幸せになる勇気
https://m.media-amazon.com/images/I/913abZi75gL._SL1500_.jpg https://www.amazon.co.jp/dp/B01AHLTSAY?tag=1000ch-22
褒めても叱ってもいけない思想を子供達に届けようとしたときに、機能せず実用に堪えない
アドラー心理学が要求することは、その実厳しい。世界の見方をひとつ提供しているに過ぎず、誤解されやすい
人生における最大の選択「愛」
アドラー心理学は宗教か
アドラー心理学はギリシア哲学と同一線上にある
宗教も哲学も科学も、「私達はどう生きれば良いのか」という問いから出発している点で、同一。
科学は客観的な事実認定、哲学や宗教は「真」「善」「美」を取り扱い、宗教は「物語」で世界を説明する。宗教は歩みを止めること、哲学は歩み続けること
教育の目標は「自立」である
課題の分離を教育で考えると、子どもが勉強することは子どもの課題であり、親に承認されるためではなく自分自身の課題。それであれば教育そのものが子どもへの介入ではないか?
アドラーにとって、むしろ教育は中心課題のひとつであった。人が普遍的に持つ優越性の追求は、無力で不自由な自分からの自立。教育は介入ではなく援助
社会で生きるために必要な人間知
尊敬とは「ありのままにその人を見る」こと
自立を目指した指導・援助の入口は、人間への尊敬。教育現場においては、教える側が教えられる側を敬う
尊敬とは「人間のありのままの姿を見て、その人が唯一無二の存在であることを知る能力」であり、そのままを認める、つまり勇気づけの出発点
尊敬 respect の語源であるラテン語の respicio は「見る」という意味がある。その人がその人であることを見て、成長や発展を援助する
「他者の関心事」に関心を寄せよ
共同体感覚とは「社会を形成する他者への関心」。アドラー心理学は、科学でありながら価値を持ち込んだ故に理解されなくなった
その一歩目は「他者の関心事」に関心を寄せること。おもちゃで遊んでいる子供からそれを奪い、自分達の信じる「価値のあること」を与えようとするのではなく、子供がなぜそれで遊んでいるのかを理解する。そこから尊敬が生まれる
「他者の目で見て、他者の耳で聞き、他者の心で感じること」
もしも「同じ種類の心と人生」
誰しもが、客観的な世界ではなく、主観的に意味づけした世界に住んでいる。世界がどうあるかではなく、世界をどう見ているかに目を向ける
このように主観から逃れることはできないが、「もしもこの人と同じ種類の心と人生を持っていたら」と想像することはできる、これこそが共感であり、他者に寄り添う技術であり態度
勇気は伝染し、尊敬も伝染する
友達になるのではなく、対等な存在として接し、生徒たちに「尊敬」を教える
学校教育で求められるのは資本主義社会を生きる学力の向上であり、人格や茫漠とした人間知ではない。学力向上に貢献すると感謝される、それは一時の叱責を経た生徒からでさえ感謝されることもある
「変われない」本当の理由
人間は過去の原因に突き動かされるのではなく、現在の目的に沿って生きる。だから、過去の出来事によって決定される存在ではなく、出来事に与える意味で自らの生を決定する
この目的論からすると、「変わらない」のは「変わりたくない」から。変化は極端に言えば、これまでの自分に死を与えること
「叱ってくれてありがとうございます」は、今を肯定するために過去を肯定している。これは強権的な教育に他ならない
過去の教育に不満を持ち感謝などしていないとすれば、理想とは程遠い「今の自分」に満足していないから、過去を否定し可能性の中に生きようとしている
過去のことはすべて解釈であり、本当の意味での過去は存在しない。目的論の本質に迫るには、ここまで踏み切る必要がある
あなたの「いま」が過去を決める
過去が存在しないとしたら、歴史とは何か?時代の権力者が正当性を証明するために改竄され続ける巨大な物語。誰しもが「自分」という物語の編集者、正当性を証明するために自由自在に書き換えていく
使用の心理学
悪いあの人、可哀想な私
不幸に彩られた過去を、自らが必要としている。悲劇という安酒に酔い、不遇なる今の辛さを忘れようとしている
我々の心を表す三角柱に、「悪いあの人」と「可哀想な私」が描かれている、自分からは2面しか見えない。重要なのはもう1面の「これからどうするか」
アドラー心理学に「魔法」はない
語るべきは「これからどうするか」であり、残りの2面に語るべきことはない、傷口を慰めてもそこへの依存を生む
「目の前にいるあなた」を知れば十分であり、原理的に「過去のあなた」を知りようがない
カウンセラーはその三角柱を渡し、話すことを考えてもらう。多くの人は「これからどうするか」の中身を考える
アドラー心理学は「建設的で科学的な、人間への尊敬に基づく、人間知の心理学」
教室は民主主義国家である
尊敬から始める、そこでの民主的な手続きによって作られたルールに従う。民主主義の主権は国民にあり、学級という国家の主権者は、教師ではなく生徒。教師は、そこから選ばれた立場ではないので、大統領ではない、単なる独裁国家
その組織の腐敗の根源は、褒める・叱るといった賞罰にある
叱ってはいけない、褒めてもいけない
それぞれケースごとに考える必要がある
叱ってはいけないのは「それが良くないことだと知らなかった可能性」。虫眼鏡を使って虫の世界を覗き見る、そして黒い紙に光の焦点を集めて燃えることを知る、そして蟻に試す…その時に叱るのではなく「教える」
幼稚園児ならともかく、小学生・中学生ともなれば確信犯的にやっている、その背後に働く心理は5段階ある
問題行動の「目的」はどこにあるか
「称賛の要求」、褒めてもらうことが目的である場合、共同体の中で特権的な地位を得ること。良いことをしているのではなく、褒められることをしている
「注意喚起」、褒められなくてもいいから注目を集めたい、共同体の中で居場所が欲しい。良い子としてではなく悪い子として、それを叶える
わたしを憎んでくれ!見捨ててくれ!
「権力争い」、積極的な子は反抗、消極的な子は不従順によって戦いを挑み、権力を獲得しようとする
「復習」、戦いを挑んでも勝てなかった相手に復習する、愛を得られない場合に憎しみによって注目を集めようとする、相手が嫌がることを行う
「無能の証明」、これ以上私に期待しないでくれという思い、人生に絶望し自分のことを心底嫌いになり、何も解決できないと信じ込む。無能を証明するために愚者を演じる
「罰」があれば「罪」はなくなるか
すべては所属感、共同体の中で特別な地位を確保すること
叱ることで問題行動がなくなったと思いきや、ずっと叱り続けるのは根本的に解決していないから。そして、叱られることが彼らの望みなのである
叱るのは法と秩序を守るため。罪に対する抑止力としてやる。しかし、叱責が効果的に機能しないのは何故か?
暴力という名のコミュニケーション
暴力を伴う喧嘩が発生した場合、互いの言い分を聞き非のある方に謝ってもらう、少しでも罪悪感を覚えてくれれば良しとする
この場合も三角柱を使って考える。この場合も、喧嘩の原因ではなく、目的を聞き「これからどうするか」を話す
コミュニケーションの目的は、意志の伝達ではなく、合意を形成すること
議論で勝ち目がないと思った人が取る、最後のコミュニケーション手段が暴力。これは道徳的観点の評価ではなく、人間としてあまりに未熟な行為である
怒ることと叱ることは、同義である
暴力とまでいかずとも、声を荒げる・机を叩く・涙を流す、などして威圧し主張を通そうとする。これは暴力的なコミュニケーションである。手っ取り早く屈服させるために、叱っている
子供の問題行動を前にしたとき「裁判官の立場を放棄せよ」、守るべきは問題を起こした子供である。教育者はカウンセラーであり、カウンセリングとは教育である
叱責を受けると、暴力的な行為への恐怖と共に、無意識のうちに「この人は未熟である」という洞察が働く。これでは尊敬できない。怒りは人と人を引き離す
「子供たちは未熟でわかっていない、だから叱る必要がある」という主張が、「悪いあの人」と「可哀想な私」の話そのものである
変えられないものに執着するのではなく、眼前の変えられるものを直視する。ニーバーの祈り 自分の人生は、自分で選ぶことができる
叱らず、原因も問わず、どうするかを聞く。ここで出てくる言葉は、口先だけの反省である。許してもらうための言葉を引き出すのではなく、その人の生き方を問う
真の自立について「人間が未成年の状態にあるのは、理性が欠けているのではない。他者の指示を仰がないと自分の理性を使う決意も勇気も持てないからだ。つまり人間は自らの責任において未成年の状態にとどまっていることになる。」
この理性とは、知性と完成を含めた能力全般である。自分の理性を使う勇気を持つ
しかし、周囲の大人は子供を「未成年の状態」に置く。自立の危険性とリスクを、あの手この手を使って吹き込み、自分の支配下に置く。自立されて、対等な立場に立つことが怖いから。これはつまり縦の関係を築いており、全ては自らの保身のため
カウンセリングにおいても、相談者を「依存」と「無責任」の地位に置かない
教育の目的は自立であり、「先生のおかげで」という言葉を待つのではなく、子供の自立に貢献することに幸福を感じる
人生の意思決定は自分で行う、判断を提供するのではなく、判断に必要な知識と経験を提供し、決断を援助する
「褒めて伸ばす」を否定せよ
親御さんと話す「叱る子育て」と「褒める子育て」があるが、後者が支持される。しかしアドラー心理学では、褒めることを「能力がある人が能力のない人に下す評価であり、その目的は操作すること」であるとする
カミュの異邦人
褒めることを目的としていても、学ぶ喜びを知り、やり遂げる快感を覚え、自ら巣立っていくことで、自立に繋がるのではないか?
褒賞が競争を生む
「学級は民主主義国家である」「独裁者の率いる組織は、腐敗を免れない」
しかし独裁的なリーダーが必ずしも国民から嫌われてるわけではない。ここには苛烈な賞罰が影響しており、国民は「褒められること」と「叱られないこと」を目的とし、従っている。こうして共同体は、褒賞を目指した競争原理に支配されていく
競争原理によって周囲を的だと見做すライフスタイルを身に着けていく。好敵手・盟友の存在は重要だが、競争してはならない
共同体の病
人生をマラソンに例えた時に、好敵手が並走していることの心強さは存在する。しかし、そこで「勝とう」と思った瞬間に「完走する」「速く走る」という目的が変わり、好敵手は敵になり、勝利を目的とした駆け引き、妨害や不正が生まれ嫉妬や劣等感に苦しめられる
独裁的なリーダーが率いる共同体での「勝ち」は曖昧であり、明確な基準がない。仲間の足を引っ張ったり、他人の手柄を横取りしたり、自分だけが認められようとリーダーに媚を売る人が跋扈する
それを防ぐには、賞罰も競争もない、本当の民主主義が貫かれていなくてはならない。競争原理ではない協力原理に基づいて運営される共同体が必要だ
問題行動を起こす生徒がいたとしたら、その生徒に個別に対処する発想は誤っている。その生徒が悪だったからではなく、学校に蔓延する競争原理が問題である
人生は「不完全」からはじまる
教室は個の集合である、競争を取り除くというシステムなアプローチは難しい?個々に向き合うために、承認欲求を満たすことは、他人の人生を生きること。しかし、実際にはそこまで強い人間は存在しない、勇気を与えるには褒める必要がある?
心より体が先に育つ、原理的に不完全さを感じ、誰しもが劣等感を覚えて育つ
文明は人間の弱さを克服するための歩みであり、共同体を作ることで協力関係の中に生きることを選んできた。即ち、人は孤独に生きれない、全ての人間には共同体感覚が存在し、人間のアイデンティティに結びついている
「わたしであること」の勇気
問題行動の五段階に及ぶのは、共同体の中で特別な地位を得て、所属感を覚えるため
他者からの承認は終わりがない、依存を作り出し永遠に求め続ける。自分の価値を他者に決めてもらうことは依存、自分の価値を自ら決定することは自立
普通であることの勇気を持つ。他者との差別に生きず、わたしであることに価値を置く
その問題行動は「あなた」に向けられている
人格形成は家庭の影響が大きいことは事実だが、教室で発生する問題行動は、目的を持った教師に対するメッセージ
なぜ人は「救世主」になりたがるのか
一度アドラーの思想を聞くと、たとえ非科学的だと思っても捨てきることが出来ない、人生の劇薬と言える
「叱る」ことは尊敬を毀損し、「褒める」ことは共同体に競争を生み敵を作る。そしてこれらの賞罰は、精神的な自立を妨げる
教育の話をしているその実、子供を救いたかったからではなく、子供を救って優越感を感じたい。メサイアコンプレックス
教育とは「仕事」ではなく「交友」
重度の精神障害を負った少女のカウンセリング、8日間話しかけても反応がなかった。30日間話しかけてようやく理解できない言葉を発した。この時、友人であると感じた。理由なく殴られたときも友好的な目で見つめていた
仕事、交友、愛からなる人生のタスクから目を背けない
すべての喜びもまた、対人関係の喜びである
人生のタスクとは、ひとりの個人が社会で生きていくにあたって、直面せざるをえない課題
仕事、交友、愛といってもそれぞれの対人関係に注目する。仕事の関係、交友の関係、愛の関係
全ての悩みは対人関係から生まれる、しかし社会は人と人が構成する、即ち社会の誕生は苦悩の誕生とも言える
人はこの苦悩から逃れられない、なぜならば人間の喜びもまた、対人関係から生まれるからだ
共同体感覚は身に付けるのではなく、内在しているものを掘り起こす。これを交友のタスクで実践する最初の場所が、学校である
「信用」するか?「信頼」するか?
信用は条件付きで信じること、信頼は無条件で信じること。さらに言えば、他者信頼は「信じる自分を信じる」という自己信頼ありき
人生のタスク「仕事」「交友」「愛」は信頼の距離と深さの違いだが、仕事の関係とは「信用」の関係であり、交友の関係とは「信頼」の関係である。交友は何かによって強制されることがない
なぜ「仕事」が、人生のタスクになるのか
仕事は地球という厳しい自然環境で生き抜くための生産手段。そこで人間は分業という画期的な働き方を発明した。仕事のタスクは、他者との繋がりを前提とした分業のタスクなのだ
論理的なコモンセンスに一致する答えは、我々は働き、協力し、貢献すべきである
いかなる職業にも貴賤はない
運動競技のチームメイトは典型的な分業関係、個人的な好悪を超えて協力せざるを得ない。つまり友人としてではなく、機能として判断する
アダム・スミスは、分業の内面にあるのは人間の利己心としている。純粋な利己心の組み合わせが分業を成立させて、経済秩序を生む。結果的に利己が利他に繋がる
仕事で重要かそうでないかを作らない。職業に貴賤はなく、全ての仕事は共同体の誰かがやらねばならないこと
分業においては能力が重要視されるが、その後の人物評価は「この人と一緒に働きたいか」といった誠実さが問われる
正義に酔いしれると、自分以外の価値を認めることができず、果には正義の介入へ踏み出す
大切なのは「与えられたものをどう使うか」
その上で教育現場において、どのように交友の関係を築くべきか。尊敬からはじめよ
エーリッヒ・フロム「ありのままのその人を見ること」「その人がその人であることに価値を置くこと」この尊敬は、信用ではなく信頼である
どんな相手であっても、対人関係に踏み出す勇気を持って、尊敬を寄せて信じる
あなたに親友は何人いるか
普通の友人には話せないことも、親友には腹を割って話せる。友人に話せないのは、傷付くことを恐れているから
「素顔になれる」「たとえ一度や二度の不義理を働いても、それだけを理由に関係を絶とうとは思わない」
先に「信じる」こと
信頼とは相手の言う事すべてを無条件で鵜呑みにすることではない。たとえ嘘を語っていても、嘘をついてしまうその人ごと信じること
まずは自分から信じる。我々は自分のことを信じてくれる人しか信じない
人と人とは、永遠にわかり合えない
新約聖書のルカによる福音書「汝の隣人を、汝自らの如く愛せよ」
自己中心的な人は自分のことが好きだから見ているのではなく、ありのままの自分を受け入れるきとができず、絶え間なき不安に晒されているから、自分にしか関心が向かない
仕事で認められるとすれば機能であって自分自身ではない、優れた機能があれば代替されるのが市場原理であり競争原理
所属感を得るには他者に信頼を寄せて、交友の関係に踏み出すこと。仕事をするだけでは幸福にはなれない
人生は「なんでもない日々」が試練となる
アドラーがフロイトと袂を分かち、個人心理学と名付けたのは第一次世界大戦が勃発する前年の 1913 年だった。陸軍病院の精神神経科に出征した
フロイトはこの大戦を経て、「タナトス」「デストルドー」といった生命に対する破壊衝動の概念を提唱した
アドラーは非科学的だったのではなく、建設的だった。まだその理想は実現されていないが、歩み始めることはできる
与えよ、さらば与えられん
他者に無条件の信頼を寄せることは「与える」こと
愛は「落ちる」ものではない
血の通わない一般論で語られるのは、相手のことを神格化する崇高な愛、性的な欲動に駆られた動物としての愛、遺伝子を残さんとする生物学的な愛
こうした観念的な神の愛と本能的な動物の愛でなく、人間の愛とは何か。無意識に落ちる純粋かつ自然な愛ではない。愛は意志の力で築き上げるもの
「愛される技術」から「愛される技術」へ
衝動的な愛の存在。ショーウィンドウのカメラに一目惚れすると、欲望の嵐に誘われる。しかし一度手に入れると半年としないうちに飽きる。これは、カメラで撮影したかったのではなく、所有し征服したかった。本質的には物欲と同じ
結ばれるまでの物語ではなく、結ばれた後の関係に注目する
アドラーが一貫して説いたのは、他者から愛される技術ではなく、能動的な他者を愛する技術
愛とは「ふたりで成し遂げる課題」である
赤ん坊が立ち上がり歩けるようになるのは、ひとりで成し遂げる課題。対して仕事は仲間たちと成し遂げる課題。しかし、ふたりで成し遂げる課題については教育を受けていない
人生の主語を切り替えよ
ふたりで成し遂げるのは幸福。人間にとっての幸福は、貢献感である。誰かの役に立っているという主観的な感覚があれば、自らの価値を実感できる
分業の根底にあるのは「わたしの幸せ」、つまり利己心。これを突き詰めると誰かの幸せに繋がっていき、分業の関係が成り立つ。健全なギブアンドテイク
交友の関係を成立させるのは「あなたの幸せ」、担保や見返りを求めることなく無条件の信頼を寄せる、利他的な態度で成り立つ
これらによって、不可分なる「わたしたちの幸せ」を築き上げることが愛。わたしたちは、わたしやあなたより上位である
幸福なる生を手に入れるために、わたしという主語をわたしたちに変える
自立とは、「わたし」からの脱却である
愛は「わたし」からの解放である。生まれた当初は、周囲の誰しもがわたしを気にかけて、世界の中心に君臨している。己の弱さで大人を支配する
このような生き方を選ぶのは子供だけではなく、多くの大人が、自分の弱さや不幸、傷、不遇なる環境、そしてトラウマを武器にして他者をコントロールする
このように過剰な自己中心性から出発するが、世界と和解し自分の世界の一部であることを了解していく。つまり、最重要課題である教育の目的である自立は「自己中心性からの脱却」
愛によってわたしだった主語がわたしたちに変わり、自立を果たす。これが共同体感覚
その愛は「誰」に向けられているのか
生まれて間もない子供は親から無償の愛を注がれる、世界の中心と言えど、親に愛されて依存しなくては生きていけない。誰しもが、命に直結する生存戦略として、愛されるためのライフスタイルを選択する
子供の問題行動も、この愛されるためのライフスタイルから来ている。感情をコントロールできていないどころか、十分している。愛されるためのライフスタイルは、いかにすれば他者からの注目を集め、いかにすれば世界の中心に立てるかを模索する、どこまでも自己中心的なライフスタイル
自立とは経済上の問題でも就労上の問題でもなく、人生への態度やライフスタイルの問題。他者を愛することによって、自立し大人になる
どうすれば親の愛を奪えるのか
末っ子は他の家族と異なる道を歩む傾向にある、いつも他者と違っている必要がある
第一子は弟や妹の誕生で地位が転落せざるを得ない。過去の崇拝者となり、保守的で悲観的なライフスタイルを形成する
第二子は、常に自分の前を走るペースメーカーがいるので、兄や姉に追い付き追い越し、征服したいと目論む。故に革命を志向する
一人っ子はライバルがいないため、母親の愛を独占するために、父親をライバル視する。つまりマザーコンプレックスを発達させやすい。また弟や妹の誕生が地位を脅かす不安や、親の臆病さに影響される
承認欲求に搦め捕られて、他者から認められることを目的とした、他者の望むわたしの人生になってはならない
人は「愛すること」を恐れている
人は意識の上で愛されないことを恐れているが、無意識の上で愛することを恐れている
愛とは何の保証もなく行動し、こちらが愛せば相手も愛すだろうという希望に、自分を委ねること
愛に担保を求めるのは、傷つき惨めな思いをすることを確信しているから。これは典型的な劣等コンプレックスであり、自らの劣等感を課題を解決しない言い訳に使っている
愛されることを待っている限り、自己中心的
運命の人は、いない
尊敬と愛は強要し得ない
アドラー心理学においては、すべての候補者を排除するため、運命の人の存在を認めない。踏み出す勇気を持てない人は、運命の人の存在を肯定し、出会いがないと嘆く
愛とは「決断」である
結婚とは対象を選ぶことではない、自らの生き方を選ぶことである。誰かを愛するということは、激しい感情ではなく、決意であり決断であり、約束である
ライフスタイルを再選択せよ
他にもあるであろう選択の中で、結婚を決断したのは、幸せになれると信じたから。それは私の幸せを超えた、私達の幸せ
幸せになる勇気を持って、他者を愛することによってのみ自己中心性から解放され、自立を成し得、共同体感覚に辿り着く
シンプルであり続けること
一歩目はターニングポイント、そこから歩みを続けることの勇気が重要
新しい時代を作る友人たちへ
我々に与えられた時間が有限である以上、すべての対人関係は別れを前提に成り立つ。だから、すべての出逢いと対人関係において、最良の別れに向けた不断の努力を傾ける