すべてを教師がお膳立てしようとする努力
すべてを教師が教師が仕立てようとする。
個々で勘違いを生んで、個々で揺さぶって…と。
描くのは悪いことではないが、描くのなら単線のストーリーラインを描いて満足してはいけないと思う。
子どもたちの反応が単線型に進むことなんてありえないのだから。
多くのストーリーラインを考えて、子どもたちの反応を見て臨機応変に展開を変えていく。
こういうことができるほどに、網目状に展開を張り巡らさなきゃいけない。
付属の授業を見たときなんかはこれを感じた。事後検討会でAという反応が出なかったら、Bという展開にしようと思ってましたという話が永遠にでてきて、すごいな、と思った。でも同時に、それを全教科毎授業準備するのは可能なのだろうか?という疑問が浮かんだ。
まずは専門の教科を持って…という話も聞く。だが、教師は毎日、全教科の授業をするのが基本だ。その時、国語の専門性を磨くぞ!と力を入れることは全く否定しないが、それは他教科では指導書をなぞって黒板を写すだけの授業をやっていればいいということには絶対にならない。
6時間のうち、1時間は面白い授業で、5時間が面白くない授業だったら、子どもたちの認識は「国語は(先生が頑張ってるから)面白いけど、勉強そのものは面白くないよね」となる可能性は高くないか?
しかもこの話は、国語科の全単元、全授業において複線型に展開を張り巡らせ、臨機応変に授業を展開させられたら、という前提で話している。その域に達するまで何年かかるだろうか。
小学校の教師は全教科を教えるとともに、1〜6年の全学年を担任する可能性もあるのだ。6年生の国語科の教材研究と授業展開を整備しても、次の年は1年生の担任、なんてことは往々にしてありえる。同じ学年を何年も連続してもつということのほうが珍しい。
そんな中「専門性を高める」という努力のベクトルは途方もない道のりであることが分かる。専門とは狭い領域について精緻な認識が構築されている状態のことである。
それに対して小学校教師が対処すべき対象が広域に渡りすぎているのである。
だから、専門性を高めるという努力はいつまで経っても実を結ばず、どこまで行っても「勉強中」となる。
謙虚にいつまでも学ぶ姿勢はもちろん大切だが、一方では腰を据えて自分なりの答えを表明できる、ということが無いと頼りない。
教科の専門性を高めるという努力は後者の状態になるのが非常に難しい。
ではどうするか。本書はそれに対する答えであると思っていただいていい。
専門特化的な知識構築がしにくいのなら、広い範囲を包括する汎用的な知識構築を目指せばいい。
国語も算数も、体育も学活も「学び」の場であるはずである。では「学び」とは何か。それはどのような活動のことを指して、その活動を高めるにはどうすればいいか。こういう視点で授業を眺めれば、全教科、全授業に一貫した努力の背骨が通る。教科も関係なければ学年も関係ない。
教師は教科の専門家である前に、「教育」の専門家なのだ。教育そのものをまるごと捉えて、その範囲における「専門的な知識」の構築を目指すべきではないか。