書きたいこと
ジャンク
「何を教えるか」の更新。
まえがき?本書の扱い方
子どもたちも先生たちも多様。自分の文脈に合わせた工夫を
この章からは、「けテぶれ✕授業」について更に具体的に述べるために、僕が授業で活用している道具や、構築しているシステムに付いて紹介していきます。読み進めるにあたって注意していただきたいのは、論が具体的になればなるほど、文脈依存性が高まるということです。言い換えると、「“僕という教師が行う実践”という文脈の上で成り立っている」という性質が強くなるということであり、「皆さんの実践という文脈の上で成り立つかどうかはわからない」ということです。
もう少しうと、ここから書く内容に関しては、ぜひご自身の文脈に合わせて色々と試してみてほしいという思いがあります。(一方僕自身は、具体的に語るということの意味を十分理解した上で、本に記述するに値するほど効果が期待できるアイディアを厳選して、掲載しています。)
この「自分の文脈に合わせて色々と試してみる」という行為は「けテぶれ」で子どもたちにもとめている行為そのものでありますし、以前、けテぶれに関するアンケート(130名の回答)をとった際には、「けテぶれがうまく行かない」と答えているひとの中で「自分なりの工夫をしている」と答えた人は0人でした。つまり、そのアンケートでは「自分なりの工夫をしている」と答えた人はすべて、「けテぶれがうまくいっている」と回答していたのです。
こういう結果を見ると、知行一致が教育の原則であることが思い出されます。けテぶれに取り組まれる先生は是非、「自分もけテぶれを回す」という意識を持ち続けてください。
けテぶれの考え方を授業に取り入れたところで、子どもたちが全員意欲的に、学びに一心不乱に向かうかといえば全くそんな事はありません。特に1学期の始め頃には、上で書いたような姿は何度も見られます。傾向として、低学年(もしくは男子が多い学年)は、学びを任せると教室の中は異常に騒がしくなり、ひどいときにはプロレスが始まることだってあります。高学年(もしくは女子が多い学年)は、その逆で、自由に動いていいよ!といっても周りを伺ってなかなか動き出さず、全く盛り上がらずに終わるという状態になることが多いです。でもその姿を否定したり、嘆いたりしたところで何も生まれません。けテぶれ✕授業が作用するのは、この後です。失敗を受け止めて、次の一歩をどう出すか。ここにけテぶれ思考が生きてくるわけです。
一方子どもの世界に目を向けると、旧来の学校は過度に正解を押し付け、子どもたちの豊かなトライアンドエラーを押さえつけてきました。他者から正解を強要されない”全面的に自由な場”でこそ、子どもたちは自分の外側にある正解ばかりに目を奪われず、自分の内側から出る声に耳を傾け、自分なりの正解を一人ひとりが追求して行くことができるのだと思います。だからこそ【破】では大きな自由を与えることを勧めてきました。
しかし、自由な”だけ”の空間ではバラバラになってしまう。そこで、全員で「自分なりの学び方を探求する」というテーマを共有するからこそ、自由な空間が、悪い意味での”何でもあり”の空間になることを防ぎます。
視点2:学習力のABC+1によるルーブリック評価。
実際にやったことが明確になれば、その中での自分の行動を詳しく振り返ってみます。使うのは「学習力ルーブリック」です。いわゆるパフォーマンス評価というものですね。ルーブリックに照らし合わせて自分のパフォーマンス(学習行動)の質を判断するのです。これを繰り返していけば、子どもたちは、活動の最中にもこのルーブリックを意識して、自分の学習活動を調整することができるようになってきます。僕はこれを「視点が身体化する」と言っています。リアルタイムに、このルーブリックの視点を使って自分の学習行動をモニタリングしながら、調整できるようになれば、子どもたちの学習活動の質はかなり上がっていることになりますよね。(学習力ルーブリックについての詳しい説明はP○)
視点3:点数評価(主観感覚+数字)
計画への丸付けと、ルーブリック評価が終われば、その時間の学習の質を100点満点でどれくらいだったかを感覚的に点数化します。客観的で精緻な分析と共に、主観的な評価というものもまた、自分の行動を振り返るときには有効だと思っています。精緻な分析は対象を切り分けて詳しく分析するときに向いていますが、その分、全体構造を失いやすいという欠点があります。感覚的な点数化とこの後の「タイトルの考案」はその欠点を補う、感覚的で、全体的な自己評価です。これらは両輪として自分を見る目としたいですね。
を記録し、蓄積していくことで、それらを思考材料として「自分なりの学び」を探求していくことができます。
では次のステップとはなにか。それは「何が“最も”いいのだろう」という問いを常にもたせることです。すると「練習」の色味が少し変わってきます。(自由を受け取るのも”練習”からでしたね。)今までのように思いつくまま、楽しそうなことをやっていればいいわけではなくなる。「結果」と照らし合わせて、最も良い方法を探究しなければならなくなるわけです。こうして「練習」の色味が変わると、当然そこに接続されている「分析」の観点も変わって来る。なぜなら学習内容についてどれができてどれがイマイチかということを思考するだけでなく、前回の「練習」がきっちりと作用しているのかどうか、ということを考えなければならなくなってくるからです。すると「計画」も「テスト」も新たな意識が芽生える。そこに常に並走する問いが「自分にあった学習の方法はなんだろう」です。
この問いが並走し始めたとき、子どもたちの学びに対する意識が1段上に上がります。学習内容を定着させようという意識+学習方法を工夫しようという意識ですね。けテぶれの本丸はこの意識のレイヤーの上昇にあるわけです。ここを狙いたい。
成長はいつも現在位置からです。今できることからしか積み上がっていきません。前述しましたが4月、学級が始まったときなんかは、去年同じクラスだった友達と固まりたくなるのが自然ですよね。高学年になったら、異性を意識して男女で分かれて固まるのが自然です。“そこから”成長をスタートさせるのです。その状態をただ否定するだけでは、その先には不自然な成長しかもたらされません。まずは教師が子どもたちを信じて、任せて、認める。こういう空間で初めて子どもたちはそれぞれの“現在位置”から一歩一歩進む、という自然な学びを積み上げることができるようになります。
教科の専門性、教科独自の見方考え方に関する僕なりの見解、は入れるべきだな。
総合もいいよ。
ポイント
上限の開放
勉強とはけテぶれである
勉強を見る視野はいろいろある
経験が、蓄積できるようにする。
本書の位置づけ
宿題におけるけテぶれに取り組んでいる人が、授業にもけテぶれの考え方を導入できるようにする
宿題におけるけテぶれに取り組めていない人が、授業にならけテぶれが導入できるかも!という思いにさせる
授業→宿題へのけテぶれ導入の流れを作る
本書の位置づけは・・・始め中終わりの、始めと終わりの部分。
いま世の中にある子どもたち中心の学びの場の設計は「中」に偏向している。
しかし子どもたちに任せきる前にやるべきことがあるし、活動が終わったあとにもやるべきことがある。
そしてそのやるべきこととは「つなぐ」というアプローチ。一つ一つの活動を強力に連結するからこそ、広く深い学びが生まれる。
ざっくりと「けテぶれ」の概念説明。
目的はいつも「自立した学習者の育成」
学習とは、自分の外側に在る知識技能を自分の内側に定着させようとする努力のことである。
学ぶ、習う。
目標は「けテぶれ」を確実に活用できるようになる。(小サイクルのみでいい)
セカンドステップ:小テストのためにけテぶれをやる。
第1部のゴール:「学習」の定義に照らし合わせて、けテぶれが適用できるかどうかの判断ができ、けテぶれが適用できるとき(学習努力が必要な場面)に確実にけテぶれのサイクルを回せる。
けテぶれが適用できるとき:到達すべきゴールが明確にあるとき(覚えるべき知識がある、習得すべき技能がある)
方法:どうすれば目標をクリアしていけるか。
授業の中で確実に回す
一時間の中で→一単元の中で
一人で→チームで
チャレンジステップ
仲間をつなぐ
質問力
ゆるアツ。
貴方は貴方でいいという深い承認の上にチャレンジは生まれる。
チャレンジを生む土壌は温かい安心感。自分が自分のままでいいという感覚。
指導のイメージ
多様な選択肢はただ与えればよいのではない。同然のことながら、与えれば与えるほど混乱する。混乱を回避するためには、基本的な知識を構造化して手渡すこと。基本的な学び方を「けテぶれ」という構造化された知識として手渡すから、世の中にあふれる種々雑多な「学び方に関する知識」をけテぶれに位置づけて理解できるようになる。これはけテぶれの非常に大切な性質です。
日、ある有名な大学の先生の講演を聞いたのだけど、これからの学びは総合!探究!100マス計算なんてやってる場合じゃない!って言ってて、んーと思った。二項対立で他方を否定している限りはいつまで経ってもシーソーからは降りれないよなーと。
教師が教えてしまえばそちらに流れてしまうから、教師は何も言わない」じゃ何も始まらんだろう!教師は”持論”として徹底的に考えを表明するんだよ!そしてその考えがどう出来上がったのか、他の展開可能性はなにかを示しながら、持論を相対化して、子どもたちの思考材料として手渡すんだよ!
この教室を出てからやれないことは、このクラスが終わった瞬間やらなくなります。
教室を出てからが勝負。クラスが終わってからが本番です。
身近なところで言えば、放課後、土日、家族と過ごしている時、習い事の時間。そういう時間に、このクラスでの学びがあなたを支えていますか?
この教室ではそういうレベルの事を身につけてほしいと思って先生は授業を作っています。
変革のスケール
今学校に求められている変革のスケールは1授業をどうするかという程度の話ではなく、学級を受け持つ1年間、もしくは小学校の6年間、ひいては義務教育過程9年間をすべて飲み込むようなスケールでの再考が求められているのではないか。
1年間を充実させるために1授業1授業を磨くという発想は、できるだけ形の良い石を選び、時には手を加え一つ一つ積み上げていくという印象がある。数個の石ならそれで積み上がるが、一つの石を1授業とすると、1年間で積み上げるべき石の数は約1000個。小学校生活全体では6000個。
義務教育課程全体では9000個である。この数の石を「一つ一つ形を整えて積んでいく」というアプローチだけで積み上げられるとは到底思えない。僕が言う大きなスケールでの提案とは、石の真ん中に柱を通す発想である。一本の柱がそこに通っていれば、少々形が悪い石も難なく積み上がる。
大切なのは一つ一つの石の形ではなく、柱の強さである。ここについて提案し、議論し、強く真っ直ぐな柱を見出そうとするような思考が必要だと思うのだ。そういう柱が合ってこそ、1授業1授業の質の向上にも方向性と一貫性が生まれ、歯車が噛み合ってくるように思う。
全教科、学級経営においてもプログラミング的思考働かせる仕組みを作っている身からすると、旧来の学校のシステムや文化がそういう思考からかけ離れすぎており(トライは認めないエラーをさせてはいけない)そういう文化がこどもたちの思考を鈍らせる。変えたいなぁ。
マリオやってる時に、みんながあのドカンまでたどり着くまで待ってなさいとか、そのステージのことはまだ説明してないのに勝手に進むなとか、次のステージでは飛ぶカメが出てきて…はい〇〇さん、なぜ聞いてないの?今の先生の説明もう一回言ってみなさいとか言われたらもうマリオやる気なくなるよね。
今はなんだか、自由!子供たち主体!とそういう風潮にあるけど、それは教育の"真理"ではない。
これまでの教育が過度に管理教師主体だったので、揺り戻しが来てるだけ。
教育は自由と管理、子供と教師。両輪としないと進まない。両エッセンスをどう配分すれば学びが最大化するかを見極める必要がある
そうなると、いま教育界にかけてるなぁという視点がこのツイート。子供たちの外側の世界にある"正しい情報"を受け取らせようとばかりして、子供たちの内側にある"自分についての情報"に触れることに全く目が向いていないように感じる。
世界についてどれだけ詳しくなろうと、学問についてどれだけ詳しくなろうと、自分についてなにも知らないんじゃあ、自分の人生を輝かせることはできないよ。自分を知って、自分を自分が思ったように動かせるかな?そういう努力って必要だと思うんだけどなぁ。#けテぶれ
”基本的に管理された環境の中で、部分的に手渡す自由”
ではなく、
”基本的に自由な環境の中で、自分で自分に与える管理”
という発想の転換。これをベースにした教育。
こういう「なんでもできる機械」を渡すなら、そういう教育のあり方を同時に考えなきゃいけないと思うよ。
教師の仕事は「みんなが走りやすい線路を作る仕事」から「子どもたち一人ひとりに、車輪を育てる仕事」になるとも表現できる。
「教材研究」はいいんだけどさ、教材を「学習」するんだったら「学習研究」も必要でしょ?つまり「学習って何をすることなの?」ってこと。この答えの解像度が低かったら子どもたちは「教材」を楽しむことはできても「学習」ができるようにはならないんじゃない?
なんでいきなり一斉指導から入るのかわからない。単元頭のイントロダクション的なことならわからなくもないが。それ以降内容的なことに関して、なぜ全員の動きを止めて、指示に従わせるのか。教科書を自分でよんで理解できる子が0人って言う前提?そりゃないよ。
やってみて、もがいてみて、あらー、、これはー、、よーし!!みんなちょい待ち!!って入るものじゃないの?一斉指導って。必要があるから、やるんだよね。
教科書が面白くない?そりゃYOUTUBERは教科書より面白く説明してくれる。でもね、誰かに面白くしてもらわないと物事を面白がれない自分でいいのかい?それじゃ君はいつまでたっても世界のお客さんだよ。
自分の外側ばかりを見ないで、自分の内側に目を向けてみて。なんでも楽しめる自分になろーぜ。
けテぶれ授業革命で書きたいこと
僕はよく「ご自由にどうぞ」といいます。例えば朝会が早く終わって1時間目までの時間があるとき。身体測定が終わって教室に帰ってきてから。慣れてきたら、出張や授業研究で教室を自習にするときも。ここが本番だと思っています。自分で自分の時間を充実させようとすることって大切ですよね。
「楽しいからやる」はみんな経験している。でも「やるから楽しい」は意識しないと経験できない。
「幸せだから笑顔になる」はみんな知ってるが、「笑顔になるから幸せ」ということは意識しないと分からない。
この辺の仕組みに意識的にならせてあげるのも「一生使える力」だよなぁ。
いっこいっこの授業準備を丁寧にする前に、どの授業でも使える学びの型を作り、定着させる努力をするほうが圧倒的にコスパ高い。表面的な学びを自動操縦モードにできれば、教師は学び方や、子供だけでは気づけない深い学びへの助言ができる。教材研究が活きるのはここ。
表面的な学びをできるだけ自動操縦モードにする。
子どもたちだけで進められるように。
そうすれば教師は子どもたちの学びの中から、学びを深めるトリガーを探し見つけ次第問いかけるといった関わりができる。これが自然。
たまに葛原先生の実践は賢い子じゃないとできないと言われる。そういう人には、あなたが、今「賢くないからできない」と線を引いたその子に対して、どれほどのアプローチをしたのかと問いたい。僕の実践はむしろ、一見そうした線を引かれがちな子を覚醒させる実践であるといってもいいと思っている。
正しく失敗させ、豊かに悩ませる。
めちゃくちゃわかります。そういうケースが本当に多い。ではどうするかと言えば、正しく失敗させ、豊かに悩ませる。きっかけを与え続ける。すると少しずつ顔が上がり始める。点数が伸びる前に、背筋が伸び始める。教科の力がつく前に、目に力が宿り始める。そこから。全てはそこから。
【せんせー〇〇していいですか?】
僕の返答は殆どの場合「いいよー。なんで?」
まずは全部OK。理由を聞いて微妙だったら、
「あーなるほど。でもそれってこうなる可能性ない?」
すると「んーたしかに」
そこで「ま、やってみるか!やっぱ微妙だったらまた考えよう!」
ほとんどこれ。BOT
コラム的にこういうのを挟むのはいいなぁ・
けテぶれをやめてしまう先生に多いのが、子供がちゃんとやらないから。という理由です。
学びとは失敗から生まれます。ちゃんとやれない自分に向かい合わせてやれるか。自分をコントロールする大切さと難しさに向かい合わせてやれるか。教師の腕の見せ所です。#けテぶれ
教科を教えるのか。
教科を通して力をつけるのか。
小学校の先生が狙うのは、教科をまたいだ抽象的な大きな力。
知識のインプットの方法。
考えのアウトプットの方法。
その力を養うために、教科の学習を利用するのです。
それが小学校教師が全教科を担う理由です。
教える喜びは誰が受け取るべき?
自分の説明で相手が「なるほどわかった!」って言ってくれると嬉しい。
じゃあその嬉しさは教師が独占していいの?
子どもたち同士で考えあって、ひらめいて、それを誰かに伝えて「なるほどわかった!」をその子が受け取れる。
日本のミライにとってより大きなプラスの影響を与えるのは後者だと思う
哲学の統一
全国にというか少なくとも一つの学校には統一した教育哲学がないと、全く教育効果があがらないんですよね
いろいろな先生が関わるのは悪いことではないが、そこでの哲学があまりにもバラバラで、子どもたちに積み上がるものが少なすぎる
高学年になると自分の持ち時間がかなり少なくなるので余計に。
新しい実践はよく考えずに取り入れるべきではないとよく言われる。
まあそれもそうなんだけど、
実際にやってみて子たちの様子を見て考える事が
よく考える上では最もいい。
だから僕は、よく考えてから取り入れて下さいではなく、
取り入れた後も考え続けて下さいと言いたい。
できる子はいいけど、できない子はどうするの?
旧来の教育パラダイムはここから抜けられていない。だから新しいものを見るとすぐこれをいう
できる子とできない子がいるから深まる。その分布が分野によって変わるから支え合える。そこに教科の学びを超えた学びがあり、それこそが社会なんだって
けテぶれの自由提出制について。
これはけテぶれをやる上で必須ではありません。僕も自由提出制にしたのは去年と一昨年のみですし、それが唯一の正解だとも思っていません。それをするからには学校での学びのあり方、考え方、システムをかなり精緻に整える必要があると、個人的には思っています。
けテぶれのそもそもの出発点は、無思考で無意味な作業的課題をなんとかしたいと言う発想。もう少し言うなら、「全員に課すに値する課題とは」という問いに対する答えです。つまり、けテぶれなら全員に課す価値がある、と思って始めたこと。最終的に自由提出的な環境は理想の一つかもしれませんが、けテぶれという自己改善サイクルを身につけるという目的の上で、全員に取り組ませる、ということも十分に有意義であると思います。少なくとも無思考で作業的な課題を課すよりは、遥かに。