知識の呪縛
知識や能力があるための判断ミス
能力が無い人には能力がある人のことを想像することはできません。モーツアルトはどういう精神状態で作曲していたのかとか、イチローは何を考えながら打席に立っているのか、といったことを想像することは困難です。自分に作曲や野球の才能が有るかどうかは誰でも知っていますから、こういったことが問題になることは少ないのですが、自分に才能が無いのに有ると思って行動すると不幸なことが起こる可能性があります。
逆に、能力や知識が有る人は、それが無い人の状況を想像することができないものです。数学が得意な先生は、数学の苦手な生徒の頭の中を想像することはできませんから、生徒のレベルに合った教え方を工夫することができず、「何故この生徒はこんなことがわからないのだろう」という印象を持ってしまいがちです。昔はその先生も生徒と同じような心境だったことがあるかもしれないのですが、技術や知識を一度獲得してしまうと、それ以前の状況を思い出すことが難しくなります。誰でも子供のころは字が読めなかったはずですが、大人になってしまうと、漢字を読めない人が日本語の文章を見たときの気持ちを想像することは難しいでしょう。一流のプレーヤは必ずしも一流の指導者になれません。
知識を得ることによって知識が無いときの状況がわからなくなるという現象は他人が何かを理解できないことがわからない「Curse of Knowledge]」(知識の呪縛)と呼ばれています。Heath兄弟 (Chip Heath, Dan Heath)の「アイデアのちから」という本では、知識の呪縛の例として、1990年ごろStanford大学のElizabeth Newtonが行なった「Tappers and Listeners」という実験が紹介されています。ふたりの被験者のうちひとりが頭の中に何か曲を思い浮かべ、そのリズムで机を叩いて何の曲かを当てさせます。たとえば「どんぐりころころ」を頭に思い浮かべた場合は「タンタタタタタタタンタタタ」というリズムで机を叩きます。いろいろな曲を使って実験を行なった結果、音を聞いた人間は実際には2.5%ぐらいしか曲を当てることができなかったにもかかわらず、叩いた方の人間は半分ぐらい当たるだろうと予測していたことがわかったそうです。曲を思い浮かべている人間にとってはリズムと曲との結び付きは自明だったわけですが、予備知識が無い人間にはそれをほとんど理解することができなかったことになります。知識を持つ人と持たない人の感じ方の違いは甚大です。 優秀な科学者がエンジニアリング的に疑問がある発言をするのを見聞きしたことがあります。優秀な人なのに何故変なことを言うのかずっと不思議だったのですが、その人物に工学的センスが無いのが原因だということに気付くにはかなり時間がかかりました。私の周囲には工学的センスを持つ人が多いため、それを持たない人のことを想像することができなかったわけです。また私はアメリカやヨーロッパで道を尋ねるのに失敗したことがよくあります。ホテルや店の人に地図を見せて道順を聞いたとき、いろいろ難癖をつけられて教えてもらえなかったことが何度もありました。実は彼等は地図を読むことができず、それを隠すために変な理屈を言っていたのですが、ホテルの人でも地図を読めないことがあるのだということに気付くまでは相当不思議な思いをしたものです。これらはすべて知識の呪縛にもとづく失敗だったといえるでしょう。 機器をデザインする時も知識の呪縛に注意しなければなりません。トイレの操作パネルにテプラが貼ってあるのをよく見かけます。「テプラを貼られたらデザイナの負け」だとよく言われますが、「便器洗浄」では意味がわからないから「水を流すときは〜」などというテプラが貼られていたのでしょう。 http://gyazo.com/4c63d4c29afb76885da49606d93dd777.png
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いったいトイレを使った後で「便器を洗浄したい」などと思う人間がいるものでしょうか? トイレを使った後は「汚物を水で流したい」と考えるのが普通だと思いますが、便器メーカーの技術者やデザイナは日常的に社内で「便器洗浄」という言葉を使っているため、普通のユーザの語彙がわからなくなっているのではないかと想像してしまいました。
画像なぞなぞ認証のような手法が流行しないのも、知識の呪縛が影響している可能性があります。画像なぞなぞ認証では、自分だけが詳細を知っている写真を問題として選ぶ必要があるのですが、ある写真の詳細を自分が知っているときは他人もそれを知っているような気がしてしまいますから、認証問題として強度が弱いように錯覚しがちです。逆に、自分が覚えにくい変なパスワードの場合、他人にとっても破るのが難しいだろうと勘違いしがちです。覚えるのが難しいパスワードは強力だと思う知識の呪縛が存在する限り、この問題を解決するのは難しそうな気がします。 自分が作った機械を世の中に普及させたいのであれば、自分以外の誰もが使えるようにする必要があります。他人の嗜好や考え方を充分想像することができなければ、自分だけしか使えないシステムしか作ることはできないでしょう。他人の頭の中を知るのは難しいことですが、常に他人からのフィードバックに耳を傾けるような努力が必要だということを充分認識していれば、知識の呪縛のために失敗する可能性を最小限にすることは可能でしょう。