ISBN:978-4861823824 現代ドイツ思想講義
ではアドルノ Theodor Ludwig Adorno-Wiesengrund、ホルクハイマー Max Horkheimerとハーマン Graham Harmanでは、哲学的立場、 理論戦略はどう違うのか? アドルノ たちは、第二回から前回まで三回にわたって少しずつ読んだ「弁証法」の議論に典型的に見られる ように、近代理性を根底から批判する、あるいは近代理性の自己矛盾を露わにし、その暴走を可能な限り 食い止めるという試みを、最後まで続けました。 『啓蒙の弁証法』では、「理性」をその語源にまで遡って、 〈Ratio> として捉えようとしました。 〈Ratio> の原義は「計算」 です。 「理性」の本質は、異なった事物の 間の差異をして、数量的に比較可能にすることである、と言えます。その意味で、「理性」とは、「計 算的(合理性」です。 人間の新たな可能性を切り開くというより、予め決まった目的を実現する手段に 成り下がっているという意味で、「道具的理性 instrumentelle Vernunft」 とも呼ばれます 「道具的理性」 というのは、ホルクハイマーの用語です。 彼らは、理性が諸事物と人間自身を、同一化の論理の中に取り 込んでしまうことを強調します。 初期マルクス Karl Marxの用語で言うと、「疎外 alienation」論的な側面に焦点を当てるわけ です。 マルクスと違うのは、アドルたちの議論の枠組みには、共産主義革命に相当するような、疎外からの出口がないということです。 そういう形式になっているのは、どうしてか? 単にアドルノが、アフォリズムが好きなだけのことか もしれないですが、一応それなりの理由を考えることはできます。 大きな理論、この世界の全てを一元的 に説明し尽くそうとする、体系的な理論は、同一性の論理に絡め取られやすいからです。 この世界には単 一的な正義の基準しかないという前提に立つ論理は、そこからのちょっとしたも、許そうとしない。 近代の理性は、まさにそういう画一化された世界を構築しようとしてきたし、その最終的として全 体主義体制や、アメリカの文化産業のようなものが生み出されてきたわけです。 アドルノは、カント Immanuel Kantの道徳哲学のような普遍性を志向する哲学や、ヘーゲル Georg Wilhelm Friedrich Hegelの弁証法のような体系を志向する哲学は、同一性=等価値性の論理と共犯関係にあるというような見方をします。 こうしたハーバマスの市民的公共性論は、直接的にはアーレント Hannah Arendtの市民社会観に対するオルターナティ になっているわけですが、「市民社会」を経済的利害関係のみによる結び付きとして否定的に見ていた初期フランクフルト学派や、マルクス主義に対する批判にもなっているわけです。 誰がどのような意図で使っているか(主体の意図)は問題にされない
先ほども言いましたが、メディア論的なコミュニケーション論が有力になっていきます。 コミュニケー ションはハーバマスの十八番のはずですが、ハーバマスの理論は、コミュニケーション的理性を前提にし 主体間の合意をめぐる理論です。それに対し、ボルツやキトラーなどのコミュニケーション論は、メデ ィアが主役のコミュニケーション理論です。 その時代や社会の主導的なメディアによって、コミュニケー ションの基本的形態が規定され、その枠内で主体たちが関係を結んでいる。 メディアの中で、主体の 知覚や認識、思考の様式が形成される、と見るわけです。