「学び」はほんらい日常的/野生的なものであるにも関わらず、学びの成立要件としての「既存の知識体系のコレクション」「それ専用の『場』でその知識体系の権威である『先生』から授かる」「他者によって仕立てられた絶対大丈夫なプロセス」といった暗黙的イメージは、学びをかえって人生から遠ざけることにつながる
既存の知識をただコレクションしているだけの物知りは、新たな変化に弱いのです。
それよりも、今、目の前にある出来事に対して五感をフルに開放して経験してみることの方が良質な学びにつながるのです。
立派な場所で、立派な先生から教えを受けることだけが学びではありません。
他者が設計し、わかりやすくパッケージングされた学習プロセスをたどることでもない。
学びは、極めて日常的なこと。
私たちが生きることと同義なのです。
「学んでいるビジネスパーソンが少ない」というよくある統計について、いつも感じていた違和感を以前こんなふうに話していた。
https://youtu.be/BYWV0bdCzh4?si=10Kt5ewbLIlwIA1b&t=224
動画内では「既存の知識体系のコレクション」に触れているが、たしかに《立派な場所で、立派な先生から教えを受けること》《他者が設計し、わかりやすくパッケージングされた学習プロセスをたどる》というのも、学びの成立要件としての暗黙イメージに含まれる。
こういう暗黙イメージがあると、学びを「体系的」で「非日常的」なものとして捉えがち。
それが倒錯して今度は、体系的で非日常的「だからこそ」学びなのだ、となり、学びがどんどん人生から遠くなる。
そうすると必然「私は学んでいない」という自己認識が生まれ、その統計的総体として「学んでいるビジネスパーソンが少ない」という「事実」ができあがる。
学ぶことと人生の距離感というふうに考えていくと、最初の入口は学習論なのだけど、出口が人生論になっていく。
「学ぶとは?」という問い(学習論)から入っていくと、《学びは、極めて日常的なこと。私たちが生きることと同義なのです》と人生に接近していく。
これをあらためて引きの目線で捉え直すと、「生きるとは?」という問い(人生論)からも考えられることに気づく。
「生きるとは、学ぶことである」と。
こういう人生論(人生観)に至ると、学びは途端に生き生きと、そしていつも身近にあるものになる。
だって生きることと並走しているんだから。
学習論のアップデートが人生論のアップデートまで遡及すると、「私は学んでいない」という自己認識は減っていくんじゃないだろうか。
人材育成担当者としては、自らの行為(ex. 社員に研修を提供する)こそが、「既存の知識体系のコレクション」「それ専用の『場』でその知識体系の権威である『先生』から授かる」「他者によって仕立てられた絶対大丈夫なプロセス」という学びに対する暗黙イメージを増殖させてしまう危険性をはらんでいることに自覚的になる必要がある。
人材育成担当者が真に目を向けないといけないのは、社員の学習論のアップデートなのだろう。
《今、目の前にある出来事に対して五感をフルに開放して経験してみる》社員が多い会社とは、強いんじゃないだろうか。
もちろん、直接的にそこを狙うことはできないのだけど、学びは身近にあるのだというイメージを、個別の打ち手の背後に通底させることが必要。
そのためには、人材育成担当者自身が、自分の学習論をアップデートすることから始まる。
《ぼくが思う世界へ まずぼくが歩きだすんだ》
https://www.youtube.com/watch?v=dTcbi9uunO8
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https://gyazo.com/d5827e2ef9ba3dc93af7854e338388d2