既成の選択肢から選ぶという行為は、いっけん理性的な完全情報ゲームに見えるが、実際は「自分」という判断基準を見つけるところから始まる主観的かつ探索的な行為である
息子が小学校低学年の頃、「サッカーでベストなシューズは何か?」という問いの自由研究にチャレンジしました。
サッカー少年だった息子は、スポーツ用品店に行ってはシューズを眺めているほどで、どのシューズがベストなのか、という問いは、当時の彼にとって人生最大のテーマでした。
その興味・関心を宿題の成果に転換できるのであれば一石二鳥ということで、このテーマで自由研究に取り組んだのです。
しかしまず、サッカーにおける「ベストなシューズ」って何だろう?という壁にぶつかります。
それって速く走れること? ドリブルがうまくできること?…実は、「ベスト」という言葉の定義が難しいことに気づきます。
そして、「速く走れる」ことに注目するならば、どういう条件と比較すると良いのか? という検証方法の壁が新たにそびえ立ちます。
実際にシューズを履き分けても、50mを普通に走るだけではタイムに大きな違いは出ません。
だったらどうやって「速く走れる」シューズを評価できるのだろうか?
実際に売り場ではシューズの違いをどう表現しているのだろうか?
ということで、店頭で話を聞きます。
なるほど、蹴ったボールの回転数ということも「ベストなシューズ」の条件になるのか。
これだけの要件があるということは、「一般論としてのベスト」というより、「自分にとってのベスト」を明確にすることが、この研究の答えを出すポイントだと思い至るのです。
ここからの学びは、たとえば将来的に訪れる「ベストな大学はどこか?」「ベストな会社はどこか?」という選択にも生きることに気づかせます。
これらの問いも、一般論で考えても永遠に答えは出せません。
世の中にある多くの選択肢から選ぶという行為は、自分の内側を深く理解しない限り、答えは出せない…。
これも自由研究の思わぬ副産物です。
入り口は単なるシューズ選びだったのが、その先には人生論が広がっていたのです。
普通は判断と決断の区別がないので、無自覚に「すべてが判断」となりがち。 「決断は怖い」という無意識の忌避があるので、「判断」側に流れるとも言える。
ここでの息子さんは、まずはちゃんと「判断」をしようとしたのだろう。
「自ら問いを立てて考える」という経験が初めてなのだから、まずはちゃんと「判断」しようとすることは、極めて真っ当なこと。
ところが「判断」しようとすると、《これだけの要件があるということは、「一般論としてのベスト」というより、「自分にとってのベスト」を明確にすることが、この研究の答えを出すポイントだと思い至る》。
つまり、「決断」という要素が存在することに気づいたわけだ。
「自分で問いを立てて考える」という行為は、「立てた問いに対して、まずは暫定的な答えを出して、それを元手に考え続けるなかで、新たに問いを見つける」というサイクリックな性質があると思っている。 #2024/07/26 ロジカルシンキングの研修などをやっていると、「まずは暫定的な答えを出す」というところに躊躇してしまう人が多い。
これは、単純に「答えがわからない」というよりは、「正解と保証されていない答えを出す」ということに心理的ブレーキがはたらいているのだと思っている。
暫定的な答えを出さないので探索が始まらない。
「決断」が怖いので主観が立ち現れてこない。
この2つが引っかかってしまい、理性的な完全情報ゲームとして問いに向き合ってしまうので、「『まだ』わからない」というふうに、情報集めに終始してしまったり、答えを出したとしても一般論止まりになってしまう。
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