「人生」は、その人の人生における「初めて」の連続と蓄積とから形作られ続けるのだから、本人による価値評価は常に遅延評価になる
私が「良い学び方」は「良い生き方」につながっていく、と言うのも、ここに理由があります。
「なぜ生きるのか」という理由を最初に問うたとしても、それがわかる人は稀でしょう。
多くの人は、人生の終盤になってからようやく答えが見えてくるものなのだと思います。
「Why」がわからないステージで、無理にそれらしい理由を捻り出すのも一つのやり方かもしれません。
しかし、まずは自分の心が動くところに意識を集中して、「Why」が立ち現れることを辛抱強く待つ。
これが、本書の基本スタンスです。
みんな1つ目の人生を生きている。
だから、人生というものは、その人にとっては、すべて「初めて」の経験だ。
だから、事前に「わかろう」とすることに無理筋がある。
「わかっている」ように見える人に対する「人生2周目」という言い方はこれを反映している。
それでも、「事象としてなにが起きるかわからない」という点について「わかろう」とすることは可能だ。
それが(本書で言うところのよりも狭義ではあるが)学ぶということだろう。
先人の知恵や最新の知見を多く手に入れることで、「事象としてなにが起きるかわからない」という霧を晴らそうとする。
ちなみに、霧の晴らし方にも「法則」と「論理」というグラデーションはある。
一方、真に無理筋であるのは、「私はこれからどうなっていくのか?」という自分自身にまつわる事象についてであったり、それを考える(というか選び取っていく)うえで避けて通ることのできない「私はこれからどうなっていきたいのか?」という自分自身そのものについて「わかろう」とすることだ。
「私はこれからどうなっていきたいのか?」は、「人生」それも「私の人生」についての希求であるので、それについての外在的な先人の知恵や最新の知見はない。
先人の知恵や最新の知見があるのだとしたら、それは「あとになってからの自分」という事後的かつ内在的なもの。
だから、「自分の人生」についての、本人による価値評価は常に遅延評価にならざるを得ない。
どこまで外から入れ知恵したとしても、「腹の底で」どう思うかは、そのときになってみないとわからない。
そのときになって思うことが、「腹の底で」思うことなのかもしれない。
ところが世の中的には、自分の人生に対して「前もって」評価/判断を求められる。
この力学は単に世の中、もっと言うと経済(将来の不確定要素にべットすることでリターンを得ていくというメカニズム)からの要請でしかないのだけど、そういう空気のなかにどっぷり浸かっていると、さもそれが必然であり、もともとそういうふうになっている、そうするのが当然であるという感覚に傾いていく。
すると自分の中に不協和が起きる。
本来はすべて「初めて」の連続と蓄積なのだから遅延評価せざるを得ないのに、前もって評価/判断しようとする。
だから、キャリアについて私が話すときはたいてい、「もっと考えなさい/こう考えなさい」という引き締める方向のメッセージではなくて、評価/判断を積極的に保留することを勧めるような、ゆるめる方向性のメッセージが多くなる。
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