アラン・ケイ
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A Conversation with Alan Kay - ACM Queue
アラン・ケイ自身がiPadとダイナブックのコンセプトの違いを説明した投稿 「見た目は似てるかもしれないがコンセプトは数千倍貧弱」
とのこと
今のPCに新しいことは何もない
(Altoを生み出した)パロアルト研究所は'70年代には多くの発明を生み出す有名なコミュニティだった。面白いのは過去約25年間、その発明がみな今の時代に再発明されていることだ。 だから'90年代になって我々は皆非常に失望した。(新世代の技術者らは) なぜただ我々が書いた論文を読んで実行しないのだと。
我々が出した答えは、彼らは違うグループに属す人間なので、その論文を読めないということだ。
彼らはポップカルチャーの人間だ。ポップカルチャーの人間にクラシック音楽を学ばせたかったら、彼らが自分でクラシック音楽を再発明する必要がある。
なぜなら学習は労力がかかるからだ。
現在のコンピューティングカルチャーの中にいる者は誰でもGoogleにアクセスして、90分のビデオを見てエンゲルバートが考えたことを学ぶことができる。しかしそうする者はいない。 Google社員は何でも見つけることができる会社にいるのに、学ぶ気がまるでなかった。
エンゲルバートと打ち込めば彼が書いた75の論文を手に入れられるしデモ映像も見られる。
コンピュータ分野の最重要人物の一人だった人物に関して、彼らはなぜそんなに知りたがらないのか。
この関心の無さはポップカルチャーの関心の無さだ。
言い換えると彼らは過去のことすべてに関心が持てないのだ。
Google社員のようなコンピュータの専門家ですら、エンゲルバートの業績を知らなくても関係ない。
なぜならこれがポップカルチャーだからだ。
パンクロッカーがバッハの功績を知らないようなものだ。
ポップカルチャーはバッハにまるで興味を持たない。
ポップカルチャーではアイデンティティと参加こそが重要だから。
Webの進みが遅いのは、Webが知る意欲のない大勢の人々によって動かされているためだと思う。彼らにはただ自分たちのアイデアがあって、それが彼らにとって重要なことだ。
その考えがいいか悪いかは関係ない。ただ自分たちのアイデアを世界に向かって語り広めたいだけ。
もし私が(インターネットに関連する)ジャーナリストで、未来について書くなら、まっさきに心理学・社会学・文化人類学などでポップカルチャーについて書いてある本を読む。
ポップカルチャー人間が大勢、インターネットでプログラミングしているのだから、よい予測がたくさんできるだろう。
欠けているのはパースペクティブ(視野)だ。
パースペクティブの欠落は好奇心の欠落に直結する。
もしあなたが世界全体を見終わったと思うなら、あとはすべてのものに名前を付ければいい。
しかし全部は見ていない。
ほとんど見ていないと気付いたとたん、名前のないものを探し始めなければならない。
そのような状態で将来のコンピューティングはどうなるか?
過去1世紀の電子技術のほとんどは退行的だ。
電子技術の多くは書くことよりオーラルコミュニケーションを奨励するからだ。
昔、人々に読み書きを強いた多くのものは今は存在しない。楽しみのために読まなければ、恐らく必要になったときには読む鍛錬が足りていないだろう。
書くこともどんどん不要になっている。将来はもっと、コンピュータが 『学ばないこと』 の言い訳になるかもしれない。
米国の多くの学校は、子供がGoogleで何かを見つけてコピーすれば、それで学んでいると思っている。
しかし子供がそれについての作文を書かない限り学んだことにならない
作文は思考を組織化する。単に博物館の展示物を集めるだけではない。しかしほとんどの学校はその違いを分からない。
理想的未来は、人々が今日よりもよりよく考える未来
しかし実際に起こりそうな未来は、人々がよりよく考えないでしかもそれに気付かない未来
目標は未来の大人 (子供) に科学的リテラシーを持たせること
先進国で科学者とまともな会話ができる成人、言い換えると科学的リテラシーを持つ成人は5%未満
科学的リテラシーとは、科学の本を読んで、その考えをほぼ理解でき、科学者とそれについての発展的会話もできる能力
95%の大人は科学的リテラシーを持っていない
私が言う科学とは単なる原子の学問でなくもっと広い概念
科学の学習とは、原子理論を学ぶことでなく、科学者のような考え方を学ぶこと
原子理論を学んでも科学者のような考え方をまるで気にしないということもありうる。
科学を宗教のように(決まりきったこととして)教えられることもある。
科学者のように考えるとはどういうことか。
これは、何に関しても注意深く考える人とはどういう人かということだ。
科学者の中にも、物理に関しては科学者らしく考えられても、政治や宗教になると科学者らしく考えない人もいる
そういう方向から科学を見れば、科学はすべての子供のためのものであるべき
考えられない大人を作りたくはないから。
大人を変えるのは難しい。しかし子供はある程度変われる
科学的思考力に文化差や男女差はあると思うか。
特定の文化とは関係ない。先進国ではどこでも科学に興味が持たれる。
現代数学や科学的思考法は世界のどこの子供にも教えられる。
性差については、11~13才くらいでは、(Squeakの遊びツールである)eToysについて見ていると、女子は男子より若干能力が高い。 これは数学でも同じ
大きな問題は、女子は十代になると数学をやめる傾向があることだ。
一番よくできたプロジェクトを見れば性差はほぼない。
50年代には米国のほとんどのプログラマーは女性だった。
60年代初め私がプログラミングを始めたとき、私のボスは女性だった。50年代にプログラマーの職業としてのステータスが低かったためだ。
性差は社会的なものか?
ほかの要素もあると思う。
Squeakが女子に興味を持ってもらえる理由は、Squeakが大学などで使う標準的言語よりメカニカルな部分を減らしてあるからだろう。 我々はさまざまな子供たちがさまざまな方法でシステムに関われるように注力した。Squeakはある意味よりソフトなのだ。女性は男性と多少違うものや環境に興味を持つ。プログラミングに同等に興味があってもセッティングは男性と違う必要がある。 プロジェクトが抱える最大の課題の1つは世界の女性の教育だ。
なぜなら子供は父親より母親と過ごす時間のほうが多い。
そのため母親が知っていること、考えることは、父親のそれより(子供への影響として)重要だ。このことには我々は非常に関心を払っている。
科学的思考を学ぶとは何か
子供が科学で学ぶことの1つは、けっして物事を2つのカテゴリーに分けてはいけないということだ。
一見すると、イエスとノー、正と誤に分けなければならない場合であってもだ。
人間の神経システムは、物事を2つのカテゴリーに分けようとする。あなたと私、黒と白、善と悪。これは決定を早くする方法。
だが科学では、もっと多く分類できないかと常に問う。多くのカテゴリーには名前もない。だからこそ難しい。
我々の認知が素早いのは、人間を見たときにそれがトラではないと理解するからだ。
もしあなたがトラなら私はすぐに飛び退いて、助かることができる。
でもほかの目的のためには、そんなふうに性急に反応したくない。
世界を見るノーマルなやり方は素早く認識することだが、科学的なやり方とはゆっくり認識することだ。
ニュートンは万有引力の理論を考えつき、それはうまく機能した。今日でも使われているほどだ。
人々は彼が真実を発見したと考えた。
事実、ある英国の科学者の偉大な発見は英国では無視された。
なぜならそれが、19世紀の英国の科学者が宗教扱いしていたニュートンの法則を侵していたからだ。
無視された科学者はマクスウェル。だから(電磁場に関するマクスウェルの理論を生かした)無線は英国でなくドイツで発明された。 その後、人々は天体を観測し、水星がニュートンの法則に従わないことに気付いた。
これは危機だった。ニュートンが間違っていることがありうるのかと。
そして人々は唐突に、科学は正か誤かで割り切れないことを発見した
このように、現実世界には(絶対の)正も誤もない。
もし世界中の大人が皆、世界が正誤に分けられないことを理解したら、非常に大きな違いを生むだろう。
何百万もの人々が、世界に2つのカテゴリーしかないと考えているために、互いを殺し合っている。
科学が原子よりずっと大きな概念だ、とはこういうことだ。
何事に対しても、どうよく考えるかということだ。
少数の創造的な人がいるだけだったらどうだろうか。
それは民主主義にとって破滅的だ。一般教育を行なう主な理由の1つはまさに、有権者がさまざまな問題で同じ会話ができるようにするためだ。
そうしなければ職業訓練校やギルドの昔に戻ることになる。
Squeakなどで賢い人が少し増えたとしても、95%という数字からでは、大きな変化は起きないのでは
そのアナロジーは印刷に戻る。>500年前のヨーロッパでは識字率は1%だった。当時と今の違いは絶大だ。
人間は十万年もの間、世界が完璧だ思い込んできた。生存のための何やかやで、世界が完璧でないかもしれないなどと考えつく隙はなかった。現代的意味での科学は約400年の歴史しかない。
新しい重要な物事は何でも、5%か95%だ。問題の本質は、数百年後にどうなるかだ。
2009年のインタビュー
コンピュータのパラダイムシフトはマルチコアではない
パラダイム・シフトが必要だとすれば、やはりメモリ・アーキテクチャだろう。
コアを単純に複数にするのではなく、そのコアの近くにメモリを置く必要がある。
いかに高速なメモリ・バンド幅を確保するかが大切だからだ。
メモリ・バンド幅の問題を解決するアイデアとして何年も前に実現されたコンピュータが一つの参考になる。
これらは、プロセサ・エレメントとメモリ・エレメントの距離を可能な限り近づけるという発想から、プロセサ自身にメモリを配置している。
まさに真の分散アーキテクチャといえる。
これがコンピュータ・アーキテクチャの進むべき道であるとわかっていたはずだが、結果的に産業界が選んだ道はそうではなかった。
驚くべきことか、ある種、必然だったのか。おそらく、プログラミング・モデルを変更しなければならないという不安から、アーキテクチャの抜本的な変更に踏み切れなかったのだろう。
刹那的なポップカルチャーは悪
ポップ・カルチャーに対して大きな不安を感じる。本当の目的と違うことに、新技術が使われているケースが目に付く。例えば携帯電話。
帯電話をどういった目的に利用しているかといえば、瑣末な用途に使うことがほとんどになっている。重要な話を電話でするというより、強い目的があるわけでもない、些細な会話に使う比率の方が高い。
技術が普及し、日常の一部になるということは、本来の重要な目的が忘れ去られることを意味するのかもしれない。
コンピュータの利用方法はどうか
多くの人は、コンピュータを使って何かを学ぼうとしていない。単に楽しんでいるだけ
本来は、人がアイデアを生み出す道具として発明されたはずが、娯楽の一部になってしまっている。
こうしたポップ・カルチャーは危険だ。みんなが愚か者になる恐れがある。
それは基本的に無知な文化であり、過去を振り返ったり未来を見通すことなく、その場・その時だけを刹那的に体験することに忙しくなりすぎている。
メディアにとって重要な要素とは何か
記述方法のない口述に基づく旧来の文化と、記述方法を備えた文化では大きな違いがある。
興味深いのは、私たちが知っている先進的な文化は、記述方法を備えている。
口述に基づくのは未開の地の文化といえる。
では、テクノロジーの世界ではどうか。
過去100年間、電話やラジオ、テレビ、携帯電話といった電子機器は、人々が「書くことによって意思を伝達すること」を避けて通れるようにしてきた。これはよくない。
(メディア論を展開した)マクルーハンは、1950年代に「電子によるコミュニケーションに、書くことを避ける能力が加わったとしたら、それは世界を旧文明化へと歩ませる導火線になることだろう」と予言した。 彼は、書くことを失った文化を「グローバル・ビレッジ(世界的な村落)」と呼んだが、そうなることを彼は恐れていた。私も同感だ。 日本でも若い世代の理科系離れを懸念する声がある
現在と60年前では本質的な違いがある。
もしあなたが子供に、何か分解できるものを与えたとするならば、子供は喜んで分解作業に夢中になることだろう。子供は好奇心の塊だから、必ず興味を示すはず。
ところが、現在のテクノロジーに目を移せば、分解できるものがあまりに少ない。
パソコンもゲーム機もも分解しにくい。ソフトウエアについても、分解しやすいようには設計されていない。
子供にはテクノロジーの意味がさっぱりわからない。
今の世の中は、その機能を実現しているテクノロジーの断片と、関係に関する因果関係や必然性を考える機会が少なくなった。
これは「どのような仕組みで実現されているのだろうか」と問いかける人が減る。
これは世の中の進歩にとって重大な問題だと考えている。
子供たちが、大人の世界から隔離されかねない。
こうしたテクノロジーへの関心が急速に冷めているのも理解できる。
子供が興味をもち、自らのパワーを感じられるものがあるとすれば、家庭用ゲーム機くらいかもしれない。
ところが残念なことに、ゲーム・ソフトを子供たちが記述することはない。これは憂えるべき事態だ。いずれ子供たちは大人になる。そして選挙権を得るようになり、社会に対して影響力を行使する。
こういう子供たちがそのまま大人になったとしたら、社会はまずい方向に進むのではないだろうか。だからこそ、100ドル・パソコンのコンセプトに意味がある。きちんと自分で学び、自分で考える能力をもった子供を育て上げるために。
最近気になっていることは、生成AIに聞くことと、ネット越しに他の人に聞くことの違いは何かです。同様に、他人にこう聞いたらこう帰ってきたということを解答するとすると何が違うのかなんですよね。まあ、他人の方がまだ生成AIよりインテリジェンスが高いかなあ。
以前アラン・ケイが慶應で講演した時に「AIはいつ人間を超えると思いますか?」という質問に「誰と比較するかによる」と答えたことを思い出してしまいました…
アラン・ケイの講演集
英語字幕スクロール機能もあって英語学習にも良さそう。 ミンスキーのエッセイ集への寄稿を依頼されたアラン・ケイが、数ページ程度書けば十分だったのにミンスキーが好きすぎて30ページ以上書いちゃったエッセイ。勢い余ってエッセイ用に動かせるプログラムまで書いてしまったらしい。
Alan Kay's answer to What does Alan Kay think about inheritance in object-oriented programming? - Quora
継承と型について
アラン・ケイへのインタビュー
https://gyazo.com/392cffc444b064e389f5cce8b9bc28ad
「コンピュータ革命はまだ起こっていない」
https://www.youtube.com/watch?v=oKg1hTOQXoY
Alan Kay - Programming and Scaling - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=YyIQKBzIuBY
https://www.youtube.com/watch?v=KVUGkuUj28o
https://www.youtube.com/watch?v=M6ZHxUwqPVw
私たちの良く知るその熱意と聡明さでもって、アラン・ケイが子どもたちに教えるためのより良い方法を描き出し、コンピューターならではの方法で数学や科学を体験できる方法を見せてくれます。
アラン・ケイのTEDトーク動画
数学や物理を子どもたちにどう教えるべきかを説明した後、コンピュータで同様のことを行うにはどうすのがよいか?ということを語っている。
Doing with Images Makes Symbols (1987)
動画の進行に合わせて自動で英語字幕がスクロールしてくれて便利。 アランさんが言っていることは、単にデジタルにすればよいという訳ではないことに注意が必要
ARPAやBell Labの黄金時代(Apollo計画の時代でもある)を生き,IT社会を切り拓いたお一人,Alan Kay の話を聞けて本当に良かった. アラン・ケイが影響を受けた人物