「学び」の本質とは、ある経験を「する前」と「した後」の差分であり、「それっぽい一般論」に還元しきれないその人固有の知的遭遇である。
「学び」というのは、「誰かが設計してパッケージ化したものばかりではない」、ということを序文でお伝えしました。
では、「学び」の本質とは何なのでしょうか?
それは、一言で言えば「経験の前後の差分」です。
とある経験をする前の自分(A)と、その後の自分(B)の差分(B-A)こそが「学び」の正体に他なりません。
(中略)
参加者が、前回のセッションで刺激を受けたのは事実でしょう。
しかし、先ほどの「経験の前後の差分」(B-A)という定義に照らし合わせれば、このアウトプットは「学び」ではない可能性が高い。
なぜならば、おそらく「自分に素直になった方がいい」とか、「自己開示は重要だ」というコメントは単なるA、つまりこのセッションを受ける前から知っていたことのはずだからです。
(中略)
したがって、「前回のセッションで初めて知り得たことは何ですか。 前回のセッションを受けていなかったら気づけなかったことは何なのでしょうか?」という問いかけをしていくのです。
(中略)
「なるほど。ただ、コンプレックスを感じているところは素直になれない、ということも、一般論として知っていそうなことですよね。本当はもっと重要な気づきがあったはずなのに、既知の一般論で上書きしてはいませんか。今回のワークでの対話を思い出してみてください。
業績について対話した時に、取り繕ってしまったのですよね。その時に何を考えていたのですか?」
(中略)
「私にとって業績の件は、まだ気持ちの整理がついていないということだったのか。
自分の中では、過ぎたことだから忘れようと思っていたのですが、根強く残っていたんですね。
だから、その件に触れられた瞬間、思考が定まらなくなってしまった。
業績の責任の件については、ちゃんと上司を交えて整理をつけた方がいいですね」
この「自分は業績問題について、上司に対する感情的なしこりが根強く残ってしまっている」という気づきは、ワーク本来に期待された学びではないかもしれません。
しかし、本人にとって、ワークの前後の差分は明確にそこにあった。
だとしたら、それこそが貴重な学びになるのです。
他方で、研修参加者の冒頭の発言にあった「自分に素直にならなきゃいけない」という言葉は、とても響きが良いですし、ワークから期待されるような学びの言葉なのかもしれませんが、それは単に知っていたことを語った表面的な「感想」に過ぎません。
こういう「それっぽい一般論」は、私たちの本来の学びに蓋をしてしまうのです。
私たちが本気で学ぼうと思うのであれば、すぐに忘れ去られてしまうような「それっぽい一般論」をそのまま放置してはなりません。
そういうきれいな言葉を排除して、知的な負荷をかけながら、裏側に隠れている「経験の前後の差分」を削り出していかなくてはならないのです。
《「学び」というのは、「誰かが設計してパッケージ化したものばかりではない」》と《この「自分は業績問題について、上司に対する感情的なしこりが根強く残ってしまっている」という気づきは、ワーク本来に期待された学びではないかもしれません》の符号
本人も、提供者側も縛られている可能性がある
《知的な負荷》
たとえば、受講後アンケート。
そこから《削り出して》いくという《知的な負荷》をともなう作業が本来的には必要。
そこまで深い学びを経験すれば、おそらく、「新しい自分に出会う」という感覚を覚えるだろう。
一方、《それっぽい一般論》止まりの場合は、出会う相手は「自分」ではなく、実体のない「気分」「雰囲気」でしかない。
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