六自の螺旋
本書で提案する学びの在り方〜自学、自由、自分、自在、自信、自然〜
一言で言うなら、教科書とノート、ドリル、タブレット、あらゆる「手段」を使って、アナタの学びを充実させなさい。自然に響き合う子どもたち。六自の螺旋。 自学→自由→自分
けテぶれで子どもたちがチャレンジするのは「自学」です。それは学校の先生に「1ページは必ずやりなさい」と丸投げされて、とりあえずページを埋めることを目的にやる“作業”ではありません。やるべきことと、自分の状態を常に意識しながら、方法を工夫し、“自分で自分を動かす学習”のことです。
そこには全面的な“自由”が必要です。自由な空間でしか、自己選択、自己決定を積み上げることはできません。目標のためなら、何をどこでどのように学んでもいい。こんな空間で子どもたちが出会うのが「自分自身」です。誰にも指示されない空間で選択した行動の結果はすべて自分の責任として受け取らざるを得ません。「だって先生が嫌だから」とか「だって無理やりやらされたから」とか「だって他の方法がいいと思っていたから」とか、そんな言い訳は“全面的に自由な空間”では一切通用しません。そういう状況で始めて子どもたちは「自分」というものに向かい合わざるを得なくなるのです。子どもたちの在り方に深く根付く成長はこうして「今の自分」としっかり向き合うことから始まります。
自由な空間とは、一見キラキラして楽しげに聞こえます。実際に子どもたちもすぐに完全に自由な空間を楽しみ始めます。しかしその楽しさは、今までの管理的な環境からの開放感からくる楽しさであって、学ぶことそのものを楽しめているわけではないことが多いです。何をやってもいい自由な空間とは、自分と向き合い、自分で考え、自分で行動しなければ何も起こらないとても厳しい空間なのです。友達とダラダラと喋るという選択も、ひたすら寝ているだけという選択も許容されてしまう。どんな選択もできてしまうからこそ、自分で自分を管理する必要性を感じることができるのです。そして、自分とは異なる選択をした友達の姿を目の当たりにするからこそ、行動の価値を客観的に知ることができるのです。
こういう環境の中で自己選択を繰り返し、その結果を振り返るという経験を大量に積み重ねることで、子どもたちは日々、自分は、何をしている時が楽しくて、何をしているときはつまらないのか。◯◯の行動をするとどんな気持ちになるか。□□の気持ちでいるためにはどんな行動をしていればいいのか、実際にその行動を取り続けるためにはどうすればいいのか、ということを思考し続け、自分と自分を操るための方法についての情報を大量に得ていきます。
○自在→自信→自然
自分についての情報が沢山集まれば、そこに「好き嫌い」が現れてきます。つまり、こうしているときの自分は好き、こんな状態の自分は嫌いという感覚です。これは物事の得手不得手とはまた別の感覚です。〇〇は苦手だけど、苦手に向かい合う自分は好き、という感覚ってありますよね。「対象についての感覚」をたくさん集めることで、「対象について特定の感覚を抱いている自分についての感覚」を感じる事ができるようになるのです。これが「自分はこう在りたい」という“自分のあり方についての軸”を作ることになります。「こういう状態でいるときの自分が好き。だからいつもこう在りたい」という感覚ですね。
自分のあり方についての軸ができてくれば、自分の選択や行動について深い自信と謙虚さを持つことができます。誰かが言ったから…とか、これをすればどう思われるかわからないから…といった他人軸の生き方ではなく、自分はこうありりたいからこうする。という自分軸の生き方ができるようになるのです。その在り方は、決して独りよがりでなく、頭でっかちな理想論でもなく、徹底的に自分の経験から紡ぎ出したという自信。だからこそその在り方は固定的なものではなく、今後の経験で更新していけるものでもあるという感覚。その感覚を持っているからこそ他者の生き方も尊重し、そこに学ぶべきことを見出すことができる。真に自立にした姿とは、このようなこの強さと靭やかさが両立した姿のことを言うのだと思います。
こうなった時、子どもたちは真に「自然な姿」を見せてくれるようになります。そうです。こうして自分の在り方に基づいて生きるというのは、人として自然な姿だと思うのです。それが過度に管理的な環境で、自分の外側にある正解を押し付けられ続けることで、自分を見失い、自信を失い、不自然な姿となってしまっている。僕にはそう見えるのです。けテぶれによる「自学」が本当に目指したいのは、そして「目指せる」のはこういう姿です。“やるべきこと”に押しつぶされるのではなく、かといって、完全に背を向けてしまうのでもなく、“やるべきことに正面から、正しく向かい合うこと”で、“自分が在りたい姿”を見出してほしい。そういう確固たる自信と靭やかな心を持って、どこにも変な力が入っていない“自然な自分”と出会ってほしい。けテぶれの真の願いはここにあったりします。
たかがテストのための勉強」から生み出せる深く大きな学び
人は本来、新たな学びを求める生き物です。自然な姿になった子どもたちは、自然に学び始めます。つまり「自学」。はじめに戻って円環するわけです。でもこのときの「自学」は1周目とは雰囲気が違います。同じ場所だけど1段レベルアップしている。6Gのサイクルはこのように螺旋状に上昇するのです。その先も少し見てみましょう。「自学」の次は「自由」ですね。2周目の自由。子どもたちはここで「本当の自由」を受け取ることができ、その中で「本当の自分、本来のあり方」を更新し続けることができるのです。
僕は学校の先生をしていますが、その経験では、3学期には時間割を子どもたちで決めたり、「何をしていてもいい1時間」を作ってその中で、おしゃべりをしたり、勉強をしたり、読書をしたりしながら、クラス全員で“豊かな時間”を過ごす。ということにもチャレンジしました。同じことを体育館でもやってみると、ボールを出してきたり、フラフープで遊んだり、遊びの種類によってメンバーが有機的に移り変わったり、ととても豊かな時間をクラス全員が過ごすことができました。ほんとうの自由を受け取るとはこういうことではないでしょうか。自分のあり方に自身を持って、自然に過ごせる子どもたちだからこそ、こういう時間を過ごすことができ、その中でまた新たな自分を発見し続けられるのだと思います。
けテぶれを合言葉に全面的に自由な空間で、子どもたちが自分に向かい合い、自然に響き合う教室では、こういう円環があるのです。
子どもたちと一緒にけテぶれを頑張ろうと思っているサポーターの皆様。日々子どもたちとけテぶれに取り組むとき頭のどこかでこのサイクルを意識しておいてください。「たかがテストのための勉強」からここまでの学びを生み出すことが可能である、ということを。本書ではこのようなサイクルを生み出すための考え方と、やり方のヒントを紹介していきます。
明治から150年変わらない日本の教育環境が生む問題
一方、現実の世界に目をやるとこういうサイクルとはかけ離れた状態にあることがわかります。小さい頃、好奇心に満ち溢れ、身の回りのこと、世の中のことが知りたくてたまらなかった子どもたちの多くは、義務教育が終了する頃にはなぜか勉強が嫌いになっています。学校には子どもたちが学ぶことを嫌いになる仕組みがあるのでは、と疑ってしまうような事態です。
学校の内情をみればその疑いは更に強まります。学ぶことの目的は「ワークシートに文字を埋めること」「黒板をきれいに書き写すこと」もっとひどいときには「先生の指示に黙って従うこと」といったところまで矮小化され、日々、学校で子どもたちはやらされている行動の意味を考える好きもなく、矢継ぎ早に出される指示にただしたがって行動することだけを求められている、というケースが多く見受けられます。その行動に疑問をいだいたり、反発したりすれば厳しく叱責され、周りからの同調圧力がかけられる。そんな中でどうやって学ぶことを楽しむ事ができるのでしょうか。
さらにこういう構造は「子どもたちに学ぶことを嫌いにさせる」という結果を生むだけにとどまりません。これだけでも日本社会にとっては大きな痛手のハズですが、これは更に大きな問題もはらんでいます。その問題の発生源は「学校生活で、自分で考えて自分で行動する機会が皆無」という点にあります。前述したとおり、多くの学校で日々行われている教育活動の底流に流れる意識は「指示通りに動け」というものです。教育活動とは突き詰めれば子どもたちを指示通りに動かすことでしか成り立たない、という議論もわかります。しかし、その指示の目的があまりも近視眼的かつ独善的である場合が多い。別の言い方をすると「子どもたちを管理するための指示」なのです。「子どもたちを成長させるための指示」になっていない。そこに問題があると思っています。
そんな環境で管理され、自分で選ぶという経験をさせてもらえない子どもたちは、「自分」について全く知らないまま成長してしまいます。「自分で選ぶ」という行為を成立させるためには「自分」についての情報が非常に大切なのです。自分は何が好きで何が嫌いか、何が得意で何が苦手か。そんな自分についての情報がなければ、自分の行動を自分で決めるということはできません。そしてそんな自分についての情報は、管理的でない自由な空間で、自分で選んで自分で行動するという経験を通してしか集めることができないのです。これは前述したとおりですね。
そういうことをさせてもらえず「自分」について何も知らない子どもたちは、高校進学時に突然、「自己選択」を迫られます。でもその判断材料である「自分についての情報」は持っていない。その結果、子どもたちは「みんながいいと言っている高校」「友達がいく高校」「自分の学力で到達できる高校」(学力という自分についての情報だけはテストで示されている。)といった選択しかできません。「自分がやりたいこと」という積極的な理由ではなく「みんなが行く」といった他人軸の理由や「自分が行けるところ」といった消極的な理由でしか選べないのです。その構造は大学受験時にも再生されます。
次に起こる失敗が大学生活です。大学生活ではこれまでの環境とは比べ物にならないほど大きな「自由」が手渡されます。この「自由」の受け取り方に失敗するのです。今までずっと「管理」されていた子どもたちに突然自由を手渡しても、その状況をうまく操ることはできません。なぜなら自由な空間で動かすべき「自分」についての情報が無いからです。その結果、学生生活を無為にしてしまう学生が多く現れてしまいます。享楽的、もしくは近視眼的な行動しか選択しないまま学生時代を過ごすことの問題は就職活動時に顕在化します。
行きたい企業がない。やりたいことがわからない。得意なことがない。そんな学生はまた、なんとなく良い企業、とりあえず自分を拾ってくれる企業という理由でしか就職活動を行うことができません。そして面接ではその面接官が求める“イイコト”を言う、という他人軸の受け答えをし…と、このループは無限に繰り返されていきます。
両輪
さて話を戻しましょう。このループの起点はどこでしょうか。“小学校”には、このループを作る原因は無いのでしょうか。ここから思考を始めなければならないと思います。ここから変えなければならないのだと思います。「管理」から「自由」へ。「先生が教える」から「子供が学ぶ」へ。「自分の外側の正解を飲み込む」から「自分の内側の感覚を紡ぎ出す」へ。そして両辺を見た上で、それらを両立させなければなりません。「管理」だけでは豊かな学びが生み出されないのと同様に、「自由」だけでもだめなのです。いかに「自由と管理」を両輪とできるか。「先生が教えると、子供が学ぶ」、「正しい理解と、自分の解釈」。これらを両輪とするためには何が必要か。思考し、試行し続けなければなりません。本書ではこのような問題意識から、僕が現場で徹底的に繰り返してきた思考と試行の結果見えてきた一つの解を示します。あくまでも「一つの解」です。本書の内容が、これを手にとって読んでいただけているみなさんの思考と試行の一助のなることを祈っています。