2.1 対人・技・営み
「競技」の定義(再掲)
他の人(々)と技を競う営み。
定義項のそれぞれをもう少し深掘りしたい。
「他の人」について
定義項に「他の人(々)と」を入れているのは、対人であることが競技にとって重要に思われるから。
なぜ相手が人間であることが重要なのか(対自然や対機械だとなぜだめなのか)。ひとまず考えられる理由の候補:
① 競い合うためには、能力的な条件が同じである必要があるから。
これはある種の理念であって、実際には同じではない。この理念の背後には「人間一般としての基本能力は共通」みたいな近代的な発想があると思われるが、個々人は当然ながらベースとなる能力が異なる。
多くの制度化されたスポーツにおける性別や体重別や障害の程度による種目のクラス分けの存在は、この理念(とその問題点)をよく示している。
② 相手が人間であることによって読み合い・駆け引きが可能になるから。
対人であることで、〈相手を出し抜こうというこちらの意図を相手がつねに察しうるという前提のもとで、相手を出し抜く〉という独特の課題と工夫が生まれる余地をもたらす。
これは(敵意ある)コミュニケーションの可能性と言ってもいいかもしれない。
個人的な直観としては、競技の価値のひとつはこの種の特殊なコミュニケーションが生じる点にあると言いたい。
ただし、これは純粋な記録競技には言えなさそう。
「技」について
「競技」における「技」は明らかに能力(できること)の一種だが、それがどんな能力なのかを特徴づけるのは難しい。
ひとまず、以下のことは言えそう:
身体的な能力だけでなく、知的な能力も含む(なので、「競技」はいわゆるマインドスポーツを排除しない)。
ある程度は修練によって向上させられるタイプの能力である。
哲学者としてもう少し概念的に明確化すべきように思うが、かなり大変そうなのでスキップしたい。
「営み」について
「営み」は「実践(practice)」と言い換えてもいい。
これを定義項に含めたのは、〈それを継続的に行うことが当の社会である程度ふつうのことになっている〉という限定を入れたかったから。
逆に言えば、たまたまある場面で一回きりの技くらべをしました、みたいなケースはここでの「競技」から排除したい。
営みが高度になると制度化される(たとえば、競技を行うための組織や職業が出てきたりする)。
確認
これらの性格は、eスポーツを含むビデオゲーム競技にも当てはまる。