好きな者同士で固まってしまう!
何が悪いのでしょうか
学習が進まなくなる。
たしかにそれは悪い。
では安心して話すことができないメンバーと一緒に勉強すれば、学習は進むのでしょうか。
無駄なおしゃべりは減り、一見ちゃんと学習できているように見えるかもしれませんが、それは「一緒に勉強をしているだけ」の姿であり、お互いの考えを混ぜながら「深め合う学び」にはなっていないのではないでしょうか。
後者のような学びを生むためには、「なんでもいいたいことが言える安心できるグループ」で勉強するほうがいいのではないでしょうか。
教師でも研修で無理やり一緒にされた初対面の人たちとグループワークをするよりも、気の知れた同僚と飲み会をするほうが教育について深く話し合うことができることって珍しくないですよね。
学級の始めは旧クラスのメンバーで集まるのが普通だし、高学年になれば男女で別れてしまうのが自然です。
その「自然状態」からしか、ほんとうの意味でのチャレンジは生まれないんですよ。
それをベースにして、目的に合わせて目標と手段を調整していく
目的はいつでも「賢くなる」ことです。そのために異性との壁が賢さの広がりを阻害していると判断できれば、それを乗り越えることを目標にすればいい。
その壁は別に性別に限定されたことではなく、自分は結局中のいい、喋りやすい人とばかり勉強していると気付き、その外側に学びを広げるべきだと判断すれば、それを目標にチャレンジすればいい。
このとき教師はもちろん、そういう越境の価値を語ることができなければなりません。
なぜ異性で学び合うことが賢さにつながるのか、なぜ仲良し同士で固まっていることがもったいないのか。
このあたりは教師がちゃんと語ることができなければ、子どもたちのチャレンジは当然ながら生まれません。
事前状態から始めること、教師が価値を語ること、その価値をどのように受け取ってどのように行動に移すかを子どもたち一人ひとりが個々に判断できるようにすること。
こういう環境の中で徐々に個々に、安心できるフィールドを広げていく。
こういうアプローチが大切ではないでしょうか。