『知識創造企業(新装版)|野中郁次郎/竹内弘高』
知識創造企業(新装版)
https://amazon.com/dp/B08MZQ55TL
Highlights & Notes
> 従来の主流であった経営学の理論的研究では「情報」に重点が置かれていたが、われわれは「知識」に着目し、組織や組織間においてイノベーションの力学がどのように築かれているかを解き明かした。
> ナレッジマネジメントは学問としてのみならず、特に外国ではプロフェッショナル団体の設立に伴い、企業の職能としても発展を遂げた。しかし、われわれの主張は、知識創造は専門家だけの仕事ではなく、組織や社会のメンバーの誰もが参加できる、人間同士の「共感」から始まる最も人間的な社会現象だ、というものである。
> 世界は過去二五年の間に、インターネットとビッグデータの到来によって根底から劇的な変化を遂げた。同じように知識の風景も大きく変化し、知識がいっそう豊かに、グローバルに、複雑に、オープンに、深く、互いにつながってきている。その結果、データや情報との区別がつきにくくなった。
> 振り返ってみれば、その研究が、一九七〇~八〇年代の日本企業の成功要因に触れていた。ラグビーのアナロジーを続けよう。「ボール」に注目しながら、われわれが何を言いたいのかを説明したい。チームがパスで回すボールの中には、会社は何のためにあるのか、どこへ行こうとしているのか、どのような世界に住みたいのか、その世界はどうやって実現するのか、についてのチームメンバーの共通理解が入っている。きわめて主観的な洞察、直観、勘などもその中に含まれる。つまり、そのボールの中に詰まっているのは、理想、価値、情念なのである。
> それは、チームメンバー間の濃密で骨の折れる相互作用を必要とする。
> 本書で述べるように、「組織的知識創造」は体験や試行錯誤であると同時に、アイデアを生み出す思考や他者からの学習でもある。またそれは、アイデアにかかわるだけでなく、アイデアル(理想)にもかかわるのである。
> 組織的知識創造とは、新しい知識を創り出し、組織全体に広め、製品やサービスあるいは業務システムに具体化する組織全体の能力のことである。これが日本企業成功の根本要因なのだ。なぜ日本企業が成功したかについての理論はたくさんあるが、われわれが突き止めたのは、組織における最も基本的で普遍的な要素である人間知であった。
> 本書でわれわれは、企業行動を説明するための基本的な分析単位として、知識を取り上げた。知識を論じるにあたって、企業組織が知識をどうするのかについての考え方を根本的に変更するように求めている。もっと明確にいえば、本書の出発点は、企業組織は単に知識を「処理する」だけではなく知識を「創造する」のだ、という発想なのだ。企業組織による知識創造は、これまで経営学の中でほとんど無視されてきたが、われわれは数年にわたる研究を通じて、組織的知識創造が日本企業の国際競争力の最も重要な源泉である、と確信するに至った。
> しかし、後で論じるように、より重要なのは、形式言語で言い表すことが難しい「暗黙知(tacit knowledge)」と呼ばれる知識なのだ。それは人間一人ひとりの体験に根ざす個人的な知識(パーソナルナレッジ)であり、信念、ものの見方、価値システムといった無形の要素を含んでいる。暗黙知は、人間の集団行動にとってきわめて大事な要素であるにもかかわらず、これまで無視されてきた。それはまた、日本企業の競争力の重要な源泉でもあったのだ。これが、日本的経営が西洋人にとって謎であった大きな理由であろう。
> 西洋哲学の主流においては、知識を所有し処理する主要な主体は個人である。しかしわれわれは、個人と組織は知識を通して相互に作用し合うと考える。
> 知識創造は、個人、グループ、組織の三つのレベルで起こる。したがって、われわれの組織的知識創造の議論は、知識の相互作用の様式と知識創造のレベルの二つの大きな部分から成っている。
> この研究の目標は、組織的知識創造の一般理論を創り出すことである。われわれの議論がほとんど日本企業だけを対象としているのには、二つの理由がある。  第一に、短期間に最強の競争力を持つに至った日本企業は、われわれが一般理論を構築し検証するのに最も挑戦に値する実験の場を提供するからだ。第二に、われわれは長期にわたって日本企業を深く研究し続けてきたが、それによる豊かなデータの集積は、いつかは外国の研究者と共有されなければならないと考えるからだ。つまり、本書における日本企業の分析は、「サクセスストーリー」というより、代表的なケーススタディなのである。
> バークレーは二人に大きな影響を与えた。カリフォルニア大学バークレー校は、「太平洋のアテネ」にならんとするビジョンの下に創立された。創立者たちは、プラトンやアリストテレスのアテネ、ペリクレスのアテネをバークレーに再現したかったのである。バークレーというキャンパスのある土地の名前それ自体が、『人間知の原理』(一七一〇年)を書いたアイルランド生まれの哲学者ジョージ・バークレーに由来している。本書の随所に見られるギリシャ哲学と認識論への言及でわかるように、われわれはこの哲学重視のバークレーの伝統を受け継いでいる。加えて、理論構築を志向するバークレーの博士課程の知的伝統も継承している。組織的知識創造の一般理論を構築しようというわれわれの試みそのものに、その理論志向の伝統が現れているともいえる。
> 組織的知識創造とは、組織のメンバーが創り出した知識を、組織全体で製品やサービスあるいは業務システムに具現化することである。
> 歴史的に見ても、日本企業は危機に直面すると、組織的知識創造によって過去の成功体験を棄却し、新しいビジネスチャンスを求めて未知の領域に挑戦してきたのである。
> 日本企業は、これらの王者たちを苦しめることになる成功に伴うさまざまなマイナス要因、とりわけ驕りと傲慢をまぬがれた。日本企業が、かつてのIBM、GM、シアーズのように、それぞれの産業分野で圧倒的優位を占めた例は一つもない。これら三社は、それぞれの領域の支配者として、王座の安逸をむさぼり、次第に感覚を失い、周りの変化に気づかなくなっていった。彼らにとっては、不確実性ではなく確実性が当たり前になったのである。
> すでに触れたように、不確実性の世界で生きてきたことが、日本企業に幸いした。なぜなら、その時々の競争優位の源泉を自ら放棄し続けることを余儀なくされたからである。
> そしてライシュは、新しい問題を特定し、その解答を見つけて売る知的能力に長けた「シンボリックアナリスト」と呼ばれる人々こそが、真の競争優位の源泉なのだと主張している ★ 5。
> 知識が競争資源だという認識は、西洋を雷のごとく襲った。しかしながら、企業にとっても国にとっても知識が重要であるという議論は、知識がいかに創られるかを理解するためには、たいして役に立たない。これらのビジネスと社会の先導的観察者たちは、知識が創られる仕組みやプロセスを、実は調べていないのである。
> 欧米人が、組織的知識創造の問題に触れたがらないのには理由がある。彼らは、「情報処理機械としての組織」という組織観を信じて疑わない。この見方は、フレデリック・テイラーからハーバート・サイモンに至るまでの西洋的経営の伝統に深く根ざしている。そこでは、知識は明白でなければならず、形式的・体系的なものだと考えられている。
> 同じようにトフラーの『パワーシフト』では、データ、情報、知識の三つの言葉は、「煩雑な繰り返しを避けるため ★ 7」という理由で、始めから終わりまで同じ意味で使われている。
> もっと厳密にいえば、暗黙知は二つの側面を持っている。一つは技術的側面で、「ノウハウ」という言葉で捉えられる、はっきりとこれだと示すことが難しい技能や技巧などが含まれる。たとえば、長年の経験を持つ熟練職人は指先に豊かな技能を蓄えている。しかし、彼が自分の持っている「知」の背後にある科学技術的原理をはっきり説明できないことは珍しくない。  同時に、暗黙知には重要な認知的側面がある。これに含まれるのが、スキマータ、メンタルモデル、思い、知覚などと呼ばれるもので、無意識に属し、表面に出ることはほとんどない。この認知的側面は、われわれが持っている「こうである」という現実のイメージと「こうあるべきだ」という未来へのビジョンを映し出す。簡単には言い表せないこれらの暗黙的モデルは、われわれが周りの世界をどう感知するかに大きな影響を与える。
> 欧米のマネジャーが扱い慣れているのは形式知であるが、暗黙知を知り、その重要性を認識することには、多くの意義がある。  まず第一に、まったく違った組織観がもたらされる。組織が情報処理機械ではなく、一つの有機的生命体として見えてくるのである。そのような組織観からすれば、会社は何のためにあるのか、どこをめざしているのか、どんな世界に住みたいのか、どうすればその世界は実現できるのか、といったことを社員全員が理解していることのほうが、客観的な情報を処理することよりはるかに重要なのである。
> 同じように、日本のマネジャーは、直接体験や試行錯誤から学ぶことの大切さを重視する。子どもが食べ、歩き、話すことを学ぶように、日本人は「心」と「体」の両方を使って学ぶのだ。この「心身一如」を強調する伝統は、禅仏教が確立されて以来の日本的思考の特徴である。しかしこのような思考は、ビジネス組織の新しいモデルとしての「学習組織(ラーニングオーガニゼーション)」というコンセプトの裏にある思考とは対照的だ。このコンセプトの唱導者であるピーター・センゲが用いるのは、部分より全体に関心を持つ「システム思考」である ★ 10。システム思考とは、センゲによれば、全体像をよりはっきり見るための認識枠組みであり、半世紀にわたって西洋で開発されてきた知識と手法なのだ。学習組織の関心は明らかに「心」による学習であり、体を使った学習ではない。  センゲはさらに、試行錯誤による学習は錯覚にすぎないとも言っている。なぜなら、組織内部で下されるきわめて重要な決断は数十年にわたって組織全体に影響するが、そのような長い時間枠では直接体験から学ぶことは不可能だというのである。
> 暗黙知の重要性を理解した人は、すぐにイノベーションというものをまったく新しい角度から考え始めるはずだ。イノベーションは、単にばらばらのデータや情報をつなぎ合わせるだけではない。それは、人間一人ひとりに深くかかわる個人と組織の自己変革なのである。社員の会社とその目的への一体化とコミットメントが必要不可欠なのだ。この意味で、イノベーションとしての新たな知識の創造は、アイデアと同じくらいアイデアル(理想)を創ることなのである。
> イノベーションの本質は、ある理想やビジョンに従って世界を創り変えることなのだ。新しい「知」を創ることは、社員一人ひとりと会社を、絶え間ない個人的・組織的自己革新によって創り変えることを意味する。それは、研究開発や戦略企画やマーケティングにかかわる少数の...
> たとえば、キヤノンの新製品開発チームメンバーは、重要な問題を討議するために週末にホテルで「合宿」した。こういうところは、他から学ぶことに熱中しているGE、AT&T、ゼロックス、ミリケンなどが行っている「ベストプラクティス」や「ベンチマーキング」とは異なる。ミリケンは、恥も外聞もなく他から学ぶ(あるいは盗む)その手法をSIS(Steal Ideas Shamelessly)と呼ぶ。
> チームリーダーの渡辺洋男は、チームの野心的な挑戦を彼なりの感覚で表現するために、「クルマ進化論」というスローガンを考え出した。このスローガンは、ある理想を意味していた。つまり、もしクルマが生命体だとしたら、どのように進化するだろうか、という疑問を提起したのである。
> ホンダ・シティのケースは、日本のマネジャーがどうやって暗黙知を形式知に変換するかを示している。それはまた、知識創造の三つの特徴を示唆している。  第一に、表現しがたいものを表現するために、比喩や象徴が多用される。第二に、知識を広めるためには、個人の知が他人にも共有されなければならない。第三に、新しい知識は曖昧さと冗長性の只中で生まれる。
> われわれは 組織的 知識創造という言葉を使うが、個人の自発的行動とグループレベルでの相互作用がない限り、組織それ自体では知識を創ることはできない。グループレベルでは、知識が対話、討論、体験共有、観察などによって増幅され、具体的なものに結晶化される。
> チームメンバーは、対話や議論を通じて新しい視角を創り出す。この対話では、意見の衝突や不一致がかなりあってもよい。なぜなら、そのような意見の衝突こそが、それまで当然視されてきた前提に疑問を抱き、体験を新しい角度から理解するきっかけとなるからだ。このようなダイナミックな相互作用が、個人知から組織知への変換を促進するのである。
> 知識創造は誰が責任を持って行うのだろうか? 日本企業のもう一つの特徴は、知識創造の任務を独占する部署や専門家グループがいない、ということだ。第一線社員、ミドル、役員の全員がそれぞれの役割を果たす。しかし、それは役割が同じということではない。新しい知識は、彼らのダイナミックな相互作用の成果なのである。
> しかも、ある社員が有意義なアイデアやひらめきを思いついたとしても、その重要性を他の社員にわかってもらうのは難しい。人々は新しい知識をただ単に受け取るだけではない。積極的に自分の立場や主観に合うように解釈する。したがって、何が意味があるかは状況によって違うし、異なる立場にいる人々に伝えようとしても意味が失われることがある。新しい知識の組織全体への普及には、絶えず混乱がつきまとうのだ。
> ミドルマネジャーの役割は、トップの先見的な理想とビジネス最前線の、しばしば混沌たる現実の間を橋渡しすることだ。中間的なビジネスコンセプトや製品コンセプトを創り出し、トップの「かくあるべきだ」という思考と第一線社員の「現実はこうだ」という思考を仲立ちするのである。
> 主に研究者向けに書かれ、組織知は本書に出てくるいくつもの二項対立(ダイコトミー)を「超越する」ことによって創られる、というわれわれの見解を中心に議論が進められる。
> 知識とは何かを考究する哲学の一分野は、認識論(エピステモロジー)と呼ばれる。
> 合理論と経験論の根本的な違いにもかかわらず、大方の西洋の哲学者は、知識とは「正当化された真なる信念(justified true belief)」であるという定義に合意している。この定義は、プラトンによって最初に、彼の『メノン』『パイドン』『テアイテトス』の中で導入された ★ 2。
> この定義によれば、あることが真であると信じていても、そこに誤りの可能性がいささかでもあれば、われわれはそのことを本当に知っているとはいえない。したがって、西洋哲学における知識の追求は懐疑論にしつこくつきまとわれており、多くの哲学者が、疑問の余地のない究極の真理を確立する方法を探し求めた。すべての知識の基礎となる「正当化のための証明や証拠を必要としない根本的な知識」の発見をめざしたのである。
> もう一つの根本的な違いは、知識を獲得する方法についてである。合理論によれば、知識は、概念、法則、理論などの精神が創り出した観念から 演繹的に 導き出されるという。一方、経験論は、知識は個別の感覚経験から 帰納的に 獲得されると主張する。
> 彼によれば、われわれは「何かを生産する」とか「何かを利用する」などの形で「何ものかに関係している」からこそ、「この世に存在している」。
- VPCにおける顧客の「仕事」にあたる。静的なデモグラフィックではない定義の仕方。
> 日本人の時間意識は常に更新される「今」を取り込んでいく。日本の小説の筋には、時間軸が固定していないことが多く、伝統的な日本の詩歌には固定した時間軸そのものがない。対照的に、欧米人は過去、現在、未来という順序で時間を意識し、歴史的に時間を遡及しつつ現実を捉え、未来を予測する。日本的な時間の捉え方は、どちらかといえば循環的で刹那的である。すべてが現れては消えていき、究極の現実は「いまここ」にしか存在しない、というのである。日本人は、時の流れに身をまかせ、世界の流転と移り変わりに合わせて柔軟に生きることに高い価値を置くのだ。
> 日本的「知」の伝統のもう一つの特徴は、「全人格」の強調である。それに対して西洋では、知識は一人の人間の発達から切り離されている。日本人にとって知識とは、全人格の一部として獲得された知恵を意味する。間接的・抽象的知識より個人的・身体的な経験を重視するのはこのためである。
> 西洋近代哲学では、 行為 すなわち意思の問題は実践哲学としての倫理学の課題とみなされ、理論哲学としての認識論の課題からは除外される。……
> 世界における人間の生にとって本質的な重要性をもつ存在様式は、世界に対して行為することであって世界を認識することではない。人間は思考と認識の主体であるよりも先に、まず行為の主体である。認識主体としてのはたらきは、行為主体としてのあり方におのずと含まれている。
> この曖昧性は、日本語の動詞が文の主語(人称)に応じて格変化しないということにも見ることができる。インド・ヨーロッパ系言語では、動詞の意味が人称によって違ってくるので、基本的には人称に応じて格変化する ★ 39。日本人が他人の言ったことに共感かつ同意しやすいのは、動詞が人称にかかわらず同じ形で用いられるからだ。日本人のものの見方が、グループレベルで、ときにはより大きな社会レベルで、自然にいとも簡単に共有できるのも、この日本語の動詞の共感の容易さのためなのである。
> 以上の日本的「知」の伝統のレビューが示唆するのは、日本人にとっての究極的な真実が、永遠不変の目に見えない抽象的なものの中にあるのではなくて、むしろ繊細なもの、永遠流転の変化プロセス、そして目に見える具体的なものの中にあるということだ。現実を典型的には自然や他者との物理的な相互作用の中に見るのである。このような日本人の基本的姿勢は、周りの世界から隔絶した「思惟する我」が永遠の理想を追い求めるという西洋での一般的な見方とは明らかに異なる。
> 西洋における経済学、経営学、組織論などの社会科学の根底にあるのは、主体、精神、自己と客体、身体、他人との区別である。以下で論じるように、一世紀に近い西洋の経営思想史は、「人間主義的」知識観の「科学的」知識観に対する挑戦の繰り返しと見ることもできる。その歴史は、過去二世紀にわたる「知るもの」と「知られるもの」のデカルト的分割を乗り越えようとする西洋哲学全体の努力を反映している。
> われわれの主張は、「人間は世界を変えるために積極的に知識を創り出す」というダイナミックなアイデアを表現した者は彼らのうちには一人もいない、ということである。われわれの知識観と組織的知識創造理論は、デカルト的二元論に縛られた既成理論の限界を乗り越える根本的に新しい経済・経営の見方を提供する。
> したがって、一社会の経済問題とは、単にある一定の資源をどう分配するかということではなく、誰にとっても全体が見えない知識をどう利用するかの問題なのである ★ 43。
> ハイエクは、価格メカニズムの機能は情報を流通させることであり、個々人の知識が社会的に動員されるプロセスが市場であると断定した。
> ネルソンとウィンターによれば、そのような知識は企業の「日常的に繰り返される予測可能な行動パターン」として蓄積されるという。彼らはそれを「ルーティン」と呼んで「遺伝子」にたとえる一方で、イノベーションをルーティンの本来的に予測不可能な突然変異であると見た ★ 50。
> 経済学者が既成の知識に焦点を当て、経済主体による新しい知識の「能動的・主体的な創造」を無視してきた理由の一つとして、経済学の持つ「科学化」への強い志向が考えられる。経済学者は、経済知識を経済主体から分けるデカルト的な知識観を受け入れる傾向がある。そのような傾向は経営理論にも見ることができるが、経営の分野では「人間化」への強い志向も存在する。この「人間主義」的アプローチは、経済学者の主要な関心である抽象的モデルの構築と対照的である経営学者の実務への強い関心からきたと思われる。
> 過去一世紀にわたる経営学の文献は、二つの大きな流れに分けることができる。一つは、テイラーからサイモン、そして現在の「科学的」ビジネス戦略への熱中に至る「科学主義」の流れである。もう一つは、メイヨーからワイク、そして近年注目を浴びた「組織文化」に至る「人間主義」の流れだ。実際、一世紀にわたる経営学の歴史は、この二つの陣営の間の一連の論争、そして不成功に終わった統合の試み ★ 52 だと見ることもできる。それは、先に述べた西洋哲学の発展過程にきわめてよく似ている。
> 「科学的管理法」は、労働者の経験や暗黙的な技能を客観的・科学的知識に形式化しようとする試みでもあった。しかしそれは、労働者の経験や判断を新しい知識の源泉として見ることに失敗した。したがって新しい作業方法の創造は、管理者だけの責任になった。知識を分類しながら表にまとめ、作業に関する規則や方式を作って日常業務に応用する面倒な仕事が、管理者の双肩にかかってきたのだ ★ 53。
> 人間関係論は、工場の現場労働者が持つ実務知識を絶えず改善することで生産性を上げようとするとき、人間的要素が重要な役割を果たすことを示唆した。しかし人間関係論は、それ自体をテイラー主義から区別するはっきりした理論的コンセプトを創り出すことができなかった。その結果、人間関係論はテイラー主義をより科学的にしたグループ理論や社会的相互作用論に吸収されてしまった。中でもグループダイナミクスや人間操作を意図する行動主義は、人間を刺激に反応するだけで知識創造能力のない機械と見なす傾向があった。
> 知識はバーナードの経営思想の中心的問題ではなかったが、彼の知識観は次の二点にまとめることができる。第一に、知識は論理的・言語的なものだけでなく行動的・非言語的なものも含む ★ 56。第二に、組織のリーダーは、価値、信念、アイデアを創り出すことで、組織の知識体系の健全さを維持し、協働システムとしての組織を管理する。
> したがってそれは、記述されるより感じ取るのであり、分析よりその影響によって知ることができるのである ★ 57。
> 「組織化問題」の本質は、バーナードによれば、相反する目標を相手の出方を見ながら戦略的に追求するばらばらの個人を、一つの合理的な協働システムにまとめることである。そして、われわれ一人ひとりの情報処理能力には限界があるので、そのような協働理性を実現するのに知識が必要不可欠なのだ。
> また組織を、事前に計画し演繹的に思考するシステムではなく、すでに起こったことを後から意味づける感知システムである、と特徴づけている。
> マーチは、経済学や意思決定論の分野で支配的な選択理論の主張と対照的に、好みは前もって存在していて行為を導くというより、それは行為の結果として生じてくるのだ、と論じた ★ 65。これは、カール・ワイクの(後から意味づける)遡及的合理性の議論と合致している ★ 66。
> 科学的戦略論の背後にある知識観の主要な限界は、次の三点に集約できる。第一に、ビジネス戦略の科学は価値や信念の問題を取り扱えないので、知識やビジョンの創造の可能性は最初からその理論に入り込む余地はない。明示的な情報へのこだわりのために、研究者は新しいビジョンや価値システムの創造を無視するのである ★ 80。第二に、戦略の科学が前提としているのはトップダウン・マネジメントであり、そこではトップだけが既存の明示化された知識を操作しながら考える。トップ以外のメンバーが持つ大量の暗黙知は利用されないことが多い。第三に、広く使われている戦略経営コンセプトは、競争力の源泉としての知識の役割に注目すべきなのに、それをしていない。社会がますます知識に依存している今日、知識への無関心は、このアプローチが持つ他の面での強い魅力を弱めている。
> エドガー・シャインは次のように論じた。「 共有体験 が豊富であれば、 共有されたものの見方 が出て来るはずで、そしてそれが長期にわたって有効であれば、当たり前のこととして意識から抜け落ちてしまうはずである。文化とは、この意味で、 グループ体験 という学習の成果なのである ★ 83」。彼の定義によれば、文化とは、「あるグループが環境適応と内部統合に関するさまざまな問題処理を学習する過程で発明、発見、開発する基礎的な思考のパターンであり、長い間うまく機能してその有効性を認められ、同じような問題を感知し、考え、感じるときの正しい方法として新しいメンバーに教えられる ★ 84」。
> 組織文化の研究は、組織の認識システムとしての側面に光を当てたばかりでなく、価値、意味、コミットメント、シンボル、信念などの人間的ファクターの重要性をいっそう明らかにして、知識の暗黙的側面をもっと詳しく研究する道を開いた。さらに、共有された意味体系としての組織が、学習能力や自己変革能力、メンバー同士あるいは環境との社会的相互作用を通じて長い間には進化する能力を持っていることも明らかにした。
> 組織文化の研究は、知識の重要性を認めているが、まだ不十分だ。われわれから見ると、これら一連の研究には共通して三つの欠点がある。第一に、人間の持つ可能性や創造性への関心が十分でない。第二に、人間を情報創造者というより情報処理者と見る場合が多い。第三に、組織が環境に対して受動的に描かれ、組織が環境を変革・創造する可能性を無視している。
> ドラッカーは、知識社会において、あらゆる組織が直面する最も重要な試練の一つが、自己変革管理のための実務手法の体系的構築であると示唆した。組織は古くなった知識を捨てる覚悟を持たなくてはならず、新しいものの創造を、 ① すべての活動の絶え間ない改善、 ② 成功例の応用展開、 ③ 組織プロセスとしての連続的イノベーションを通じて学習しなければならない。
> ドラッカーは、暗黙知の重要性に気づいているようだ。彼は、技能(ギリシャ語でテクネー)について、「話し言葉でも書き言葉でも説明できない。やって見せるしかない」、したがって「技能を学ぶ唯一の方法は、徒弟修行を経て経験を積むことしかない」と言っている ★ 91。同時にドラッカーは、科学的・計量的方法が「個別の経験をシステムに……単なる逸話を情報に、そして技能を教え学ぶことができる何物かに」変換できると信じている ★ 92。
> 彼は、学習組織を作ろうとする管理者がやるべきこととして、次の五つを挙げた。すなわち、 ①「システム思考」を採用する、 ② 人生の「達人」になるように自分を励ます、 ③ 一般的な「メンタルモデル」を意識の表面に出してそれに挑戦する、 ④ ビジョンを構築して共有する、 ⑤ チーム学習を助ける、という五つの「修練(ディシプリン)」が必要だというのである。
> 学習組織の核心は、精神のありようを変えることである。自分たちを世界から切り離して見るのではなく、つながっていると見るのである。また問題の原因を「外部の」誰かや何物かに求めるのではなく、われわれの行動がいかにして自分たちの問題を作り出しているかを見るのである。学習組織は、現実を創造しているのは自分たちであること、そしていかにその現実を変えていくか、を絶えず発見していく場なのである ★ 100。
> われわれの考えと似ているとはいえ、「組織学習」の文献によく見られる欠点のいくつかは致命的である。第一に、センゲの議論にも見られるが ★ 103、組織学習論者たちは「知識を発展させることが学習であるという見方」を欠いている ★ 104。彼らのほとんどは、「刺激─反応」という行動主義的コンセプトにとらわれているのだ。第二に、彼らの多くは依然として個人の学習というメタファーを使っている ★ 105。二〇年を超える研究の蓄積にもかかわらず、彼らが 組織 学習を構成するもの全部を包括的に考察したことは一度もない。第三に、広く合意されている見方によれば、 組織 学習とは適応のための受動的な自己変化である。それは、過去の経験に影響されながら、かつ組織の記憶に支えられつつ、主として日常業務(ルーティン)を開発あるいは修正していくプロセスだ、というのである ★ 106。この結果、彼らの理論は知識創造というアイデアを思いつくことができなかった ★ 107。四番目の欠点は、「ダブルループ学習」すなわち「学習棄却(アンラーニング)」 ★ 108 というコンセプトと組織開発(Organizational Development)への強い志向に関係している。
> クリス・アージリスとドナルド・ショーンが展開した組織学習の理論 ★ 109 に従って、組織はダブルループ学習、すなわち、既存のものの見方、解釈枠組み、決定の前提条件などを主体的に疑ったり創り変えたりすることはきわめて難しい、というのが暗黙的あるいは明示的の違いはあれ、広く受け入れられている説である。組織学習の理論家たちは、この困難を克服するためにある種の人為的な介入、たとえば組織開発プログラムが必要だと主張する。この議論の欠陥は、組織内部あるいは外部の誰かがダブルループ学習を実行に移す最適の時間と方法を「客観的に」知っている、と仮定していることだ。この仮定の背後には、デカルト流の組織観がある。  しかし、組織的知識創造の高みから見れば、ダブルループ学習は特別なことでも難しいことでもなく、組織にとって毎日の活動なのだ。組織は、ものの見方、認知枠組み、思考前提を日常的に創り変えながら、絶えず新しい知識を創造している。言い換えれば、知識創造組織にはダブルループ学習の能力が組み込まれているのであり、「正しい」解答の存在という非現実的な仮定は必要としていない。
> 右の定義が示すように、コアコンピタンスとケイパビリティーズの違いははっきりしない。両方とも戦略の「行動的」側面を強調する。すなわち、企業は「どこで」競争するかより「いかに」競争するかを選択するというのである。
> 第二に、両グループとも今日の大企業は戦略事業単位(SBU)の 専横 に苦しんでおり、それを克服するには、事業から事業へ能力を移転するための全社的な組織的技能を開発しなければならないと見ている。
> そして最後に、両方とも、競争優位は構造的アプローチのように企業 外部 の市場環境で発見されるのではなく、企業 内部 の資源や技能に発見されなければならない、と主張している。
> この章では、経済学、経営学、組織論の分野における主要な理論を批判的にレビューした。その結果、われわれは一つのパラドックスに出会った。つまり、それらの理論のほとんどは、西洋の伝統的認識論の強い影響下に科学的・客観的知識を追求しているはずなのに、知識そのものに触れたものはほとんどない、というパラドックスである。
> 一九八〇年代半ば以降の新しい経営理論のほとんどは、来るべき時代には社会と組織にとって知識が重要になると指摘しているが、組織内部あるいは組織間でどのようにして知識が創造されるかについての研究はきわめて少ない。そのような新しい経営理論の関心の中心にあるのは、 既成 知識の獲得、蓄積、利用である。「新しい知識を創造する」という視点を欠いているのだ。それは彼らが、主観と客観、身体と精神というデカルト的二元論をいかに克服するかについての近代と現代の哲学論争をフォローしていないからであろう。知識の主観的、身体的、暗黙的側面はほとんど無視されたままである。
> 組織が不安定な環境に対処するときは、単に受動的に適応するだけではなく、能動的に環境と相互作用を行う。組織には自己変革の能力がある。しかし既成の組織論の多くは、受動的で静態的だ。「変化する環境にダイナミックに対処したい」と願うのであれば、情報や知識を単に効率的に処理するだけでなく、それらを創造するような組織でなければならない。さらに、組織のメンバーは受け身であってはならず、イノベーションの積極的な推進者でなければならない。 次章 で見るように、組織は既成の知識体系を打ち壊しながら革新的な思考や行動を生み出すことによって新しい自己を創造する、というのがわれわれの考えである。
> 伝統的な認識論の議論では,知識が成立するためには次の条件を満足しなければならない.つまり,Aという人が,あること(命題P)を「知っている」と言うための必要十分条件は次のとおりである. (a)Pが真である(真理条件) (b)AはPが真であると信じていなければならない(信念条件) (c)AのPが真であるという信念には,妥当な根拠がなければならない(正当化条件)
> 真理条件によれば,命題が真でなければ,ある人の知識が存在しない.したがって,「私はPを知っているが,Pは真ではない」という言い方は自己矛盾である.真なる命題は,過去,現在,未来のいつでも真なる状況を記述する.   信念条件によれば,「知っている」と言うためには,Pが真であるだけでなく,Pが真であると信じて,われわれがPについて知っていると主張するときは,Pについて特定の態度を持たなければならない.Pに対する態度を持つということは,Pは真であると信じることである.   しかし,Pを信じることは,Pが真であることの決定要因ではない.「私はPを信じるが,Pは真でない」ということはありうるが,「私はPが真であることを知っているが,Pが真であることを信じない」というのは自己矛盾である.要するに,知識は信念を含むが,信念は知識を含まない.   正当化条件は,知識の真偽を明らかにするもの,すなわち根拠を要求する.信念はPに対する態度を示すにすぎず,それ自体でPを正当化するものではない.真であるという根拠が必要である.妥当な根拠なしに創られた信念は,たまたまある状況で真であったとしても,知識とはいえないのである.
> ば,「日本語の動詞は文章の最後に来るので,聞き手は最後まで聞かないと話し手の意図がわからない.話し手は,聞き手の表情に応じて動詞を変えることができる.実際,日本人の一致への願望はあまりにも強いので,動詞の明確さを避けることも稀ではない.2,3の重要な名詞に対して聞き手が示す好意的なあるいはいやな表情が,同意へ向けての[話し手の絶妙な言葉,身振り,表情による]ダンスの舞台を用意する.日本人の話し合いは,将来の動きや妥協の余地を残すために当たりさわりのない発言が多く,敢えて結論を求めない.ノーと言うのにも16種もの言い方があり,多くの衝突をできるだけ避けながら切り抜けるための日本語の技巧の極みを示している」(
> Mintzberg(1994)は,戦略的プランニングが以下のような3つの根本的な誤りを前提にしていると非難した. ① システムの作った戦略は人間による戦略より優れていると考える形式優先. ② 思想,戦略,考えるふりをする人,戦略家は,行動,実施,実践家,戦略の対象とは切り離すべきだと考え,自ら手を汚そうとしない態度. ③ 実際は予測できないのに,戦略を策定する際のコンテキストは事前に予測できると考え,戦略策定プロセスと戦略そのものも事前に決めることができるとする予定主義.
> さらにシャインによれば,あらゆる文化の核心は,何が「リアル」か,どうやってそれがリアルだとわかったり結論づけたりできるのか,そして「グループメンバーはどうやって実際行動に移るのか,どれが関連情報だとどうやって決めるのか,どんな行動にいつ移るかを決めるときに情報はもう十分だといつ決めるのか」などの問題に関する暗黙的な前提の集合であるという(p.89).
> 主観と客観、あるいは知るものと知られるものというデカルトの分割は、「情報処理」メカニズムとしての組織という見方を生んだ。この組織観によると、組織は新しい環境状況に適応するために環境からの情報を処理する。
> この見方は、組織がいかに機能するかを説明するのに有効だったが、根本的な欠点が一つある。われわれから見れば、イノベーションがどうやって起こるか、を説明できないのだ。イノベーションを起こす組織は、単に既存の問題を解決し、環境変化に適応するために外部からの情報を処理するだけではない。問題やその解決方法を発見あるいは定義し直すために、組織内部から新しい知識や情報を創出しながら、環境を創り変えていくのだ。
> われわれの理論の説明に入る前に、まず情報と知識の相違と類似について論じる。ここでは、三つのことが明らかになる。第一に、知識は情報と違って、「信念」や「コミットメント」に密接にかかわり、ある特定の立場、見方、あるいは意図を反映している。第二に、知識は情報と違って、目的を持つ「行為」にかかわっている。知識は、常にある目的のために存在するのだ。第三に、知識と情報の類似点は、両方とも特定の文脈やある関係においてのみ「意味」を持つことである。
> われわれの組織的知識創造理論では、プラトン以来の西洋哲学の伝統に従って、知識を「正当化された真なる信念(justified true belief)」と定義する。しかし、伝統的な西洋認識論が「真実性」を知識の最も重要な特性と見るのに対して、われわれは「正当化された信念」という側面を強調する。このような焦点の当て方の違いは、西洋の伝統的認識論とわれわれのアプローチとのもう一つの相違につながる。つまり、西洋の伝統的認識論は、命題や形式論理で典型的に表現される知識の絶対的で静的な、人間から独立した側面を強調するが、われわれは知識を「個人の信念が人間によって〝真実〟へと正当化されるダイナミックなプロセス」と見るのである。
> 情報の形式的定義へのこだわりは、情報処理の役割を必要以上に強調することになる。それは、混沌とした曖昧な情報の海から新しい意味を創造することには関心がないことを意味する。
> つまり、情報は行為によって引き起こされるメッセージの流れであり、メッセージの流れから創られた知識は、情報保持者に信念として定着し、コミットメントと次なる行為を誘発する。こうした理解は、「知識が人間の行為と本質的に関係している」ということを強調している ★ 6。ジョン・サールの「発話行為」の議論 ★ 7 もまた、発話者の「意図」と「コミットメント」を媒介とする言語と行為の密接な関係を指摘している。われわれは、個人の価値体系に深く根ざした「コミットメント」や「信念」に代表される知識の行動的・主観的側面を、組織的知識創造理論の重要な基礎として注目する。
> 最後に、情報と知識は両方とも、特定の文脈(コンテキスト)やある関係においてのみ意味を持つ。すなわち、それらの意味は状況に依存し、人々の社会的相互作用によってダイナミックに創られる。ピーター・バーガーとトーマス・ルックマンによれば、ある特定の歴史的・社会的なコンテキストの中で相互に作用し合う人々は、共有している情報から現実としての社会的知識を構築する ★ 8。この社会的知識が、逆に人々の判断、行動、態度に影響を与えるのだ。同じように、リーダーによって提起される漠然とした企業ビジョンは、その企業のビジネス行動すなわち環境との相互作用を通じて、企業メンバーによって肉づけされ組織知になっていく。そして、その組織知が逆にその企業のビジネス行動に影響を与える。
- 社会構成主義的
> まず、存在論的次元から始めよう。厳密にいえば、知識を創造するのは個人だけである。組織は個人を抜きにして知識を創り出すことはできない。組織の役割は、クリエイティブな個人を助け、知識創造のためのより良い条件を作り出すことだ。したがって、組織的知識創造は、個人によって創り出される知識を 組織的に 増幅し、組織の知識ネットワークに結晶化するプロセスと理解すべきである。このような現象は、相互に作用し合う人々の集団の中で起こる。そういう相互作用集団は、組織内のヨコの境界やタテの階層、さらには組織間の境界を超えて広がっていく ★
> ポランニーが言うように、「われわれは語れる以上のことを知っている(we can know more than we can tell.)」★ 11。
> 伝統的な認識論においては、知識は主体と知覚の対象である客体の分離を前提とする。知識は、知覚の主体が外にある客体を分析することによって獲得される、というのである。それと対照的なのが、ポランニーの主張だ。知識は、人間(すなわち主体)が客体に「棲み込む(indwelling)」、つまりコミットメントと自己投入を通じて直接的に客体とかかわることにより獲得される、というのである。何かを知るということは、その部分部分を暗黙的に統合することによって、その全体のイメージあるいはパターンを創り出すことなのだ。
> 知識の唯一の源泉ではない。われわれの知識のほとんどは、目的を持って外的世界と交流しようとする努力の所産なのだ ★ 12。
> ここで重要なことは、暗黙知の認知的側面は、個人が持っている「こうである」という現実のイメージと「こうあるべきだ」という未来へのビジョンを意味することである。後述するように、一種の「動員」プロセスによるメンタルモデルの言語化が、新しい知識を創るための鍵なのだ。
> 第2章 で論じたように、西洋認識論の歴史は、どのタイプの「知」がより確かなのか、ということに関する絶え間ない論争と見ることもできる。西洋人は形式知を重視する傾向があるが、日本人は暗黙知に傾斜しがちだ。しかしわれわれから見れば、暗黙知と形式知は完全に別々なものではなく、相互補完的なものである。人間の創造的活動において、両者は相互に作用し合い、互いに成り代わるのだ。
> このうち、共同化、連結化、内面化は、これまで部分的ではあるが、さまざまな観点から組織論において論じられてきた。たとえば、共同化はグループプロセスや組織文化の諸理論と関連している。連結化は組織の情報処理パラダイムに根ざしており、内面化は組織学習と密接に関係している。しかし、表出化はこれまでどちらかというと無視されてきた ★ 22。
> 共同化(socialization)とは経験を共有することによって、メンタルモデルや技能などの暗黙知を創造するプロセスである ★ 23。人は言葉を使わずに、他人の持つ暗黙知を獲得することができる。修業中の弟子がその師から、言葉によらず、観察、模倣、練習によって技能を学ぶのはその一例だ。
> 暗黙知を獲得する鍵は共体験である。体験を何らかの形で共有しない限り、他人の思考プロセスに入り込むことは非常に難しい。情報は、共体験に伴うさまざまな感情やその特定の文脈から切り離されてしまえば、ほとんど意味を失ってしまう。
> 共同化は、製品開発と顧客の間でも起きる。実際、製品開発前と市場投入後の顧客との交流は、暗黙知を共有し改良のためのアイデアを創り出す永続的なプロセスなのである。
> われわれは、あるイメージを概念化しようとするとき、たいていは言語を用いる。ジャネット・エミッグによれば、「書く」ということは暗黙知を形式知に変換する行為である ★ 25。しかし、言語表現は、しばしば不適当、不十分であり、一貫していないことが多い。そのようなイメージと表現の不一致やギャップはしかしながら、われわれ人間の思考や相互作用を促すのだ。
> 日本企業におけるこれらの事例は、コンセプトを創造したり練り上げたりするのに、メタファーとアナロジーが効果的であることをはっきり示している(表3‐2)。ホンダの渡辺が言うように、「製品コンセプトができてしまえば、もう半分済んだも同然」なのだ。この意味で、リーダーの豊かな比喩的言語や想像力は、プロジェクトメンバーの暗黙知を引き出すための重要な要素なのである。
> 四つの知識変換のモードの中でも、暗黙知から新しい明確なコンセプトを創り出す表出化が、知識創造の鍵を握っている。どうすれば暗黙知を形式知に効果的、効率的に変換できるのだろうか? その答えは、メタファー、アナロジー、モデルの順次使用である。
> アンネ・ドンネロンらによれば、「メタファーは、聞き手にあるものを別のものとして見るように要請することで、経験の新しい解釈を創り出す」、そして、「現実を体験するための新しい方法を創り出す ★ 31」。
> メタファーに内在する矛盾は、アナロジーによって解消される。アナロジーは、二つの異なったものの間の「共通点」に特に注目することで、未知の部分を減らす。メタファーとアナロジーはよく混同される。メタファーによる二つのものの連想は、直観と一つの全体的なイメージによって動かされ、それらの差異を見つけようとするものではない。一方、アナロジーによる連想は論理的思考によって行われ、二つのものの間の構造的・機能的類似に焦点を当てることで、差異までも明らかになる。このようにアナロジーは、未知の部分を既知の部分を通じて理解するのを助け、イメージと論理的モデルとの間のギャップを埋めるのだ ★ 34。
> この新しい商品コンセプトは、アサヒビールのグランドコンセプトをより明確に理解しやすくした中範囲コンセプトであり、それはまた、アサヒビールの製品開発システムをも変えたのだ。それまでビールの味は、販売部門の意見に関係なく、製造部門の技術者だけで決めていた。「コクとキレ」というコンセプトは、両部門の製品開発協力によって現実のものになったのである。
> 形式知を暗黙知に内面化するためには、書類、マニュアル、物語(ストーリー)などに言語化・図式化されていなければならない。文書化は、体験を内面化するのを助けて暗黙知を豊かにする。さらに、文書やマニュアルは形式知の移転を助け、ある人の経験を他の人に追体験させることができる。
> すでに述べたように、共同化は暗黙知の共有をめざす。しかしそれだけでは、知識創造としては限られている。共有された暗黙知が形式知にならない限り、組織全体として使うことは容易ではない。それに、断片的な形式情報の単なる組合せ、たとえば企業の会計責任者が社内各部署から情報収集を行って財務報告書を作成するような場合は、企業の知識ベースが実際に拡大するわけではない。松下電器のホームベーカリーの事例が示すように、暗黙知と形式知が相互作用するときこそ、イノベーションが生まれるのだ。
> 組織的知識創造とは、暗黙知と形式知が四つの知識変換のモードを通じて、絶え間なくダイナミックに相互循環するプロセスである。四つの知識変換のモードは、それぞれを引き起こすトリガーを持っている(図3‐3)。
> まず共同化は、相互作用の「場」を作ることから始まる。この場は、メンバーが経験やメンタルモデルを共有するのを促進する。次に、表出化は有意義な「対話すなわち共同思考」によって引き起こされる。その対話において、適当なメタファーやアナロジーがそれ以外のやり方では伝えにくい暗黙知を明らかにするために使われる。そして、連結化は、新しい知識と組織の他の部署にすでに存在する知識を結合することによって引き起こされ、新しい製品、サービス、経営システムなどに結実する。最後に、それらを使ってみる「行動による学習」が内面化の引き金となる。
> 組織的知識創造プロセスにおける組織の役割は、個人が知識を創造・蓄積し、グループが活動しやすいような適正なコンテキストを提供することである。
- お題設計アプローチになってる
> 知識スパイラルを動かすのは、「目標への思い」と定義される組織の意図である ★ 38。それを実現しようという努力は、企業経営においては戦略という形をとる。組織的知識創造の観点から見ると、戦略の本質は、知識の獲得、創造、蓄積、利用のための組織的能力を開発することだ。したがって、企業戦略の最も重要な要素は、どのような知識を創造するかという知識ビジョンを創り出し、それを経営実践システムに具体化することである。
【引用】組織の意図は、知識の真実性を判断する最も重要な基準となる。
> 企業が知識を創り出すためには、意図を明確にしてそれを組織メンバーに提示し、彼らのコミットメントを育成しなければならない。トップやミドルは、「真実とは何か」「人間とは何か」「生きるとは何か」といった本質的な疑問を問いかけることによって、根本的価値へのコミットメントの重要性に組織の関心を引きつけることができる。  このような活動は、個人的なものというより組織的なものだ。一人ひとりの思考や行動だけに依存する代わりに、組織は集団的なコミットメントを通じて、個人の思考や行動を組織として方向づけながら促進することができる。ポランニーが言うように、コミットメントは人間の知識創造活動の基礎なのである ★ 39。
> さらに、自律的な個人は、部分の中に全体の情報が含まれるホログラフィック構造の一部分として機能する。独自のアイデアが自律的な個人から生まれ、チームの中に広まり、やがて組織全体のアイデアとなる。このように、自己組織化する個人は、ロシアの入れ子人形の核のような地位を占めるのである。
> 自律性を確保する知識創造組織は、ウンベルト・マトゥラーナとフランシス・ヴァレラの言う「自己創出(オートポイエシス)システム ★ 42」と見ることもできる。それは次のようなアナロジーで説明できる。生命体はさまざまな器官から構成され、それらはまた多くの細胞から成っている。生命体─器官─細胞の関係は、支配─被支配のそれでもなく、全体─部分の関係でもない。それぞれの単位が、自律的細胞のように自分の内部に起こるすべての変化をコントロールする。さらには、各単位は自己増殖によって自分の領域を決めている。この自己言及性が自己創造システムの本質なのである。
- ホロン構造
> ホンダを例にとれば、シティを開発した職能横断的なプロジェクトチームは、販売、開発、製造部門からのメンバーで構成されていた。このシステムは、それを構成する販売(Sales)、生産技術(Engineering)、開発(Development)の頭文字をとって、「SEDシステム」と呼ばれていた。その当初の目標は、数人のヒーローに頼るより、「普通の人々」の知識と知恵を結集することによって、開発活動をより組織的にマネージしようというものであった。
> 私がメンバーにいつも言っていたのは、われわれの仕事はリレー競走のように「おれの仕事はここからで、おまえのはそこからだ」というようなものではないということでした。全員が始めから終わりまで走らなければならないのです。ラグビーのように一緒に走り、ボールを右へ左へパスしながら、一団となってゴールに到達しなければならないのです ★ 44。
> キヤノン会長の賀来龍三郎は、「社員に〝危機感〟と高遠な理想を与えるのが、トップマネジメントの役割である」とよく言う ★ 51。このような意図的なカオスは、「創造的なカオス」と呼ばれ、組織内の緊張を高めて、危機的状況の問題定義とその解決に組織成員の注意を向けるのである。このアプローチは、「情報処理パラダイム」のそれとは著しく対照的だ。
> 注意しなければならないのは、「創造的カオス」の恩恵は組織メンバーが自らの行動について考える能力があって初めて実現される、ということだ。そういう内省がなければ、ゆらぎは破壊的なカオスになりやすい。ドナルド・ショーンは、この点を次のように捉えている。「行動しながら内省するとき、人は実務的な立場にいながら研究者となる。既成の理論や手法の分類に頼らずに、ユニークなケースについての新しい理論を構築するのである ★ 52」。知識を創造する組織は、カオスを真にクリエイティブにするために、このような「行動に伴う内省(reflection in action)」をその組織プロセスの中に制度化しなければならない。
> この場合の冗長性は、組織メンバーが当面必要のない仕事上の情報を重複共有していることを意味する。
> 組織的知識創造が起こるためには、個人やグループの創り出したコンセプトが、それをただちに必要としない他の人たちにも共有される必要がある。情報を重複共有することは、暗黙知の共有を促進する。他のメンバーが言語化しようと努力していることを互いに感じ取ることができるからだ。この意味で、情報の冗長性は知識創造プロセスを加速する。
> 冗長性は、暗黙知に根ざすイメージの言語化がきわめて大切なコンセプト開発のフェイズで特に重要だ。このフェイズで情報が重複共有されると、人は他人の職能領域に踏み込んで、別の見方からのアドバイスや新たな情報を提供することができる。要するに、情報の冗長性は、互いの知覚領域に「侵入することによる学習(learning by intrusion)」をもたらすのだ。
> また情報の冗長性は、ウォーレン・マカロックの言う「潜在的指揮の冗長性の原則 ★ 55」、すなわちシステムの各部分が同じ重要度を持ち、状況に応じてリーダーになることを可能ならしめるための必要な要件でもある。厳格に階層的な組織の内部でも、重複共有された情報は、非公式のコミュニケーション・チャネルの構築を助ける。したがって情報の冗長性は、階層的組織(ヒエラルキー)と非階層的組織(ヘテラルキー)が相互に成り代わるのを助けるのだ ★ 56。
> また、重複情報を共有することによって、個々人は組織における自分の位置を知ることができる。それは、個人が組織全体の方向に合うように自己制御するのを助ける。個人はばらばらではなく、互いにゆるやかに結びついており、組織全体の中で各人が自分にとって意味のある位置を占めるのだ。このように情報の冗長性は、組織にその方向を自己制御するメカニズムを提供する。
> 組織に冗長性を組み込むもう一つの方法は、非常に異なる技術分野あるいは職能部門の間での、たとえばR& Dとマーケティングの間での、人事の「戦略的ローテーション」だ。そのようなローテーションは、組織成員が自社のビジネスを複数の視点から理解するのを助け、組織知をより流動化して実務に使うことを容易にする。またそれによって各個人は、技能や情報源を増やすことができる。そして個人が職能横断的に保有する当面必要とする以上の情報が、組織の知識創造能力の拡大を助けるのだ。
> 原型とは、ハードな製品開発の場合はプロトタイプの形をとり、新しい企業理念、経営システム、組織構造などのソフトなイノベーションの場合は、それらの試行メカニズムの形をとる。
> 繰り返して言うが、組織それ自体は知識を創ることができない。個人の持つ暗黙知が組織的知識創造の基礎であり、新しい知識の豊かな未開拓の源泉であるから、それに焦点を当てることで知識創造プロセスを始めるのは当然だろう。しかし、暗黙知は簡単に他人に伝えることはできない。それは体験によって獲得され、言葉にするのは容易ではないからだ。したがって、経歴、ものの見方、動機が異なる複数の個人間での暗黙知の共有が、組織的知識創造を起こすためのきわめて重要なステップとなる。そして、個人の感情、想い、メンタルモデルの共有が、相互信頼を築くために必要だ。
> このフェイズでは、メンバー間の対話と協力によってコンセプトが創られる。メンバーの自律性は、思考を自由に発散させるのを助ける。そして組織の意図が彼らの思考を一つの方向に収束させるための手段となる。
> 知識創造企業のトップの役割は、正当化基準としての組織的意図を、戦略やビジョンの形で設定することである。
> このフェイズがうまくいくためには、各組織単位がよそで開発された知識を組織階層や部門間の境界を超えて受け取り、それを自分のところで自由に応用する自律性を持っていることが非常に重要だ。内部のゆらぎ、たとえば頻繁な人事ローテーションは、知識の転移を促進する。情報の冗長性や最小有効多様性も同じ効果を持つ。そして組織内での転移では、組織の意図が、知識を交配してよいかどうかについてのコントロール・メカニズムの役割を果たす。
- 人事ローテーションが知識転移を引き起こすためには、ローテーションされた先でその人が知的活発に活動する必要がある。組織の意図が常に上位価値として存在している。
> Graumann(1990)は,対話を複数視点からの認知だと見る.前にも述べたが,「発話行為」(Austin, 1962;Searle, 1969)という用語が示唆するように,言語は本来的に行為に結びついている.したがって,対話は集団的行為だと見ることもできるだろう.
> 彼らは,組織的に行動するには意味を創り出して共有することが重要だと強調し,組織が意味を共有するためには,共同体験の結果としての同じ意味が形成されなければならないと論じている.彼らは対話の分析から,同じ意味を形成するための4つのメカニズムを発見したが,メタファーはそのうちの1つである.
> さらにメタファーは経済的な認識ツールと見ることもできる.Rosch(1973)によれば,われわれはモノをその特徴によってではなく,彼女が「プロトタイプ」と呼ぶそのモノの良い実例を通じて理解するという.鳥のプロトタイプとしては,[身近な]コマドリはカモメより良く,カモメは[飛べない]ペンギンより良い.最良のプロトタイプは,最小の認識エネルギーで最多の情報を提供する.
> Neisser(1976)は,「知る」と「理解する」という意味での認知は,ある目的を持った行動の文脈でしか起こらない,と論じた.さらにWeick(1979)は,組織論の観点から,組織の環境情報の解釈には自己成就的予言の要素があると主張した.なぜなら組織は,希望している状態を自己実現したいという強い意思を持っているからである.彼はこの現象を,環境を舞台と見立てて主役を「演技すること(enactment)」と呼んだ.
> 認知には限界があるという考え方は,実際の常識に近いので,打ち破ることは難しい.しかし,人間は知識を獲得するあるいは創造する無限の能力を持っているという視点から同じ問題を考えてみれば,人間は体験を通じて限りなく暗黙知を蓄積することができるように見える.この暗黙知の蓄積を支えるのが,目的意識と自律性なのである.人間はしばしば意図的にノイズを創り出して自己を乗り越えようとする.
> 二番目にそれは、知識創造を促進する五つの要件と知識創造のファイブフェイズ・モデル──暗黙知の共有、コンセプトの創造、コンセプトの正当化、原型の構築、知識の転移を例証している。このケースは、知識創造が線形(リニアー)プロセスではなく、繰り返しの多い循環的なプロセスであることを示している。その証拠に、ホームベーカリーの開発は、五つのフェイズを三度も循環する知識創造プロセスを必要とした。
> お互いが共通の言葉で語り合うことによって集団の力が結集されるのです。これが重要なポイントなんですね。そういう共通の言葉を作るのには時間がかかりますが ★ 3。
> 最後の促進要件は、組織の「意図」の開発だ。それは、多様な人々の集まりを方向づけ、一つのゴールに導く。
> 企画チームが帰国して間もなく、松下電器とは資本関係のない部品メーカーである星電器(現ホシデン)から、家庭用自動パン焼き器の商品化案が大まかなデザインとともに持ち込まれた。松下電器の企画チームは、その動きからただちに「イージーリッチ」というコンセプトと自動パン焼き器を結びつけることを考えた。自動パン焼き器のアイデアは、新事業部の目標に合った具体的な特徴を持っていた。それは、製品としてはまったく新しいが、炊飯器のマイコン制御の電熱システム、フードプロセッサーのモーター、ホットプレートの加熱器など複数の要素技術を活用できる。
> トップダウン・モデルは、知識創造を情報処理というパースペクティブの枠内でしか考えない。すなわち、選ばれた簡潔な情報が組織のピラミッドのトップにいる役員たちに上申され、それをもとに彼らが作った計画や命令が、ヒエラルキーの下のほうに降ろされる。言い換えれば、トップが基本的なコンセプトを創り、それを下のほうの組織成員が実行するという分業制によって情報が処理されるのだ。トップのコンセプトは、ミドルマネジャーたちがそれを実行するための手段を決める際の条件となり、ミドルの決めたことが、それを実行する第一線ロアー社員の業務の条件となる。第一線のレベルで実行するのは、ほとんどが通常業務だ。こうして、組織全体で大量の仕事と情報を処理するのである。
> この伝統的な組織モデルの背後には、トップマネジャーだけが有能で知識を創ることを許されている、という暗黙の前提がある。  さらに、トップによって創られた知識は、ただ処理され実行されるためだけに存在する。それは手段であって目的ではない。トップの創るコンセプトは、いささかも曖昧であったり多義的であったりしてはならない。別の言葉でいえば、それらのコンセプトにはいずれもたった一つの意味しかない、という前提に立っている。  したがって、それらは、ある限られた実利的(プラグマティック)な目的のために創られるという意味で、機能的なコンセプトなのだ。限られた情報処理能力を持った従業員たちが大量の情報に対応できるのは、この演繹的な情報交換のおかげなのである。
> 「上司」という考えは、3Mでは据わりが悪い。企業家は自分の運命は自分で決めるのを好む。3Mは、ヒエラルキーというコンセプトを否定しようと努めてきた。
> 3Mでのトップマネジャーの役割は、メンター、コーチ、スポンサーである。彼らは、何かを熱烈に信じている社員を見つけ出し、絶えず目をかけ、彼が直感したものを追い求めてゆくのを助けるために、その地位にいる。彼らは、そのような社員を早まった干渉から守ってやるために、そして時がきたら彼を巣から飛び立たせるために、その地位にいる。
> 「船長は血の出るほど舌をかむ」というのは、スポンサーはいったん誰かに賭けたら、そのプロジェクトに口を出すな、ということです。後援者に必要な特性は、 ① 信念、 ② 忍耐、 ③ 一時的失敗と致命的失敗の違いを見抜く目、を持つことです ★ 20。
> 3Mは、創立時の失敗の上に築かれた会社にふさわしく、失敗をビジネスを営むときの当然の一部として許容し続けてきたことを誇りにしている。
> 一方で、現CEOのデシ・デジモニは、大ヒットになる製品に反対した自分の失敗を認めて、次のように言っている。  実際、私もシンサレート開発のときは、「もうたくさんだ、こんなものはやめよう」と、そのプロジェクトを切る側に立ったのです。けれども、自主的な開発は続けられるように抜け穴は残しておきました。言い換えれば、プロセスの適当なところで「目をつぶる」ということです ★ 21。
> もし新製品開発プロジェクトをストップしたいときは、立証責任はそのプロジェクトをストップさせたい側にあり、それを提案している人にはない。「このアイデアは良いという側からそのアイデアは駄目だという側に立証責任を移すことは、企業家的な社員の後押しという意味で、社内環境を変えるのにものすごい効果がある」と、ある3M社員は語っている ★ 22。
> 違ったリズムを持った人たちが集まれば、衝突が起こる頻度は高くなります。彼らが拡散しようとしているときにまとめようとしてもうまくいきません。最初からリズムが合っていたら、とてもいいものは出ません。大きな命題だけを一つ与えて、グループに分け、徹底的に発散させ、競争させるのです。一つのグループでなく、複数のグループが並行してやるのですから、もちろん無駄が生じますが、それはわかってやっているのです。発散と収束のリズムを創ること、それが合宿を成功させるコツなのです ★ 26。
> ジャック・ウェルチが創ったコンセプト、たとえば「ナンバーワン、ナンバーツー」や「スピード、シンプル、自信」などは、従うべき命令ないし指令のようなものとして、組織の階層を通じて下達される。3Mの場合、自発性を持った社員によって創られたアイデアは、その本人自身に任せられ、自己組織的に伝達される。それらとは対照的に、キヤノンやホンダは、対話、合宿、あるいは(会社によっては〝ノミニケーション〟と呼ぶ)「仕事の後の一杯」などを通じた双方向コミュニケーションに頼ることが多く、メタファーやアナロジーをよく使う。
> 知識業務と知識労働者の生産性に関心を持つドラッカーは、知識を「資源」と見なしている。われわれは、知識を資源でもあり生産物でもあると見なし、ナレッジクリエイティング・クルーによる知識の創造により関心がある。
> 同様に、体を使った経験は販売現場の人たちの新たな知識の基礎となる。たとえば、オンワード樫山、レナウン、山陽商会などの日本の大手アパレル企業は、販売員を主要なデパートの洋服売り場に派遣し、そこでの顧客との対話を奨励している。顧客のニーズはほとんどが暗黙的であるから、彼らは本当に何が欲しくて何が必要なのかを正確にはっきりと言うことはできない。「必要なものは何ですか? 何が欲しいですか?」と尋ねられても、たいていの顧客は過去に得た限られた形式知で答えようとする。顧客と意味のある対話を行うことによって、販売員たちは、顧客の暗黙的な知識ベースを動員するのである。アパレル企業は、こうして得た知識をもとに、気まぐれな顧客が何を考えているかを判別する能力と、それに合った将来計画を企画する能力を高めるのである。
- 当人の合理性を超えた提案
> ナレッジプラクティショナーは、理想的には次のような資質を持っていなければならない。まず、高度な知的水準を持っていなければならない。第二に、自分のものの見方に応じて世界を創り変えることへの強いコミットメントが必要だ。第三に、会社の内外でさまざまな体験をする必要がある。第四に、顧客あるいは会社の同僚と対話を上手に行う技術を持っていなければならない。第五に、率直な議論ないし討論を行うために度量を広く持つ必要がある。
> 中間レベルのビジネスコンセプトや製品コンセプトを創ることによって、「こうであるという現実」と「こうあるべきだという理想」を仲介するのだ。
> ② 新しいコンセプトを創るための仮説設定技能を身につけている。
> ⑤ メタファーを用いて、他の人がイメージを創り出し、それを言語化するのを助けるのがうまい。
> ナレッジオフィサーは、 ① 企業はどうあるべきかについてのグランドコンセプトを創り出し、 ② 企業ビジョンや経営方針声明の形をとった知識ビジョンを確立し、 ③ 創られた知識の価値を正当化するための基準を設定することによって、企業の知識創造活動に方向感覚を与えるのである。
> ナレッジプラクティショナーの仕事が「こうであるという現実」についての知識を創ることだとすれば、ナレッジオフィサーの仕事は「こうあるべきだという理想」についての知識を創ることだ。ナレッジオフィサーの責任は、企業の最上位(アンブレラ)あるいは壮大な(グランド)コンセプトを創り出すこと、すなわち一見ばらばらの活動やビジネスを調和のとれた全体に結びつける共通の特性を高度に普遍的・抽象的な言葉で示すことである。
> ナレッジオフィサーのもう一つの重要な役割は、企業の価値体系となる知識ビジョンを確立することだ。この価値体系が、企業の創る知識の質を評価し正当化するのである。ナレッジオフィサーは、自分たちの大望と理想が企業の創る知識の質を決めることを知っていなければならない。
> しかし、タスクフォースにも弱みがある。その時限性から、タスクフォース・チームで創られた新たな知識は、プロジェクト完了後ばらばらになり、他の組織成員へは容易に伝わらない。したがってそれは、知識を組織全体に幅広く伝えながら連続的に利用するのには不向きだ。多数の小規模なタスクフォースだけで構成された企業組織は、企業全体のゴールやビジョンを設定し達成する能力がない。
> 企業組織は、ダイナミックなスパイラルプロセスの繰り返しによって、新しい知識を絶えず創造、共有、蓄積、利用できる戦略的能力を備えていなければならない。この観点から見れば、ビューロクラシーは連結化と内面化に効果を発揮し、タスクフォースは共同化と表出化に適している。言い換えれば、前者は知識の利用と蓄積により適しており、後者は知識の共有と創造に効果的だ。企業組織は、ビューロクラシーの効率性とタスクフォースの柔軟性の両方を追求しなければならない。知識創造の強固な基盤として、これら二つの組合せ、すなわち統合が必要なのである。
> 組織進化論の発見の一つに、「適応は適応能力を締め出す(Adaptation precludes adaptability.)」というものがある。過去の成功への過剰適応(overadaptation)だといってもよい。恐竜がその一例である。太古の一時期、この生き物は、生理的にも形態的にもある一定の環境に適合していた。しかし、その環境に適応しすぎて、ついには気候とエサとなるものの変化についていくことができなかった。日本軍は同じ罠に陥った。過去の成功に過剰適応して、変わりつつある新しい環境の中でそれらの成功要因を「学習棄却(unlearn)」することに失敗したのである。
- チーム「ワーキング」と動的に捉える所以
> ハイパーテキスト型組織の最も重要な特徴は、そのメンバーが持っている文脈を変える能力、ある文脈から別の文脈へ簡単に出たり入ったりする能力だ。
/icons/hr.icon
#2025/08/23
https://www.amazon.co.jp/dp/4492522328/
野中郁次郎
竹内弘高
梅本勝博
https://gyazo.com/e37dbfd3514ae861d51390cb4e0ec14c