3.2 フィクションの側面
前提:フィクション/ルールの区別
『ハーフリアル』や『ビデオゲームの美学』の基本的な前提になっている区別。
以下の説明は不正確だが、直感的にわかりやすく言えば:
ルール:
ゲームの挑戦的な構造を作り出す抽象的・形式的なシステム。
「ルール」はユールの用語、『ビデオゲームの美学』では「ゲームメカニクス」。
フィクション:
ルールの「ガワ」、つまり具体的な意味づけとして機能する側面。
主にグラフィックとそれによるプレイヤーの想像を通じて、ルールに具体性のある意味合いを肉付けする。
ボードゲームでは「フレーバー」と言われることもある。
スポーツや伝統的なボードゲーム/カードゲームは、フィクションの側面が希薄か、あってもほとんどおまけであることが多いとされる(近年のボードゲームは、むしろフィクションがリッチになりつつあるが)。
逆にビデオゲームは、ある種のパズルゲームやリズムゲームなどを除けば、一般にフィクションの側面がかなり重要であるとされる。
アドベンチャーゲームやノベルゲームは、むしろフィクションがメインになっているジャンルである。
ビデオゲーム競技におけるフィクションの側面
ビデオゲームのこの特徴は、ビデオゲーム競技にもある程度継承されていると思われる。
例:「背水の逆転劇」と呼ばれる梅原大吾の有名な試合
本来、この試合におけるウメハラのすごさを理解するには『ストリートファイターIII』のルール(ゲームメカニクス)を十分に知っている必要がある(具体的には、このケースでは「ブロッキング」のメカニクスとその難易度などを十分に理解している必要がある)。 しかし、ルールを十分に知らなくともフィクションとしての映像(ケンと春麗の戦い)を見るだけで「すごい」という感想にはなるだろうし、実際はメカニクスを十分に知っている人でもフィクション込みでドラマを見いだしている面があるだろう。
『LoL』などのようにキャラクターや舞台の設定が明確にあるタイトルの試合では、これに似た現象はしばしばあると思われる。逆に「ぷよぷよ」シリーズなどのほぼアブストラクトなゲームの試合では、フィクションの面だけですごさを感じることはなさそう。
伝統的なゲームにおけるフィクションの側面?
スポーツにしろマインドスポーツにしろ、伝統的なゲームでは、こういう意味でのフィクションの側面はほとんどないと思われる(プロレスにおけるキャラクター設定には多少そういう面があるかもしれないが)。
もちろん、伝統的なゲームでも、チームやプレイヤーの背景情報を語ることで、試合に物語的な意味づけを与えることはよくある。
e.g. 甲子園のチーム紹介、各種の「伝統の一戦」、etc.
しかし、それはたとえばウメハラの経歴を語るのと同じようなことであって、フィクションによるプレイの意味づけとはメカニズムが違うだろう。
フィクションによる意味づけとは、たとえば将棋の駒や戦形をひとりのフィクショナルなキャラクターとして描く、みたいなことである。