人們對電影的論述,實則只是對於電影的紀錄罷了
語られた映画とは実は常に映画の記録のことでしかない
さししめることはおろか引用すらできず語ろうとするときには提示することも不可能で
在談論時也不可能當成參照文件提出
しかも他者との享受的体験すらない個的な経験
況且它不是與他人共享的體驗,而是個人性的經驗
それが映画を見るという行為の実相だ
這就是名為「觀看電影」的行為的真相
人は自分が見たものを言葉であらわすことはできない
人是無法用話語表現自己所看見的東西的
見るということと見たことを言葉であらわすということの間には結局なんの関係もないんだ
「觀看的行為」和「使用話語去表現所看見的」兩者之間
實際上是沒有關聯的
映画を見ること、見たこと、見た映画について語ること
そして映画を見ることについて語ること
觀看電影、觀賞完畢和談論所看的電影,以及談論觀看電影這回事
これらの行為の間にはいかなる共通項も存在しないし、
這些行為之間完全不存在任何共通點
複数の人間の間においてはもちろん同一の個人によっても
不論是在一群人裡
或是同一個單獨個體
一本の映画が同じ体験として我々の前に立ち上がることは
「同一部電影能夠提供給我們同樣的體驗」這種事情
テキストとしてのフィルムが単一の存在であるという
只有在「電影是如同文章一樣的單一存在」
幻想を前提としてしかありえない
這種幻想為前提時才有可能
そう
那麼
ある映画を正確に語ることが可能な場所
そんなものがもしあるとするなら
如果真有這種地方存在
それは現に進行しているその映画の中においてほかにないのかもしれない
就只有正在放映的電影之中了
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