もしないで、どうして自分の成績の将来を、低く見積もってしまうのか。伸びるのも、伸びなくなるじゃないか。
─出口の現代文─
絶対的学習時間が少ないなかでは、目の前の課題に立ち向かうことが優先され、それらをこなすことができれば上出来だと思う。自分ができることとできないことを見極めて、できないことをより解決の可能な信用のできる第三者に委託したほうが、自力で解決しようとあがいて泥沼にはまるより有効な場面も少なくない。その見極めがうまくいくためには自分が何を理解していて何を理解していないかというメタ的な視点が必要で、生涯学習論において情報取捨選択の観点
生涯学習において自発的意志を持って自分の人生の課題を設定し、その時々のライフイベントに適切に対処することが求められるが、それを支援するプログラムを考えるために上記のように便宜上あらゆる対立、思想上の影響力の強さといった観点でレベル分けをしてソーシャルゲームのようなゲームシステムに現実を反映したモデルを考えてみる。 ソーシャルゲームに生涯学習機能を導入するメリットは、動機付けがうまくいくように行動科学が取り入れられていることとアニメや漫画的な想像力のストックが多い人ならその理屈をよく知っているので、長期的にその考え方を保持検討できること。デメリットはたくさんあるが、実際にプログラミングでそういったものを作ると現実をまったく反映していないその評価システムが多数の人に不快な思いをさせること。ただし、各個人がそれぞれの基準でそういった情報収集や現状把握に応用するならば問題は起きないと思う。
私の一生を私自身が認識するとしたらどのような形で私はそれを把握できるだろうか。私はこれまで生きてきた 23年間の記憶を元に、私はどのような経験をしてきたかを振り返ることができる。
私の記憶は所々曖昧で必ずしも正確なものでないが、それらは私のアイデンティティの基盤となっている。
私のアイデンティティを構成するのは必ずしも今の私の現状のみならず、私がこうありたかった私という(現状の世界からみて)可能世界における
私がどのような人間であり、どのような人間でありたいかという自分の今とこれからの自分に関わる思いは、これからの私の人生という可能世界についての情報を持っている。
どのような人間になりたいか(でありたいか)という思いを実現するための行動様式はいくつかあるだろう。理想が高ければ時間的生理的経済的もろもろの制約のため実現可能な行動様式は限られてくる。
理想の私になるべく、ある行動様式を選択するという行為を山登りに例えてみる。
山には様々な山がある。人生を山登りに喩えるために、まずこの世界の有り方を言語的に事実と可能世界との二つで記述できると定義し、それらはジャンル分けすることが可能で、例えば、図書館分類法である日本十進分類法にならって0~999までに対応させることができる。それぞれ0~999までのジャンルにおける思想は⊿という最小単位まで分割することが可能だと仮定して、そういった⊿を一貫性をもってグルーピングすると大きな⊿としてみなすことが可能である。一貫性の基準によって⊿の構成も様々であり、大きな⊿同士でおおまかな対立構造を見出すことができる。大小の⊿に対応する思想を持っている人間を対立構造や影響力の大きさによって定量的にレベル分けすることが可能である。 事実だと思っていることが対人的対立の場合異なることが多い。特定の状況における事実認定は科学的推定によって確からしさを高めて、そのうえで法的に無罪の推定をを適応させるのが
あらゆる情報を人間にとってどれほどの価値があるものかを定量的に図示し
功利主義の変奏曲
生涯学習のあらゆるルート
制度的に設けられた各種学校、資格制度など
統計的観点で自分にとって無理な生涯設計をしないことが重要である。 対立構造は工学的対立には効率性でその時々の技術革新の度合いによって優劣をつけることが可能かもしれないが、思想的対立の多くの場合、島宇宙のようにお互いの正統性への主張が平行線になることも多く、各分野の思想史を学ぶことやもしくは現在の論壇や公共圏での議論などからあらゆる対立を認識できる。
影響力の大きさというのは、思想のオリジナルを思いついた思想家のみならずそれらを応用してこの世界についての
どんどん人と交流する必要がでてくる個人プレーではなかなかレベル3以上に上がりにくい性質がある。
→=写像的に対応させる
⊿=思想=={レベル0(レベル1に到達していない)+レベル1(義務教育レベルの知識を説明できる)+レベル2(高校レベルの知識を説明できる)+レベル3(その知識を活用して生活、仕事に生かしている)+レベル4(その知識を新しい情報の生産につなげて強い影響力を持っている)+レベル5(レベル4のなかでも特筆すべき人) }
(世界)=(事実+可能世界)→情報(0~990)→対立構造、影響力の大きさといった観点から分割した個々の⊿→人間
私=( 私の記憶+私の可能世界 (=あらゆるライフイベントを想定した人生設計の総体やこうあったらいいなという私や世界の認識、こうありたかった自分など )
私( 今)→私 (理想)
私が理想の私になれる方法、ルートを推定して、実現可能なルートを選択する。
理想の在り方についての自己認識を得るために、理想を体現したモデルがどのような人間かを把握するために各⊿について知識をつけるなかで、自発的意志による学習が身につく。レベル分けの全体像を認識したときにはレベル1や2の段階に到達していることが多い。
私がこうなりたいという人間像を模索するのに、
親の期待など他律的な学習でたとえば医者や弁護士になったとしても、その職業においてどのようなスタンスをとりたいかという観点において学習する限り、そこに自発的意志を見出すことができるだろう。
全人的教養 文武両道 身体的にも精神的にも健康な状態を維持することは学問探究においても必要なことであり、スポーツを日常習慣に取り入れることが合理的判断でありうる。ある分野における情報の欠落は私にとって問題解決の方法の選択肢の減少につながるので、判断の正しさの精度は著しく落ちる。どの分野もまんべんなくレベル2程度まで上げておいて、レベル3の人と公共圏で対話できるパイプを持ち続けることができれば、ある程度のリスクは回避できる。 レベル1やレベル2における評価システムで高得点をとれることを時分の花と対応させるなら、レベル3やそれ以上を目指す人にとって自分がその分野において新しい価値を創造すること (そして創造し続けること )こそ真の花なのであり、うぬぼれることなく、高みを目指して適切な方法を継続することが大事である。また自分の実力を適切に把握していれば、自分の実力に相応しくない場面で出しゃばらずに済む。評価されたいという気持ちが前に出過ぎて、しかし実力が全く伴わない場合、より自分の実力にあった機会で自分を生かせる別のルートを模索したほうがよいことが多い。
初級者( 守) レベル0~1 中級者 (破) レベル2~3 上級者 (離) レベル4~5
今回は分かりやすいようにレベル0~3でも特に義務教育に含まれる場合で仕分けをしてみた。例えば義務教育に入らない、代数幾何についても (レベル1分かりやすい参考書を理解できる、レベル2…学部授業を理解している、レベル3…大学院で研究するレベル のように恣意的に分類できる )
ある時t1における評価として記録することで将来 (tn) においてその評価を再評価することが可能になる。何度も過去ログを掘り返して学習のたびに評価をしなおす再帰的評価のシステム
時間でループさせる
RPG法 思考対立 ディベート
思想の座標軸
ウィトゲンシュタイン
ゲーミフィケーション
自分が各分野においてどんな知識をどのレベルまであげるかによって、身に着けるべき知識の総量も変わってくるし、生き方も制約が違ってくる。
他者によってこのパラメーター⊿をここまで上げるといいよと言われて勉強していた 学習動機の二要因モデル
中級者や上級者はその⊿の価値を高めるため、たくさんの人間にその知識を学習してもらうために、
新しい知識の生産(この世界の拡張)
利害の調節(この世界における問題の解決と幸福の実現へ貢献する)
クリエイティブな産業(幸福や快楽、新たな世界認識を提供する)
目的が社会のニーズと重なっている時、たいていの場合、社会的にそのニーズ獲得ルートが整備されていることが多く、知識習得もそちらが優先される。具体的には有資格者のみがその活動や仕事に従事できるなど。
余暇の時間の使い方。
ライフイベントやライフサイクルといった想定される可能世界という制約のもとどんな⊿のどのレベルまで実現するかは。
正統的周辺参加論
ゲームとして捉えることでより客観的に分析的に戦略的に行動することが可能になる。自分の世界を構成する知識の偏りを定量的に把握できるようになれば、自省的
リアルの虚構性を多元的に捉えることによってリアルというゲームにのめりこみすぎることを防ぐのに貢献するのではないか。無理ゲ― (勝ち目のない戦い)に真面目に取り組んでいたら人生の破綻につながりかねない。大きく負けないリスクヘッジされたルートを選ぶのが ネットにおける SNS
(例えば、 studyサプリ、mooc 、読書メーター、ブクログ、書評サイト、 blogos,新批評塾、数学すうじあむ、 Pixiv、slo wnet,twitter,ブログ、掲示板、ニコニコ動画、小説家になろう、 qita,github,pratail,食べログ、 researchmap などの評価)
評価システムをより上位の概念から評価し、どのサービスや制度を利用してどの人間をたよりに学びを進めるか。
情報化されるまえの近代社会において教養が価値をもっていたのは学習するのに物理的にも経済的にも大きな制約があったからこそ誰も知らない知識をもっていることが社会的に尊敬される背景であったが、情報化社会において全体知が仮にあらゆる情報の集合であると仮定して個々人には全体知におけるごくわずかな部分しかアクセスできないことが明らかになったため、学究の先にはやはり対立しかないことが可視化され、
現在でも全体知、全人的人間に対する社会的要請は多いが、それは知識の偏った人間は行動に柔軟でなく、彼らが選ぶ選択肢に対して周りが行動を合わせる必要があるから。環境が変わってしまっても特定の考えしかもっていない人間は対応できなくなるリスクがある。全人的とは人間に関する理想を体現するのに文系や理系、体育会系などジャンルにとらわれないで知識探究ができるという評価のことであり、対人的状況において相手の学習背景を尊重して行動できるだろうという期待が含まれている。
集合知について有力者を集めて有力者のなかで熟議したうえで最善の選択をとる。
最善の選択というのが
貢献のかたちも色々ある。
思考の座標軸を持ち、
便宜上、初級者、中級者、上級者向けのコースがあるとし、
生涯学習の観点から自分がどのレベルに到達するかはレベル0の段階では分からない。ある程度いろいろな分野の⊿においてレベル上げをすると自分の学習効率がわかるようになる。できる限り高いレベルを目指す場合、レベルの低い段階から知識の再生産( つまり能動的に創造的な知識の習得を心掛ける )を意識するため、作曲家かつ演奏家、研究者かつ教師のように一見複数のアイデンティティを内包することになることが多い。
対立軸において例えば精神医学と精神分析とを科学的方法という対立軸で対比させてみると、後者の精神分析においてその探究方法に一般化の難しさがあり、精神分析についての知識がほとんどなくても前者のほうが科学的には優れているということができる。ベイズ推定など主観確率である程度の客観性を記述するなど別の推定方法を導入して、実務的な成果を評価し直すというような合理性という意味で評価することは可能であり、一方の理論が完全というわけでない以上対立軸は残り続ける
初級者向きの山を登るのと上級者向きの山を登るのとで覚悟が変わって来るし、そもそも後者を実現するために初級者および中級者向きの山でのトレーニングなしで登れば
上級者を師匠とすると便宜上師匠が数百人になることもある。
ライフサイクル理論
ライフイベント
知識
社会のニーズ
共通規格分析に優れた分野もあれば、とても狭い条件でしか社会において応用できない分野もある。
学校型教育
受験勉強 査定が定量的に可能。模試や入試という形で自分の社会における各分野の知識の正確さを自分で認識できる。
自発的意志 あれよりもこれを勉強したい
短期的に成果を求められる受験勉強。教科をしぼって受かるために最低限の内容を繰り返し反復学習することによってアウトプットの確かさの精度を上げることができる。
トレードオフ
今後の人生のなかで意味のあるような学習の仕方をしたほうが長期的には得をするのではないか。
批評について
趣味としての批評について
音楽について
就職について
これまでの提案されてきた生涯学習理論を私の世代の教養である、漫画やゲーム、アニメといったメディアにおいて馴染みのある物語で書き換えることで、より実用的に学習理論の習得が可能ではないかと考えている。また逆にそういったゲーム的アニメ的な観念が適切な現状把握を阻害している側面もあるためそういった負の側面を浮かび上がらせることも重要である。
具体的に
レベル分けについて
並行世界的考え方 ループ物語論
何物にもなれない私 新自由主義的な競争社会において競争に敗れた人間が搾取されるようなゼロサムゲームがルールとして提示される作品が多い。バトルロワイアルのような殺し合い 殺伐した社会認識は、どこか誰も信用できないパラノイアをイメージさせる。 ピングドラム
自分はこういう人間と思われたいという欲望が自分の行動を縛ってしまう。評価社会において「私」を評価する軸はたくさんあるなかで、ある特定の評価軸に拘らないで、しかし自分にとって都合のよい評価軸ばかりを過大評価しないようなものの見方や学習方法にはどのようなものがあり得るのか。
自分の望まないような形で評価されることと自分のありたい自分として評価されることとを天秤にかけて、前者の比重が高いうちはそういった評価社会なり SNSに参入したくないと思うのは自然。何が生産できるかがシビアに評価されるのが SNSであり、評価が必ずしも自分の成長に貢献するわけでない。悪意のある中傷なども多い。それに対して大学などのリポート提出は客観的採点と改善点などのフィードバックがもたらされ、成長に貢献する。
SNSでも匿名はてぶなどでは素性を隠して対話することが可能である。 SNSの場合、特定個人としてでなくニックネームなどで参加するが、同じニックネームで色々な SNSで参加する限り過去ログとしてその人間の評価を継続的にひきずることにもなる。
ある時t1における評価として記録することで将来 (tn) においてその評価を再評価することが可能になる。何度も過去ログを掘り返して学習のたびに評価をしなおす再帰的評価のシステム
時間でループさせる
RPG法 思考対立 ディベート
思想の座標軸
ウィトゲンシュタイン
ゲーミフィケーション
自分が各分野においてどんな知識をどのレベルまであげるかによって、身に着けるべき知識の総量も変わってくるし、生き方も制約が違ってくる。
他者によってこのパラメーター⊿をここまで上げるといいよと言われて勉強していた
学習動機の二要因モデル
中級者や上級者はその⊿の価値を高めるため、たくさんの人間にその知識を学習してもらうために、 大目標
自己保存
新しい知識の生産(この世界の拡張)
利害の調節(この世界における問題の解決と幸福の実現へ貢献する)
クリエイティブな産業(幸福や快楽、新たな世界認識を提供する)
中目標
目的が社会のニーズと重なっている時、たいていの場合、社会的にそのニーズ獲得ルートが整備されていることが多く、知識習得もそちらが優先される。具体的には有資格者のみがその活動や仕事に従事できるなど。
余暇の時間の使い方。
ライフイベントやライフサイクルといった想定される可能世界という制約のもとどんな⊿のどのレベルまで実現するかは。
正統的周辺参加論
あらゆる評価システム
閲覧のみ→生産
たとえば自分の授業の悪いところが全部公開されてしまっているならば、公共圏において批判されるだろう。批判されたら、改善すればいい。納得のいかない反論なら適切な形で反論すればいい。
パラメーターが開示されていない以上各人は他者のパラメーターを想像するしかない。できるだけ、自分と相性のいい考え方をもった人間をパートナーにしたいと思っているし、あまり対立した考え方や人を害することに価値を置いた人と仲良くできる気がしないので少なくとも自分から仲良くしようとしない。人間関係において尊敬していて直接の知り合いというのはそんな多くいないし、利害まで共有している人はほんの僅かである。利害の共有、他者への依存を自覚した人間は自分の弱さを理解しているからそういう意味で自立しているという考え方があるが、
論争において自分がどのような立場にたっているかは以下の4つでざっくりジャンル分けできない。なぜならそれぞれの項目についての立ち位置にすぎない
( i)(ii )()()
(ⅰ)(メウロコ)なるほどそうだったのか!と「目から鱗(うろこ)」の箇所
(ⅱ)(ハゲドウ)そうだそうだ、わしもかねがねそう思っとんよ、という「激しく同意」の箇所
(ⅲ)(ナツイカ)ん?なんだか変だな。そうしてそういえるわけ?という「納得いかない」箇所
(ⅳ)(ハゲパツ)なんじゃこれは、わしゃ絶対認めんけんね!という「激しく反発」の箇所。
そういう全体知
参考文献
吉田武『虚数の情緒』
ニュースサイト 事実の記述、解釈の発信
より質の高い情報を提示するために、執筆者をどのように選ぶか。
データーベース
ブックガイドや引用論文
自発的意志によって協働学習の実現を達成しているものも多いが、意志だけでなくあらゆるパラメーターにおいて高い能力が求められる
成人教育において経験を生かす方向と、経験が学習を邪魔する方向があり、後者は具体的には特定の利害関係に属している人は、公共圏においてその議論を中立的に考えることが難しくなるといったこと。
私の一生を私自身が認識するとしたらどのような形で私はそれを把握できるだろうか。私はこれまで生きてきた 23年間の記憶を元に、私はどのような経験をしてきたかを振り返ることができる。
私の記憶は所々曖昧で必ずしも正確なものでないが、それらは私のアイデンティティの基盤となっている。
私のアイデンティティを構成するのは必ずしも今の私の現状のみならず、私がこうありたかった私という(現状の世界からみて)可能世界における
私がどのような人間であり、どのような人間でありたいかという自分の今とこれからの自分に関わる思いは、これからの私の人生という可能世界についての情報を持っている。
どのような人間になりたいか(でありたいか)という思いを実現するための行動様式はいくつかあるだろう。理想が高ければ時間的生理的経済的もろもろの制約のため実現可能な行動様式は限られてくる。
ゲームとして捉えることでより客観的に分析的に戦略的に行動することが可能になる。自分の世界を構成する知識の偏りを定量的に把握できるようになれば、自省的
リアルの虚構性を多元的に捉えることによってリアルというゲームにのめりこみすぎることを防ぐのに貢献するのではないか。無理ゲ― (勝ち目のない戦い)に真面目に取り組んでいたら人生の破綻につながりかねない。大きく負けないリスクヘッジされたルートを選ぶのが