長らく問いの主導権を奪われてきた人は、「自分が抱く疑問」に対する感受性や信頼感が下がり、結果的に、「問いが立てられない」あるいは「問いが立てられたという感覚」を持てなくなっている
「イシューでなく、疑問レベルで良い」ということを伝えれば、「そこまで大袈裟に考えなくても良いのか」と救われる人もいるかもしれません。
しかし、問いが立たないという問題は意外に根強いものがあります。
長らく問いの主導権を奪われていた状態で過ごしていれば、「やっぱり自分には疑問ない。独学に値するレベルの疑問が何なのかわからない」と思いかねないということです。
いや待って、それも十分立派な疑問ですよね?
「独学に値する疑問とは何か?」という立派な疑問が…。
《「自分が抱く疑問」に対する感受性や信頼感が下が》っている一例として、「わからない」「難しい」という言葉が、始発駅ではなく終着駅になっている状態というものがある。 #2024/08/01 本書に通底するのは、「疑問はエネルギー」という信念だと思うのだけど、《「自分が抱く疑問」に対する感受性や信頼感が下が》っている人というのは、「疑問」によって、逆に元気を吸い取られてるように見える。
「『難しい』から、◯◯を調べてみよう/やってみよう」(始発駅)ではなく、「『難しい』から、私には手に負えない/誰か助けて」(終着駅)といった感じ。
理解力といった明晰さというよりは、耐性の方がニュアンスとして近い。
明晰
筋道が通って(発音がはっきりして)いて、言うことがだれにでもよく分かる様子
耐性
耐寒性・耐熱性など、環境条件の変化や化学物質などに対する抵抗性
答えをすぐに見つけられる(明晰)ということではなくて、「わからなさ」を抱えたまま走れる(耐性)ということ。
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