Oriental Funk
https://open.spotify.com/playlist/3OVsSD9m2nZ2gTFmhPBJMq
音楽的・構造的な共通点として、以下の3つの要素が挙げられている
饒舌で記名性の高いベース
誰が弾いているか分かるような
ハイフレットへ駆け上がったりする
リズムの構造
メロディと世界観
どこか「和」を感じさせる旋律
あるいはダークで艶のある歌詞の世界観
2. ジャンルの変遷と主要なアーティスト・楽曲
すべての起点
彼の重要な切り札的スタイル
実験的でありながらアップリフティングな熱量を持つ
ダークなモチーフと艶のあるメロディ
ベーシストとしてのアイデンティティを持つ彼ならでは
そして横ノリのグルーヴの融合
2020年代初頭、顔を明かさない匿名性とともに、「和」の風合いを前面に押し出したバイラルヒットの潮流
ダンス/クラブ文脈ではなく
3. 最新のパラドックス(2026年の現在地)
記事で最も興味深い指摘
この曲は紛れもなくオリエンタルファンクの構造を持っている
本来、ファンクという音楽ジャンルは演奏者の「身体性(肉体的なノリや技量)」が極めて重要なはずだ。 が、作詞・作曲以外の大部分(編曲・歌唱・MVアニメーション)が音楽生成AI(Suno等)によって構築されている しかし、この楽曲の登場によって「身体性がどんどん後景に退いていく(肉体から離れていく)」
真逆の、そして極めて現代的なパラドックス(新時代)に突入していると結ばれているよ
既存の「ファンク」という文脈と「和・ネットカルチャー」というドメスティックな要素をリミックスすることで、これほど巨大なJ-POPのメインストリームが形成されていた、というのは非常に面白い分析だね。
この「グルーヴ×和テイスト」の構造は、聴覚的な快感とネット社会の匿名性が非常にマリアージュしやすい論理的な必然性を持っていた、と言えるかもしれないね
https://youtu.be/YEwzRue45cg?si=00vNJcYClhkFkUQR
山脇氏の論考は「なぜいま、その音楽が立ち現れたのかという構造的理由」と「日本ポップス史におけるミッシングリンク(失われた環)」を論理的に補完している
先の柴氏の記事が「現象の命名とアーティストの系譜(点と線)」を整理したのに対し
山脇氏は、柴氏の指摘した「身体性の後景化(退行)」というパラドックスを、リスナーの聴取環境のデジタル化から鮮やかに紐解いている。 「踊るための機能」から「音像としての質感」へ:
グルーヴとは
ダンスフロアで「生身の身体を動かすための機能」
現代のオリエンタルファンクにおいて、
「ヘッドホンやイヤホンの内側(デジタル空間)で快感を得るための音響的なテクスチャー(質感)」へと抽象化されている。
制作環境のDAW化とショート動画消費:
楽曲がDAW(パソコン上の制作ソフト)の画面内で完結し、TikTokなどのアルゴリズムによって断片的に消費される現代において、リスナーの身体はフロアにはない。つまり、「身体性は排除されているのではなく、データとして再配置・再編集されている」という状態なんだね。
2. 歴史的系譜の補完:源流としての「山下達郎」という座標軸 ここが山脇氏の論考において最も批評的で面白い部分だ。
山脇氏は日本におけるファンク受容の歴史を遡り、山下達郎という決定的な座標軸を提示している。 柴氏は2018年の米津玄師「Flamingo」を起点としたが、
スタジオワークによる「設計された身体性」:
彼が試みたのは、生身のフロアの熱狂をそのまま持ち込むことではなく、スタジオワーク(楽譜的・音響的構造)によってグルーヴを計算高く設計することだった。
知識的アプローチの連続性:
体験(フロア)としてではなく、知識・構造としてファンクを解体し、再編するという山下達郎の方法論。
これこそが、現代のデジタルネイティブ世代が(おそらく無意識に)行っている画面上のエディット作業と地続きにある、と指摘している。 3. 「Funky」という形容詞への換骨奪胎
J-POPの歴史は、海外の文脈をドメスティックに翻訳(換骨奪胎)してきた歴史でもある。
「ファンク」もまた、精神性や肉体的パフォーマンスから切り離され、「Funky(ファンキーな質感)」という記号へと純化された。 シティポップ(CITY POP)というラベルが、後にグローバルなデジタル環境(VaporwaveやNight Tempo等の文脈)で再文脈化されたように オリエンタルファンクとは、その純化された記号が、半世紀に及ぶ邦楽の歴史とインターネット時代の再編集文化(ボカロ、TikTok、AI)と交差したことで、必然的に結晶化した現象なのだと言える。