嫌われる勇気
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アドラー心理学は、堅苦しい学問ではなく人間理解の心理または到達点。それが人々の共通感覚となった瞬間に学問ではなくなっていく
なぜ「人は変われる」のか
過去の原因から紐解く、つまり結果は原因に規定されるとすると「決定論」に導かれる、今の目的を考える。不安だから外に出られないのではなく、外に出たくないから不安という感情を作りだす
原因論に留まっている限り、前進できない
トラウマは、存在しない
経験によるショック、いわゆるトラウマというものは存在せず、自分の経験によって決定されるのではなく、経験に与える意味によって自らを決定する。経験をどう意味づけするかは自分次第である
人は皆、何かしらの目的に沿って生きている
人は怒りを捏造する
喫茶店でスタッフに珈琲を溢された刹那に、怒ってしまった
怒りとは出し入れ可能な道具であり、人は手段として感情を捏造する
過去に支配されない生き方
客観的な事実をどう感じるかは、どう解釈するかという主観に依存する。原因論に拘ると過去が全てを決定し、それに縛られ続ける
ソクラテスとアドラー
変わることの一歩は知ること、そして他者から与えられるのではなく、自ら答えを導き出す
ソクラテスも哲学の自著を残すことなく、弟子のプラトンが完成させた
あなたは「このまま」でいいのか
幸せになりたいという意思は、今は幸せではないことの意思そのもの。つまり変わりたいと思っている
重要なのは何が与えられているのかではなく、与えられたものをどう使うかである
あなたの不幸は、あなた自身が「選んだ」もの
ソクラテスのパラドックス「誰一人として悪を欲する人はいない」。行為としての悪はたくさんあれど、いかなる行為も「何かのため」に行われる
ギリシア語の agathon には善悪を除く「ためになる」という意味がある。悪 kakon は「ためにならない」
ためにならないことを欲する人は存在しない、よって不幸な人は「不幸であることが善である」と判断している
人は常に「変わらない」という決心をしている
アドラー心理学において、性格や気質をライフスタイルと表現する。その人が世界や自分をどう見るか、どう意味づけるかを集約させた概念
その世界観は、無意識的に備わるのではなく、自ら選んだもの。人種や国籍、文化や家庭環境などを経て10 歳前後で選ぶとされている
ライフスタイルは先天的に与えられたものではなく、自分で選んだものであれば、再び自分で選び直すことも可能。変われないとすれば、自ら「変わらない」という決心をしている
今の自分が便利で自由であり、変わった時にどうなるかを恐れているから変われない。つまり「幸せになるために変わる勇気」がない
あなたの人生は「いま、ここ」で決まる
「もしも何々だったら」は、変われない自分の言い訳。可能性の中に生きているうちは、変われない
あなたを変える必要はなくライフスタイルを変える、自責であるという過去の断罪ではなく、今後の人生を生きるかについてなんの影響もない、ということをアドラー心理学は説いている
プラトンの対話篇
なぜ自分のことが嫌いなのか
自分のことを好きになりたい前提があるが、現に好きになれていない。何の目的があって嫌っているのか?
短所に目がいくのは、「好きにならないでおこう」と決心しているから。今の自分を受け入れて、前に踏み出す勇気を持つことは、アドラー心理学における「勇気づけ」
他者から嫌われ、対人関係の中で傷つくことを過剰に恐れているから。これが目的化している。それが「ためになること」
悩みを消し去るには、宇宙のなかにただひとりで生きるしかない
すべての悩みは「対人関係の悩み」である
ひとりだから孤独を感じるのではなく、取り巻く共同体があり、そこから疎外されていると実感するから。孤独を感じるにも、他者を必要とする
個人で完結する内面の悩みは存在しない
劣等感は、主観的な思い込み
他者の活躍を見た時に妬みや焦燥感が出てくる劣等感は、自分の価値判断
例えば、身長が平均より低いというのは劣等性ではなく、その身長に自分がどういう意味付けを施し、価値を与えるか。劣等感は「客観的な事実」ではなく「主観的な解釈」
価値は社会的な文脈の上で成立している。ダイヤモンド、1ドル貨幣、それぞれの価値は共通感覚であっても客観としての価値ではない
言い訳としての劣等コンプレックス
社会的に成功して、対人関係において卑屈になる必要がない人でも劣等感を持つ。劣等感自体は悪いものではない。人は誰しも、無力な状態から脱したい普遍的な欲求を持つ、これを「優越性の追求」とする
劣等感と劣等コンプレックス。コンプレックスとは、複雑に絡み合った倒錯的な心理状態。劣等感は、行動のバネにもなる感情だが、劣等コンプレックスとは、自らの劣等感をある種の言い訳に使いはじめた状態
「見かけの因果律」本来は何の因果関係もないところに、あたかも重要な因果関係があるかのように説明し納得してしまう
自慢する人は、劣等感を感じている
劣等コンプレックスを表明する人は、「A だから B できない」だけでなく「A さえなければ、私は有能であり価値がある」と暗示している
欠如した部分を埋める努力ができる人は良いが、その勇気がない人は劣等コンプレックスに踏み込む。さらに、あたかも自分が優れているかのように振る舞ってしまう偽りの優越感に浸る、優越コンプレックスに発展してしまう
権威と自分を紐付けて、自らを大きく見せようとする傾向にある。そうなると結局他者の価値観に生きて、他人の人生を生きることになる
あるいは自分の手柄を自慢する人、それは劣等感を感じているからに過ぎない。劣等コンプレックスと優越コンプレックスは地続き
自慢の例として、劣等感を先鋭化し特異な優越感に至るパターンもある。不幸を特別化し、人の心配や不安を煽ることで縛り、人の上に立とうとする
不幸を必要とし続けてしまう
人生は他者との競争ではない
「優越性の追求」は他者の上に立つための意思ではなく、自らの足を一歩前にだすためのもの。健全な劣等感とは、他者ではなく「理想の自分」との比較から生まれる
人それぞれに違いはあるが、それは善悪や優劣ではない。その「差」を他者との前後を比較するのではなく、自分が前に進むことに価値がある
「お前の顔を気にしているのはお前だけ」
「すべての悩みは対人関係の悩みである」ことから劣等感の話に繋がったが、これも競争の話に繋がる。競争は勝者と敗者を作り、それによって劣等感が生まれて、他者を「敵」だと捉えてしまう
競争に生きる限り、他者を信じることができず、安寧は訪れない。他者の幸福を「自分の負け」と捉えていると祝福できない
権力争いから復讐へ
社会や政治に対する怒りは論理に基づく公でありは、私憤と異なる。公憤は継続する、自らの利害を超えたもの。私憤は突発的で、他者を屈服させるためのもの
面罵の目的は権力争い、勝つことで自らの力を証明したい。感情的な争いは時に人格攻撃にまで及び、敗北した人は復讐を画策し報復しようとする
親から虐げられた子供が非行に走るのは、フロイト的な原因論では因果律で解釈されるが、アドラー的な目的論では、心配させるという「親への復讐」の目的を見逃さない
非を認めることは「負け」じゃない
「我慢する」という発想は権力争いに囚われている。怒りのコントロールも「我慢する」にあたる。そもそも、怒りという道具に頼る必要がない
対人関係の中で、自分の正しさを確信した瞬間に、既に権力争いに足を踏み入れている。この時点で「主張の正しさ」から「対人関係のあり方」に移っている。自分が正しいと信じれば、自分で完結する。他者に合意を求めた瞬間に屈服を求めてしまう
「誤りを認めること」「謝罪の言葉を述べること」「権力争いから降りること」は、いずれも「負け」ではない。優越性の追求は他者との競争で行うものではない
直面する「人生のタスク」をどう乗り越えるか
他者を敵だと見なし、仲間だと思えないのは、「人生のタスク」から逃げているから。仕事のタスク、交友のタスク、愛のタスク
アドラー心理学において行動面と心理面のあり方が示されている。行動面は「自立すること」「社会と調和して暮らせること」、心理面は「私には能力がある」「人々は私の仲間である」
個人が社会的な存在として生きていこうとするとき、直面せざるを得ない対人関係が、人生のタスク
仕事のタスクは、目標を共にしている対人関係なので協力しやすい。これに躓いたのが、ニートや引きこもり
赤い糸と頑強な鎖
交友のタスクは仕事のような強制力がないため、踏み出すのも深めるのが難しい
アドラー心理学は他者を変えるための心理学ではなく、自分が変わるための心理学
愛のタスクは、恋愛関係と親子関係の段階に分かれる。束縛してはいけない、相手が幸せであれば素直に祝福する
人は「この人と一緒にいると、とても自由に振る舞える」と思えた時に、愛を実感できる。束縛とは不信感に基づくものであり、自然な状態であることを否定する
「人生の嘘」から目を逸らすな
許しがたい欠点がある A さんを嫌っているのは、対人関係を避けるという目的を達成するために、欠点を見つけている
人間とは極めて身勝手な生き物であり、相手は何も変わっていなくても、自分の目的が変わると嫌うこともできる。世界はいつでも危険になりうるし、あらゆる他者を敵だと見做すこともできる
そうした口実を設けて人生のタスクを回避しようとする事態を「人生の嘘」と呼ぶ。勇気を持って向き合うことができるかどうか
所有の心理学から使用の心理学へ
勇気を持つために自由について論じる
承認欲求を否定する
ドストエフスキーの小説に「貨幣とは鋳造された自由である」との一節がある。貨幣で買える自由も存在するが全てではない、やはり対人関係の自由は得られない
他者との関係に生きる社会的な個人である、例えば友人関係は選べるが、親と切り離すことは自律するまで難しい
親の意向に沿った進学先を選ぶことによる安堵は承認欲求
「あの人」の期待を満たすために生きてはいけない
そもそもなぜ他者から褒められたいのか?承認欲求によって、自分の価値を実感できる、劣等感を払拭できる?
承認欲求の危うさは賞罰教育の影響にある、「褒める人がいなければ、適切に行動しない」「罰する人がいなければ、不適切な行動をとる」
そもそも他者の期待を満たすために生きているのではない、他者の承認を求めることは他人の人生を生きること
「課題の分離」とは何か
「勉強する」という課題があったときに、「これは誰の課題なのか」からはじめる。子どもの勉強するという課題に、親が踏み込んではいけない。他者の課題に踏み込まない
親の「あなたのためを思って」は、世間体や見栄、あるいは支配欲を満たすための目的である。だから子どもは反発する。「その選択によってもたらされる結末を最終的に引き受けるのは誰か」
他者の課題を切り捨てよ
引きこもりの状態から脱するのもあくまで自分、周囲がやるべきことは、素直に相談してもらえるように信頼関係を築くこと
子供であっても独立した個人、互いが互いの期待を満たすために生きているのではない
信じることも課題の分離、介入しないことが重要。最後まで信じることが愛すること
対人関係の悩みを一気に解消する方法
親が就職先といった自身の選択に意向を示そうが、それは親の課題であって自分とは関係ない。自分がやるべきことは「自分の信じる最善の道を選ぶこと」、その選択について他者がどのような評価を下すのかは、他者の課題であって自分ではどうにもできない
横暴な上司がいて何も評価されない時に、その人のことを気にする必要はない、やるべき仕事をやる。そのせいで仕事ができないというのは「人生の嘘」であり、うまくいかない仕事の口実として、嫌な上司の存在を持ち出している「原因論」
他者の課題には介入せず、自分の課題には誰一人として介入させない
「ゴルディオスの結び目」を断て
課題の分離は他者との間に境界線を引くことになる?マケドニアの国王アレクサンドロスは、戦車を紐で結びつけて「これをほどいたものがアジアの王になる」と言った。誰も解けなかったが、結び目が硬いと見るや探検で断ち切った。しがらみは新しい方法で断ち切る必要がある。境界線を気にするのは、見返りに縛られている
課題の分離は対人関係の最終目標ではない
アドラー心理学は常識へのアンチテーゼ。原因論の否定と目的論の採用・トラウマの否定や悩みはすべて対人関係の悩み、承認を求めず課題を分離する
承認欲求は不自由を強いる
世間が言う「自分の好きなことをやれ」と親の「あの学校に入りなさい・この職業につきなさい」は矛盾している。他者の期待に応えることは道を示されているので迷わずに済むが、「いかに生きるべきか」自分で選ぶのは悩ましい
誰にも嫌われないためには、全員の期待に応えることになり、矛盾が生じる。自分に嘘を付くことにもつながっていく
ほんとうの自由とはなにか
イマヌエル・カントは「他者から嫌われたくないという、極めて自然な欲望」を傾向性と言った。石のように坂道を転がり丸くなっていく傾向性に、人類は抗うことができる。停止させ登っていくこともできる 自由とは他者から嫌われることである。他者の評価を気にかけず、他者に嫌われることを恐れず、承認されないかもしれないというコストを支払わないかぎり、自分の生き方を貫くことはできない
対人関係のカードは、「わたし」が握っている
親に殴られた過去があり関係が良くなかったが、これは「殴られたから関係が悪かった」のではなく「関係を修復しないために殴られた記憶を持ち出した」
他者を変えることはできないので、変わるのは自分だけという前提がある、対人関係の話は常に自分についてであり、対人関係のカードは自分が持っている。承認されることを求めると、対人関係のカードは常に他者である
個人心理学と全体論
アドラー心理学の正式名称である個人心理学はミスリーディングな部分があるが、人々を個人主義に導き孤立させるわけではない。individual の語源は「分割できない」である
人間をこれ以上分割できない存在だととらえ、「全体としてのわたし」を考えることを「全体論」という
対人関係のゴールは「共同体感覚」
課題の分離は対人関係の出発点、対人関係のゴールは共同体感覚。周囲の人を仲間とみなし居場所を見出す、その共同体に貢献しようとする
この共同体は、家庭や学校・地域社会だけではなく、アドラーは国家や人類だけでなく過去や未来、動植物や無生物を含む概念としている
不幸の源泉が対人関係であると同時に、幸福の源泉も対人関係である
共同体感覚 social interest、つまり社会への関心。社会の最小単位はわたしとあなたであり、self interest を social interest に切り替えていく
なぜ「わたし」にしか関心がないのか
自己への執着を、自己中心的と言い換える。他人の迷惑を顧みない自己都合な人、単独行動を好み集団の和を乱す人、だけでなく「課題の分離」ができておらず承認欲求にとらわれている人も自己中心的
他者からの評価を気にかけていると思いきや、それはわたしにしか関心がない自己中心的なライフスタイルである
あなたは世界の中心ではない
共同体に属し、居場所を感じる所属感は普遍的に存在する。学業も仕事も友達も恋愛も同様である。その共同体において、自分はイチ構成員であって、中心に君臨しているわけではない
そして所属感は共同体にコミットすることによって得られる、つまり人生のタスクに立ち向かう。自分は世界の中心ではないので、自分が何を提供できるかを考えていく
より大きな共同体の声を聴け
共同体の範囲を宇宙や無生物と捉えると難解なので、無限大と捉える。我々は複数の共同体に属している
職もない、恋愛も人付き合いもしない人は、あらゆるタスクを避けているように見えるが、その実はパンを購入するときにパン職人だけでなく流通に関わった人、それを支えるガソリンなど、様々な場所に還元している
小さい範囲の共同体で困難に直面しても、より大きな共同体の共通感覚に従う
叱ってはいけない、褒めてもいけない
褒めるという行為には、能力の高い人が、能力の低い人を評価するニュアンスを含む。能力の劣る相手を操作することに、感謝や尊敬は存在しない
アドラー心理学では、あらゆる縦の関係を否定し、横の関係とする。劣等感は縦の関係から生じる
「勇気づけ」というアプローチ
課題の分離において、対人関係を縦で捉えて、相手を自分より低く見るからこそ介入する
介入ではなく援助する。課題を分離したまま、自力で解決できるように働きかけることが重要であり、横の関係に基づく援助を「勇気づけ」と呼ぶ
人は褒められることで「自分には能力がない」という信念を形成していく
自分には価値があると思えるために
ありがとうという感謝、嬉しいという喜び、助かったというお礼を伝える。縦の物差しを含む評価を行わない
自分が共同体にとって有益であると思えたとき、自分の主観によって他者に貢献できていると思えたときにだけ、人は勇気を持てる
ここに存在しているだけで価値がある
価値を行為というレベルで捉えると、感謝を伝える機会がない人は価値がないとなるが、評価は引き算ではなく足し算
人は「わたし」を使い分けられない
自らの価値を実感するためには、まず他者と横の関係を築く。誰か一人でも縦の関係を築いていると、あらゆる対人関係を縦で捉えている
過剰な自意識が、自分にブレーキをかける
自分が気になるのは、自分を愛するナルシストであるだけでなく、自分を忌み嫌うリアリストだからかもしれない
自己肯定ではなく、自己受容
自意識がブレーキをかけ、無邪気に振る舞えないのは、嘲笑されたくない。つまり、ありのままの自分による対人関係を避けている
自己への執着 self interest を他者への感心 social interest に切り替えて共同体感覚を持つ。自己受容、他者信頼、他者貢献
自己肯定は「できないけど、できると自己暗示をかけること」であり、優越コンプレックスにも繋がる。自己受容は、できない自分をありのままに受け入れる
信用と信頼はなにが違うのか
肯定的な諦めは悲しい響きかもしれないが、「あきらめ」の語源は「明らかに見る」で、物事の真理をしっかり見定める意味がある
「自己への執着」を「他者への関心」に切り替えるために欠かせないのが「他者信頼」。信じるには信用と信頼があり、信用はクレジットのように、条件付きの話。アドラー心理学において、対人関係の基礎は信頼によって成立している。他者を信じることに条件をつけない
信頼ではなく懐疑を前提としてしまえば前向きな関係は築けない。裏切られる不安に駆られる。しかしそれは自分ではなく、他者の課題。課題を分離し、自分がどうするかだけを考える。裏切られる恐怖は、自己受容で乗り越える
仕事の本質は、他者への貢献
自己受容し、他者に無条件の信頼を寄せれば、仲間になっていく。共同体に居場所を見出す
そのために他者貢献をしていく。それは自分を棄てて誰かに尽くすといった自己犠牲ではなく、自分の価値を実感するためのもの
仕事はその1つである。共同体にコミットすることで、自分の存在価値を実感する
若者は大人よりも前を向いている
他者が自分に何をしてくれるかではなく、自分が他者に何を出来るかを考え、実践したい(見返りを求めない)
貢献実感を持てるのは、仲間だから。他者を敵だと見なしたまま貢献することは、偽善に繋がる
ワーカホリックは人生の嘘
善人ばかりではないので、対人関係のなかで不愉快になることもある。攻撃する人に問題があるのであって、決して皆が悪い訳では無い。話を安易に一般化させない
「10人いたら、1人は何があってもあなたを批判する。2人は互いにすべてを受け入れる親友になれる。残りの7人はどちらでもない」というユダヤ教の教え
どうでもいいはずのごく一部に焦点を当てて、そこから世界全体を評価しようとしている
ワーカホリックの人は、仕事を口実に他の責任を開始している
人はいま、この瞬間から幸せになることができる
人間とって最大の不幸は自分を好きになれないこと。「共同体にとって有益である」「誰かの役に立っている」という想いが、自らに価値があることを実感させてくれる。この他者貢献を、例え目に見えない形でも、主観的な感覚として持てれば良い。幸福とは貢献感である
承認欲求を求めるのは、この貢献感を得たいから。しかし、他者からの承認は自由がない。自己を受容し、他者を信頼して仲間を作り、他者に貢献して共同体感覚を持てれば、他者からの承認は要らない
「特別な存在」でありたい人が進む、ふたつの道
自己実現を通じて真の幸福を得たいという欲求は、優越性の追求で説明できる
勉強やスポーツに精を出し、親から認めてもらいたい「特別に良くあろう」とする子。あるいは「特別に悪くあろう」とする子。他者の注目を集め、普通の状態を脱し、特別な存在になろうとするのは安直な優越性の追求
普通であることの勇気
「誰一人として悪を欲する人はいない」ソクラテスのパラドックス。暴行や窃盗も、彼らにとっては「善」の遂行
普通であることの勇気。普通であることと、無能であることは異なる。わざわざ自らの優越性を誇示する必要はない
人生とは連続する刹那である
大きな目標を掲げる登山のような人生は、線で捉えている。アドラー心理学では、人生は点の連続であり、連続する刹那
ダンスするように生きる
「いま、ここ」に生きる。それを充実させる
目的に到達せんとする人生はキーネーシス(動)的な人生。始点と終点がある一般的な運動をキーネーシス
ダンスを踊るような人生はエネルゲイア(現実活動態)的な人生。過程そのものを結果と見做す
「いま、ここ」に強烈なスポットライトを当てよ
いまできること一つ一つを、真剣かつ丁寧にやっていく。過去は変えれないし、未来は見えないのだから
人生最大の嘘
遠い将来に目標を設定して今を準備期間とするのは、人生の先延ばしであり、味気ないモノクロームのようなもの
「いま、ここ」を真剣に生きること、それ自体がダンス。エネルゲイア的な視点では、人生は常に完結している。人生における最大の嘘は、「いま、ここ」を生きないこと
無意味な人生に「意味」を与えよ
一般的な人生の意味はない。世の中には不条理な悲劇が繰り返される、そこに対して行動しないことは悲劇の肯定。カントのいう傾向性に立ち向かう必要がある
人生の意味は、自分が自分自身に与えるもの
目指すべき「導きの星」は、他者貢献