生井秀樹
生井秀樹さん
P-MODELデビュー以来、現在までP-MODEL&平沢を撮り続けて下さったカメラマン、生井秀樹さんが亡くなった。 生井さんには常にライブや新譜に対して励みになる感想を頂き、「生井さんにさえウケていれば道を外していない」という確信を与えて下さいました。
生井さんに飽きられた時が
と考えており、その時が来たら潔く、突風のごとく引退しようと腹をくくっておりました。
幸い、もう飽きられることがなくなったという訳です。
それほどの生井さんですから、今後は隣接次元より平沢の見えない黒幕として私を酷使してください。
日本で見られる、国内外のロック系有名アーティストの写真のほとんどは生井さんの作品のはずです。
四谷三丁目のスタジオで、初めてのフォトセッションの後、貧乏そうで空腹そうな我々を見て撮影のギャラを使って食事に招待してくださいました(焼肉だったけど。。)。
「俺、P-MODEL撮れてうれしくてさ、これもう仕事じゃないよな。だからギャラ還元したいんだよ」 と言っていた。
焼肉屋さんでだけど。。
1979年のキナ臭い「日本のパンクシーン」の一角で勃発したP-MODELの初ステージ。 ややもすればビール缶が飛んでくるような張りつめたライブハウスの空気。
切り裂き魔のような対バン達を後目に、いきなりトリをやらされたP-MODEL。 やり損ねたら殺される、と思うくらい怖かった。
腹をくくって演奏を始めると、突然満面に笑みを浮かべて踊り出すカメラマンのオジサン。 そして会場は大爆発。
ステージを降りるとカメラマンはガハハハと笑いながら何度も何度も私の背中を叩いた。
それが生井さんだ。
生井さんは楽屋まで私の肩を叩きながらついてきて、突然真顔になり
「汗拭かないで」
とピシリと言った。
「写真撮らして欲しいんだけどいいかな?よかったらみんな上に行こう」 言われるがまま全員汗だくで屋外に出た。初めてプロに写真を撮っていただいた。
後に生井さんの正体を聞かされビビった。
それ以来のお付き合い。
生井さんを含め、常に二名の写真家が私を撮ってくれて来た。 もう一人は、生井さんを師と仰ぐ女性の写真家、黄泉谷アピ(私は小鶴と呼んでいる)だ。 最前列に居る人には分かるだろう、いかついカメラを持ったあのガイジンのおオネイサン。 小鶴とは2ndアルバムからの付き合いだ。彼女もイワクある伝説のカメラマンだ。 小鶴よ、師匠亡き後写真はおぬし一人に任せた。頼んだぞ。
病気したら殺す。