私たちは自分のやりたいこと・好きなことを他者に与えられている
私たちは自分のやりたいこと・好きなことを他者に与えられている
序章 好きなこととは何か
さて、カタログからそんな「その人の感覚のあり方」を選ぶとは一体どういうことなのか?
人は、国や社会が豊かになれるように働いてきた
この余裕とは、金銭的な余裕と時間的な余裕の2つがある
では、続いてこんな風に考えてみよう。富んだ国の人たちはその余裕を何に使ってきているのだろうか。
富む前は「願いつつも叶わなかった自分の好きなこと」に余裕を使ってきたが、富んだ社会や国にすむ人たちは「自分の好きなこと」がわからない
わからないから旅番組やCMなどをみて余裕を使う先を見つけようとする
好きなこと=趣味とする。趣味とは、「その人の感覚のあり方」のことである つまり、彼らはカタログから「自分の感覚のあり方」を選んでいることになる
そして、そのカタログは生産者の都合で作られたものであり、消費者の内から湧き出た「自分の好きなこと」ではない
昔スティーブ・ジョブズは「本当に欲しいものは自分ではわからない。素晴らしい製品は与えられて初めてこれが欲しかったのだと気づく」といい、iPhoneを作った
生産者の都合で良いように与えられた「好きなこと」は自分の感覚から湧き出た好きなことではない
資本主義の全面展開によって、少なくとも先進国の人たちは裕福になった。そして暇を得た。だが、暇を得た人々はその暇をどう使って良いかわからない。何が楽しいのかわからない。そこに資本主義がつけこむ。
人は退屈を嫌う。暇ができて使う先がわからないと、退屈する 退屈するのが嫌だから、暇の埋める対象を探そうとする
資本主義が提示した「お金と時間の使い方」に、私たちはある種奴隷のようにすがってしまう
これが暇の搾取
結局、私たちは豊かな社会を手に入れた今、文化産業が提供してくれた「楽しみ」に向かっているだけではないのか
暇と退屈が与えられた時に、搾取されないために何ができるか?