「けテぶれ」が生む学びとは
学び方を学ぶことができる
これは想像通りですね。世の中に「効率的な学び方」についての本は溢れかえっています。これはそういう情報のニーズの高さを示すと同時に、唯一絶対の勉強方法がないということもまた同時に示しています。 もしそのような方法があるのなら、それを解説する本が一冊あればいいだけですからね。いくら「科学的に」その正しさが証明されようとも、それが「わたし」に合うかどうかはわからないのです。
だからこそ、それは自分で見つける必要があります。「学び方を学ぶ」には、ただ絶対的に正しい方法論を学べばいいだけではなく、科学的な知見も一つの情報源として相対化し、それら一つ一つを実際に自分で手にとって、その感触を確かめていく、というプロセスが必要なのです。
けテぶれはそのプロセスを保証します。けテぶれの「れ」では、苦手にあった学習を良いと思う方法で実行しましょう、という過程です。ここでは大きな自由度が保証されています。子どもたちはこの「れ」において、絵を書いたり、語呂合わせを作ったり、音読をしたりと、さまざまな勉強の方法を試していきます。その中で「自分にあう方法」と出会っていくのです。
ちょうど、服屋さんで試着するのと同じような感じです。良さそうだな、と思えば試着をして着心地や自分に合うか合わないかを確かめる。けテぶれの「れ」ではこれを「学び方」において毎日繰り返します。
自分をコントロールする方法を学ぶことができる
「自分の力で勉強をすすめる」ということに挑戦するとき問題になるのは、「自分に合う学び方とはなにか」ということだけではありません。そもそもやる気が起きなかったり、継続的に取り組むことができなかったり、適当にごまかしてしまったりと、そもそも勉強をやるかやらないかという次元での葛藤や失敗も多く発生します。一見ネガティブな場面ですが、こういう場面でこそ生まれる学びもあります。一言でいうと「自分で自分をコントロールする方法」についての学びです。
自分はどんなとき、やる気を失うのか、逆にどんな環境を整えればやる気が出てくるのか。学習をさぼってしまったとき、自分はどんな感情になるか、思いっきり頑張った後の感情はどうか。こういうことに向き合って考え続けることで、感情や安易な選択が頭に浮かんだとき、それを律してあるべき行動につなげるにはどうすればよいかということを学んでいきます。
これは学級経営でも非常に大切な態度になりますね。この種の学びが生まれ始めると、次の授業の準備をせずに遊びに行ってしまう、掃除をサボってしまう、カッとなったらひどいことを言ってしまうといったことすべてが「けテぶれ」の対象になり始めます。
自分について学ぶことができる
けテぶれでは、「自分にあう学び方とは」「自分をコントロールする方法とは」と、「自分」と徹底的に向き合います。その中から「自分についての学び」を蓄積していきます。自分は何が得意で何が苦手なのか。好きな事、嫌いなことはなにか。武器は何で、弱点は何か。このようなことを、実際に自分が経験したこと、感じたことを振り返りながら、徐々に、確実に、学んでいきます。
けテぶれは「一生を支える学び」である、と子どもたちには紹介します。もちろん、自分なりの学び方を身につけることも、自分で自分を律する術を学ぶことも、子どもたちの人生を支えうる大切な学びです。しかし、それらのスキルを使って「どこに行くか。何を目指すか」がわからなければ、動き出すことはできません。自分はどう生きたいのか、何がやりたいのか。小学生のうちから具体的な夢をもつ必要はありませんが、その夢を描くための材料は子供のうちの経験に在るのではないでしょうか。その経験を徹底的に振り返り、自分の輪郭や心が向いている方向を知ろうとするような学びこそ、子どもたちの「一生を支える学び」となり得ると思っています。
これも「けテぶれ」が確実に生むことができる学びです。けテぶれを実践する際には、ここまでの学びが目の前で生まれているのだ、ということを是非意識して頂きたいと思っています。
「学ぼう」と思えるように。
泳げない人は、「泳ごう」とは思いません。(泳ぎたいけど、泳げない
学ぼうと思えばいくらでも学べる世の中で、もっとも力をつけることができる人は「学ぼう」と思える人である、といえます。しかし「学ぼうと思わせる」ような関わりは少し不自然です。そうではなく、いつでも学ぼうと思える準備状態を作る、といったイメージでしょうか。