Mar 30, 2025: カメラの脱構築とSigma BF
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Sigma BFが発表された頃書いていた文章。けどあまりに勢いに任せすぎていたから、5ヶ月くらい寝かせていた。だいぶ論理的な繋がりが雑だなぁ。
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ここ数年、ぼくは映像制作に Sigma fp を愛用している。角ばっていて、ネジ穴が三方に切ってあるから、リグが組みやすいのが好きだ。
fpシリーズは、その思想が継続的に進化していくものだと勝手に思っていた。だからこそ、BFの方向転換にはまだ面食らっている。けど、よくよく考えてみると、Sigma のカメラは dp 時代から「一代限りの思想」に基づいていたとも言える。
不思議なことに、ぼくの周囲の fp ユーザーはWebデザイナー、とりわけUI/UXに一家言ある方がとても多い。市場としても、どうやらその層がメインユーザーのらしい(要出典)。ただ、あくまで私見なのだけど、彼ら/彼女らが良しとする「デザイン」は、ある種のパターナリズムとモダニズムに裏打ちされている印象がある。つまり、ヘンリー・フォード的な意味での「人々は自分が何を欲しいかを知らない」、そしてジャムの法則に代表される「ユーザーを混乱させないことが最優先」といった前提が暗黙の了解としてあるようなのだ。 そして今回発表されたSigma BFは、そうした世界観にそれなりに振り切った設計になっているように思う。Sigma にとって、「f(フォルティッシモ)」と「p(ピアニッシモ)」の両立は難しかったのかもしれない。
https://www.youtube.com/watch?v=s5e580-K2z8
少し話しはずれるけれど、ミスミのアルミフレームで什器を組むとき、最近は全ての面に T 溝があるタイプを選ぶようになった。溝が見えると見た目は多少ごちゃごちゃするけれど、あらゆる面に後から何かを取り付けられる柔軟性がある。逆に溝を隠そうとすれば、さほど強度に寄与しない「すっきりさせるためのアルミ」が必要になる。つまり、見た目に余計なものを減らそうとすると、その傍ら構造として余計なものが付加されるという構図だ。
“Less is more” とはいうが、製品のどの側面に注目して、less だの more だの言うかっていうのは、思った以上に恣意的なものなのかもしれない。例えば、BFにおいて、fp の左右にあった 1/4 ネジをなくす判断は、見た目としては less なのだが、ついでに拡張性の観点においても less になってしまう。そのくせ素材量的には more になる。
BFの製品発表では、新しいカラーモード「リッチ」や「カーム」が搭載されたことが大きくアピールされていた。でも普通に考えて、その都度ファームウェアにカラーモードをビルトインさせるよりも、ユーザーが任意の LUT を適用できるようにした方が嬉しくない?ってぼくは思う。新機能として打ち出せるものが目減りするというマーケティング的な都合はさておき。実際、 LUMIXはユーザーLUTをサポートしているし、実装面でもそう難しくはないはずだ。そうした抽象的な仕組みのなかで、削除可能なベンダープリセットとしてカラーモードを配布しておけば、ユーザーは本当に必要なものだけを取捨選択できる。切り替え操作の手間も減り、UI もシンプルになる。less にも more にもなり得る、選択の自由がそこにある。
デザイナーもユーザーも、多くの人がミニマリズムとモジュラリティをごっちゃにしていると思う。
モジュラリティは、単体で見れば less な部品を、組み合わせることで掛け算的に使い方を広げていく思想だ。反対にミニマリズムは、そもそも出来ること自体をミニマルにする。そこには工業的合理性や、過剰な装飾へのカウンターとしての美学もあったのだろうけど、「単にできることが少ない」という構造的制約と背中合わせだ。
よく、しのびよる多機能主義を皮肉る文脈で100徳スイスアーミーナイフのジョーク画像が使われたりするけれど、あれの問題は、多機能そのものではなく、すべてのツールが「収納性」というたったひとつの要件のために、見えないネジで一括りに固定されてしまっていることだ。仮にツール同士をバラバラにできて、使わないものを取り外せたり、必要なものだけモジュラー組み合わせられたら、コンパクトさと機能性は矛盾せずに共存できたはずだ。つまり、「ごちゃつき」っていうのは多機能であることに無条件についてまわるものじゃなくて、機能の見せ方、構造の設計の問題なんだ。 https://baku89.com/wp-content/uploads/2020/03/71FHJU17djL._AC_SL1204_.jpg
さらに家電の話に少し寄り道してみる。最近は、洗濯機や加湿器でも「スマート家電」を名乗るものが増えてきた。Wi-Fiでクラウドに接続し、自社サービスのアカウントと紐付けて、専用アプリから遠隔操作できるような仕組みだ。実際、うちの洗濯機もそういうやつなんだけど、初期設定したきり一度も使っていない。洗濯を少し便利にしたいがために、わざわざアカウントを作ったりアプリを開いたりするのは、結局おっくうだった。 むしろ今、スマートホームに最もシームレスに取り込まれているのは、もっと昔ながらの赤外線リモコン付きのエアコンだったりする。IoTなんて言葉がなかった時代に取りつけられた赤外線レシーバーが、スマートリモコンのハブと連携することで、中途半端なメーカー製プラットフォームにロックインされたスマート家電以上に、スマートな振る舞いを可能にしている。これは少し皮肉な話だけど、同時に、柔軟で現実的な “つなぎしろ” とは何かを示してもいる。スマートホームにおける赤外線は、ちょうどプロセス間通信におけるプレーンテキストみたいなものだ。Wi-FiやProtocol Buffersのようにモダンでも効率的でもないけれど、シンプルで壊れにくく、他とつながる余地がある。 Unix哲学(UNIX Philosophy)も、ぼくはそういうことだと思ってる。Unixは、使い手の知性を信頼している。そして同時に、開発者やデザイナーの万能性を信頼していない。ユーザーは、自分が何をしたいかを理解していて、そのためにとりとめのない自由と向き合う責任を引き受けてくれる存在だと、Unixは仮定している。この哲学は、「あらゆるニーズを想定しつくして、すべての人に便利なエコシステムを提供する」みたいな世界観とは対極にある。代わりに、自分自身を「より大きなワークフローの一部」として位置づける、ある種の不可知論的なスタンスがそこにはある。それは、すべてを最初から規定しようとしない、開かれた態度だ。 もちろん、すべての道具がUnix的になるべきだとは思っていない。けど、洗濯や加湿に比べれば、「写真を撮る」という行為には圧倒的に趣味性や個人性が強く、使い方の自由度が求められるものだと思う。そして、たとえその自由さが一時的にユーザーを迷わせるとしても、その選択権をユーザーに明け渡すことこそが、本当の意味でのユーザー体験なんじゃないか。「わかりやすさ」や「見た目のスッキリさ」を優先するあまり、道具の可鍛性(malleability)や深みを削いでしまうのではなく、混乱を一つのフェーズとして認める設計こそが、製品の誠実さにつながると思う。
でも、表層的なミニマリズムやユーザーフレンドリー性に基づいた設計は、見た目をスッキリさせるために、あるいはユーザーを惑わせないために、そういった機能を組み合わせるための “つなぎしろ” まで削ぎ落としてしまうことがある。それはUnixで言うところのパイプであり、アルミフレームにおけるT溝、そして今回のBFのようなカメラでいえば、1/4ネジやコールドシューに相当する部分だ。 fpコミュニティのなかでも著名なフォトグラファーで、ぼくにとって数少ない研究者の友人のTakumaさんが、要望として「AirDropでの転送機能」を挙げていた。これも、ある意味ソフトウェア上の1/4インチネジと言えるかもしれない。現実的には、カメラをUSB接続したときにテザー撮影や写真転送をするのに使われるPTP(Picture Transfer Protocol)をイーサネット向けにしたPTP/IPあたりを使うとか? そういえばBFにWi-Fiモジュールってついてたっけ……。 ぼくが何度か Sigma に問い合わせていた、テザー撮影用SDKのバグ修正も、つまりはそういうことだ。テザー撮影やコマ撮りのような、いわばソフトウェアでリグを組むには、APIという“つなぎしろ”が必要だ。そして物理的なコネクタと違って、APIはいくら充実したところで、見た目はごちゃつかない。
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最近ぼくが考えているのは、道具のデザインには、少なくとももうひとつ別の軸があってもいいんじゃないか、ということだ。HCIの文脈では、初心者(novice)と熟練者(expert)という二項対立がよく使われる。でも、ぼくはそこに目的志向(goal-oriented)と探索志向(exploratory)という軸を加えて考えてみたい。 目的志向の道具では、ユーザーが達成したいゴールがはっきりしていて、そのための手順に余計な判断を挟ませないことが重視される。だから道具は“透明”であることが求められる。けど、道具が透明になるためには、ユーザーが「自分は何をしたいのか」を最初に明示しなければならない。それ自体がユーザーにとってはひとつの負荷になることもある。そうなると、ベンダーとしちゃ、ユーザーにとってのゴールを代わりに考えてあげて、それに沿った操作フローや構造を設計したくなる。これは一見親切だけど、裏を返せばユーザーを「ひとつの想定されたペルソナ」に押し込める設計でもある。異なる動機や文脈を持ったユーザーの多様性を、ある種切り捨てる構造になってしまう。
一方で、探索志向の道具では、ユーザーに、何をしたいのか決めさせることをしない。むしろ、いじりながら考えていく余地を残す。そういうときに必要なのは、ゴールを最短距離で目指す道具ではなく、手元で試行錯誤できる“つなぎしろ”であり、分化の余地だ。
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ぼくがfpを最初に買ったのは、DNG連番が撮れる廉価なシネマカメラとしてだった。けど使い込むうちに、思った以上に街撮りに便利で、かつUSB接続時のライブビュー解像度も高めだから、コマ撮りに向いているのも後々わかってきた。今ではSDKをリバースエンジニアリングして、Dragonframeや自作のコマ撮りアプリ(Koma)とのインテグレーションを書いたりしている。ぼくにとってのfpの魅力は、まさにそうした探索性に開かれていたことだった。 けど、今回のBFはそれを「ある程度」捨てて、より明確なゴールと明快なUIに収束させにきた。そこには判断としての正しさも一貫した美学もあると思う。けど、そのぶん、fpがぼくらに提供していた「自分なりの使い方を発明できる自由」からは、ちょっとだけ遠ざかってしまったように感じる。
そういえば、BFは “Beautiful Foolishness”の略らしい。威勢のいいスローガンではあるけれど、fpが謳っていた「カメラの脱構築」が本来のポストモダン的な意味ではなく、単に「カメラ業界における製品カテゴリーやヒエラルキーという構造から一度脱してみる」くらいのニュアンスで使われていたことを思い出すと、今回もあまり言葉そのものに深い意味を求めすぎるのは違う気がする。とはいえ、今回のBFのユニボディの製造のために高価な5軸フライス機を導入して、1台あたり7時間かけて切削しているという話にはCNC愛好家としてちょっと心が動いた。それはたしかに「美しい愚かさ」と呼ぶにふさわしいものかもしれない……。
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ぼくは、そういう自由のことをずっと考えてる。道具とどう付き合いたいか、その関係性自体を設計できるようなデザイン。そんな余白が、BFにもう少しだけ残っていてもよかったんじゃないかと思っている。