2025年3月の日記
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何年もtwitter終わる話してるけど、twitter検索だけは本当になくならないでほしい
情報が溢れている中での差別化ポイントとして「誰が言っているか」がでかくて、たとえば好みが近い人がおすすめする本なら読むかあとなる
そういう意味でtwitterのフォロー内検索に勝る情報源がない
あと単純にマイナーな技術情報とかtwitter検索でしか見つからないこともあるから誰かアーカイブして……
keyball、超気持ちいい
トラックボール動かしてる間だけマウスモードにしたり、英字キー長押しで修飾キーにしたりでキー数を圧縮するので、誤爆は間違いなく増える
英字キーとBSの同時タップで任意回BS/del連打とか行クリアができるマクロめっちゃ良いんだけど私以外にやってる人見たことない
効率厨みたいなことするの好きだけど、効率とかじゃなくて気持ちよくなりたいからやっている
「アイデンティティ」はレイヤーがあって、一番下に肉体があり、次に名前、次に所属、次に振る舞いや考え方というふうになっているな
この順番は交換不可能性が基準で、上層は流動的だが下層は削っても残る
下層は意思でどうにもならないことが多いのでそこで判断するルッキズムや職業差別はよくないという話になってくる
もちろん内側から見るのかと外側の誰が見るのかで話は変わる
肉体に目隠しをかけ名前を交換可能にしたのがインターネット
自分は最高の基準に感情を置いていて、この点で人と話すときに食い違いが起きやすい
宇宙の中心に感情があり、生きる意味も行動原理も源泉はここにある
「合理的」とかも感情の達成のためのいち道具にすぎない
もちろん感情だけだと赤ん坊と変わりないから、奉仕して社会に適合させる役割として理性がある 暴れ馬のご主人様をなだめるためここまで饒舌になってしまった
気持ちがそう叫んでいるならどれだけ損なことでもするし、その自己責任は負う覚悟があるのだけど、「それは大変だね。考え方を変えて合理的な行動に納得できるとといいね」みたいに言われると、違うんだ……と思う
癌細胞であろうとも自分の気持ちをバグとして切除したくない 安らかにくたばらせて花を添えてやりたい
こういう意味で反生成AI云々の議論には思うところがある。私は作ったものが学習されて利用されることに何も感じないけど、嫌だと思った人の嫌さは真実だと思うから尊重してやりたい。時代の流れに後押しされた理屈に押し潰されつつある素直な感情の発露に対して世間の目が喧嘩腰すぎるように見える。もちろん理論武装のやり方がまずかった層は多かったけど……。
身近な例だと10キロ以上ある道でも「歩けるな……」と衝動サマが言ったら歩くし、もっと重要な選択でも他人に許される限りは魂の叫びに従う
右脳優位だかなんだかわからないけど感情が「自分そのもの」になってるから曲げられないんだろう
話すこと考えること自体は人並みには理性的だと自負してるけど、それは感情を守るための理性で、違うタイプの人と話がうまく噛み合わない
社会的でない個人の話で「手段の目的化」みたいな言葉を見ても「それが何?普通のことでは?」と思う 感情以上の高次の目的なんてないし、感情が目の前のものに没入することで落ち着くならそれでいいじゃないかと 逆に自己目的化以外のモチベーションで行動できる人が信じられない
感情に基づく場当たり的な生き方で迷惑をかけてしまうことがあるのは、本当に申し訳ないと思っている
これでもだいぶ抑圧してるほうで、こう育っちゃったんだから仕方ないだろ、できる範囲で譲歩していくから許してねという気持ち
「結論から話す」派と「過程から話す」派の対立では、私は完全に過程から派だな
過程は客観的な観測事実で、結論は主観的な判断だから本質は過程にあると思ってる
結論からだと感情論の後出し弁護にも結び付きやすいし、過程を共有することで話者が想定しない結論に辿りつく余白を残すのが対話として健全に思える
厳密さを求めると不安定な判断より過程に比重を置くべきで、伝わる速さを優先していろいろなものを切り捨てるようなマッチョイズムに呑まれてない分こっちのほうが論理的じゃない?と感じる
もちろん結論先のほうが話が早いからありがたがられるのもわかっていて、だからこそこの文も最初に立場の表明という結論先に近いことをやっている
それでも「過程から話す人のほうが論理的である。なぜならば……」はしない
言ってしまえば私の立場は不確定なことの断言を避ける「弱虫の論理」でもある
「結論から」は主観で殴り合う「議論」的な世界観なら話が早くて有用なのだろうけど、「相談」的にしたほうが合意形成という会話の最高目的に沿ってない?と思う
この考えなんか既視感あるなと思ったらこれか
ここまで書いてなんだけど結論先メソッドも自分にインストールされてるかもしれない 「結論から話しなさい」とは言われても「過程から話しなさい」とは言われない風潮に異論があるだけで
思考も言動も嗜好も立脚点はけっきょく最近触れ合ったもののどこかにある気がするので、環境や触れるコンテンツを意識的に調整すれば自分の思考までデザインできるんじゃないかと思ったけどそうしてまでなりたい自分像がないな……
「エグい」をマジでシャバい言葉だと思っていて、強く軽蔑している 老害になろうともこの立場は堅持していきたい
まあ「えげつない」の短縮形としてなら許容できるけど、街中そこらで聞く使われ方としてのエグいはほんとうに救いようのない軽薄な言葉だと思っている 顔ないも横転もやめましょう 全部やめましょう
気高くあれ、人類……
これは私の言葉遣いも見る人によっては汚染されきってることに自覚した上でのジョークです
言葉遣いに対しては自分もずっと考えの変化があって、たとえば敬語の使い方は最近大きく変わった
敬語は他者の視点を意識しているというのを明示するときだけにして、日記的な場ではむやみやたらに使わないようにしようという変化
ちゃんとうまく使えれば全然アリだと思うし、敬語主体の好きな日記的な文章を書く人はいっぱいいるのだけど、私がやるとなんかソワソワして軽薄な感じがするなあと
今はもっと平易な言葉遣いにしたいなあと思っていて、ここまで書いてきても「◯◯性」みたいに現代文国語みたいな小難しい言葉はなるべく使いたくないなあと思っている
平易な言葉でも本質を突けばいい文章になるはずで、でも思ったことをさっと言葉にしようとするとどうも語彙の運用がうまくいかずこうなってしまう 屁理屈オタクになってしまう
「自分が存在する」というどんな悲劇よりも恐ろしい事実が残酷なまでの当事者性をもって常に存在していて、普段はなるべく忘れるよう振る舞っているが、ふと我に返ってさびしくなる
人生が一度しかないこと、時間が一方向に進んでいる(ように見える)こと、何もないのではなく何かがあること、こんなに不思議なのになんもわからないこと、いつか死ぬこと、この絶対的なストーリーの演者であることから抗えないこと、全部怖くて悲しい なんでこんなデスゲームの登場人物なんですか私は どうすりゃいいですか
露悪がほんとうに苦手だな
ネットで人をブロックやミュートする理由の半分近くを占めている リアルでも全力で距離をとりたくなる
ネガティブな言葉は見た人のほとんどにどんよりとしたもののとしてのしかかるし、100人に肯定されている人の気持ちも1人の否定で曇る
露悪がくせになっちゃったり開き直ってる人にも背景があるのだろうけど、表層しか見れない以上嫌いと言うしかない 公害みたいになっちゃってるもの
とはいえ愚痴を言わずに内に秘めるのがしんどいのもよくわかる 嫌いなものがあったらそれを肯定されたくなるのもわかる 抑圧したほうが上品だとは思うが健全ではない
自分に刺さった矢を抜くために否定を再生産しなきゃいけない構造を含めて嫌いだ~~ずっとこれ言ってる
「分析」は攻撃である 言葉による征服
物事を任意の切り口で切り取って、未確定の無限の広がりを有限の広がりに矮小化して固定することに暴力性がある
俯瞰で見ることで高所有利をとれる 私も高いところが好きだからこんな文章を書いている
なんか思うところがあっても「攻撃」になりうるから、言ってよいという判断なしには言わないところがある
「まぶたを閉じていても中にはちゃんと眼球がある」という話は目には本質的な休みがないという気味の悪さを感じている
私は心臓が止まったまま生きてみたいと思うし、なんなら1年くらい脳のスイッチ切って休みたい
人生の休みのなさは不気味に思える 時間を止まったり戻ったりふわふわ泳いだりできたらいいんだけど
久々にscrapbox開いたけど昔の日記読むの怖い リセットしたくてたまらないのをこらえている
人は、変わります 私は特に
今の自分の文章は、自分以外の話するとき予防線張りまくっててすごい 譲歩構文何回使ってるんだ