「練習」から拡大していく
けテぶれにおける「練習」で”自由”を受け取る練習をしている。
けテぶれのれは自由度が高いという話をした。
その中で自分個人として取りうる選択肢をボトムアップ、トップダウンを両輪としながら伝えていく。
自分の学びの深さに注意を向ける。
その上で「練習」の選択肢を更に広げていく
一人では分からない問題も友達と協力すれば分かるかもしれない
基本的にはこの発想でいい。
始めはこれが一番わかり易い。
自分で「分析」して分からないなら、人に聞く。
もしくは自分で「説明」してみてわからなくなったら人に聞く。
学級によって様々だが、まずはこのシンプルなルールで、授業時間は必要に応じて動いていいのだと言うことを伝えていく。
ぐちゃぐちゃになったら即止める
この「必要に応じて」が曲者。
慣れてくると子どもたちは、なんの必要性もないのに立ち歩いて友達のところに行ったり、始めは必要性を感じて移動したけど、その必要性が満たされても自分の席に帰らず、友達と一緒にダラダラと過ごすといった姿を見せる。
こういう失敗は度のクラスでも確実に起こることであり、こうなってしまったらだめだというわけでは決して無い。
もちろん在るべき姿ではないのは確かだが、こういう失敗を自分たちで受け取り、分析して、そうならないように練習を積み重ねないと、「授業中、必要に応じて動く」ということができるようになんてなるはずがない。
けテぶれ思考である。
そしてけテぶれにおいて最も大切なのは「厳しく正確な丸つけ」だ。
子どもたちが自由に動くというテストに対して、間違いが発生すれば、それは間違えている、ということを伝えなければならない。教師の仕事はここにある。
学級に緩んだ空気が流れたら、即学習をストップさせて、今の学びの姿が正しいかどうかを考えさせる。
そこで大切なのは「先生には、間違っているように見える」という言葉がけである。
間違っていると断罪するのではなく、先生は間違えているように見える、とあくまで主観的なフィードバックをする。
その判断をした根拠を淡々と挙げていく。
個々人で考えなさい
自分が間違っていたと思うのなら、正しいと思う学習に切り替えなさい。
正しい学習をしていたと判断できる人は、引き続きそれを続けなさい。
最終的に判断を下すのは君たち一人ひとりです。
これが大切だと思ってる。教師が断罪し、指示通りに動かそうとするのではない。
教師は教師としての見方を伝え、それを受けて自分はどう行動するかをまた子どもたちに委ねていく。
これの繰り返し。
動かないなら「お試し体験」を入れる。
お行儀の良いクラスや、これまでの学習歴の中で厳しい規律のなかで過ごして来た子たちは、動いていいよと言われても、動けないことが在る。
その時は、お試しとして「強制学び合い」を取り入れる。
今日は一人で「練習」することを禁止します!という。そして友達と関わり合う良さを体験させ、いいと持った子は、これも取り入れてね、とする。