フェミニズム feminism
アメリカ
リベラル
公/私二分論的な思考
70年代—
男性中心主義の原理に支配された近代的核家族制の解体
リベラルフェミニズムは私的領域にたいする国家の不介入を前提としてるのでそれの解体を目指すラディカルとは対立
前者から見れば後者は、具体的な展望も着地点も見えないまま、 徒 らにラディカルで抽象的な主張を掲げて、女性の具体的な社会進出を妨げている。後者から見れば、前者は男性中心社会に同化し、「彼ら」の基準に順応することによって女性の社会的ステータスを上昇させようとしており、結果的に、男性中心の社会を永続させることに貢献している。
近代のヒューマニズムが人間の普遍性を前提として万人に平等な人権を保障することを目指してきたのに対して、ジェンダーや文化の差異を強調することで各人を西欧近代の同化圧力から解放する
ポストコロニアリズムとフェミニズム
植民地化された国の女性達は二重三重に言葉を奪われていた
ポストモダンの影響を強く受けたラディカル・フェミニズムの議論の多くは、近代市民社会の中での女性のアイデンティティ形成や「表象 representation」のされ方を、記号学、言説分析、精神分析、文化人類学などの知見を動員しながら脱構築的に ── つまり、どういう結論に収束していくのか分からないような文体・論理展開で ── 分析する。そうした議論に慣れていない者にとっては、社会の根深いところにある“〝 男性(男根)中心主義”〟 が問題にされていることが分かるくらいで、具体的に何が求められているのかピンと来にくい。
「権利」や「正義」といった概念自体が、男性中心主義的な市民社会の産物
言語を使うこと自体が男性の論理に搦め取られてしまう
(文学畑のラディカル・フェミニストの中には)「権利」「正義」「平等」「自由」などの法的言語を使って「差異の政治」を展開することを拒絶する者も少なくない
一方、リベラリズムの哲学
権利」や「正義」などの基本概念を、市民社会の現実に合わせて厳密に定式化することによって、" 正義"を実質化
-> かみ合わない
1970-1989
セクハラやDVが問題になり状況が変わってくる
英米の方では合理的な人間の基準(通常人)が参照される
ジェンダーやエスニシティが異なると通常人のイメージが変わってくる
「ポルノグラフィ」についても、猥褻性の問題としてではなく、女性に対する男性の暴力的な支配を、表象的に再確認する行為として位置付け、ラディカル・フェミニズムの活動家・ジャーナリストであるアンドレア・ドウォーキン Andrea Rita Dworkin(一九四六─二〇〇五)らとともに、人種、宗教、性による差別禁止を定めた「公民権法」に基づいて「ポルノ」を実質的に非合法化していく運動を展開していく。 「法」を利用する戦略
ジェンダー的正義
ロールズの土俵でジェンダーに踏み込む
家における正義と職業経済活動における正義を複合的に考える
親密圏での私的領域の重要性は認めている
(ハーバーマスの想定する)一元的な公共圏ではなく、緩やかなネットワークとしての多元的な公共圏
女性達のサブ公共圏において家庭内暴力が「公的問題」として論z似られたきっかけとしてDVが市民社会全体が公的に対処すべき問題になった
アンジェラ・マクロビーやロザリンド・ギルといった、ポストフェミニズム/第三波フェミニズムの論者は、「世代」の問題をかなり論じますよね。これはちゃんと調べれば違うのかもしれませんが、第二波が第一波との世代的な断絶を問題にしたというのは聞いたことがない一方で、ポストフェミニズムや第三波の議論においては第二波との世代的な連続と断絶が常に問題になって、それ自体重要な論点です。
ここではトランス排除の問題がマルクス主義フェミニズムの集団性 vs ネオリベ個人主義の二項対立として現れてしまっているのですが、そこから当然に想起するのは九〇年代のナンシー・フレイザーとジュディス・バトラーの論争です。
すでに述べたように、かつての「現代思想」の旗手たちや、その影響を受けてジェンダー・スタディーズやカルチュラル・スタディーズなどの「差異のポリティクス」に従事していた人々が「左転回」して、旧来の左派といつのまにか“〝 合流”〟 し、“〝 新自由主義者”〟 や“〝 ナショナリスト”〟 などの「右」の勢力と正面から対峙するようになった。そのため、今や「思想」業界は、一九七〇年代以前のわかりやすい「左/右」の二項対立状況に戻ったかのような様相 を呈している。