ISBN:978-4121023780 保守主義とは何か - 反フランス革命から現代日本まで
近代とはいわば、このような進歩主義と保守主義との対抗関係を軸に展開した時代ともいえる。そして、その場合に重要なのは、この対抗関係のなかでイニシアティブを握ったのが、つねに進歩主義であったということである。進歩主義があってこそ保守主義もまた意味をもつのであって、その逆ではない。
このように、もし保守主義という場合にバーク Edmund Burkeに言及するならば、少なくとも、 ① 保守すべきは具体的な制度や慣習であり、 ② そのような制度や慣習は歴史のなかで培われたものであることを忘れてはならず、さらに、 ③ 大切なのは自由を維持することであり、 ④ 民主化を前提にしつつ、秩序ある漸進的改革が目指される、ということを踏まえる必要がある。 逆にいえば、 ① 抽象的で恣意的な過去のイメージに基づいて、 ② 現実の歴史的連続性を無視し、 ③ 自由のための制度を破壊し、さらには ④ 民主主義を全否定するならば、それはけっして保守主義といえないのである。少なくとも バーク的な意味での 保守主義ではない。 人間が動物と異なるのは、この会話に参加する能力であって、真理を発見したり、より良い世界を考察したりすることではない。ところが、この数世紀、西欧の会話は次第に退屈になっているとオークショットはいう。その理由として、会話が「科学」の言語と実践的活動の言語ばかりになってしまったと、彼は指摘する。結果として、認識することと発明することが、他を圧倒する人間の関心になってしまった。そうだとすれば、今日、必要なのは、政治と科学に独占されてしまった会話の単調さから、少しでも自由になることではないか。オークショットはそう主張する。
結果として、「独立宣言」に示されたジョン・ロック John Locke的な自由主義、すなわち個人の所有権から出発して、人民の信託によって政府が設立されたと考える発想が正統的な思想となり、民主化以前の伝統に固執するヨーロッパ的な保守主義や、それに対抗する社会主義が等しく根を下ろさなかったのがアメリカの特徴とされる。 間違いないのは、アメリカが現代の先進国で例外的に「宗教的な」国家であるという事実である。しばしば指摘されるように、アメリカでは九〇%を超える人々が神、または普遍的な霊魂の存在を信じている。とくに人口の約八割を占めるのはキリスト教徒であり、その多くは神による天地創造を信じていて、むしろ進化論を支持する人間の方が少数派である(『アメリカと宗教──保守化と政治化のゆくえ』)。このような数字は、「世俗化」の進んだ他の先進諸国には見られないものであり、アメリカの顕著な特徴となっている。
このような宗教と関連して、現代アメリカの保守主義の精神的背景には、もう一つ指摘すべき要因がある。いわゆる「反知性主義 anti-intellectualism」である。この言葉は、古くは歴史家のリチャード・ホーフスタッターによる著作『アメリカの反知性主義』(一九六三年) によって提起されたものであるが、アメリカ社会に根強い反エリート主義的な伝統をいう。 前節で検討したように、現代アメリカの保守主義を準備したのは、新大陸アメリカに生まれ育った独特な「伝統主義」であった。それは政府の力に頼ることなく、自分と自分の家族のみで孤独に生きる人々の信念であり、固有の独立精神に基礎を置くものであった。と同時に、この独立精神を支えたのは強い宗教心であり、その場合の宗教とは、近代化と世俗化に適応したキリスト教ではなく、あくまで『聖書』と独特な回心体験に基礎を置くキリスト教であった。
新しい流行の摂取に熱心な日本の伝統は、次から次へと外来の思想や制度を輸入したものの、それらは蓄積されることも、あるいは相互に関連づけられることもなく、いつしか「忘却」されていった。仏教や儒学に始まり、キリスト教やマルクス主義に至るまで、あらゆる思想は構造化されることがないままに受容されていった。それらはいつのまにか意識の底に押しやられ、逆にあるとき突発的に「思い出される」。日本の思想とは、その連続であったというのである。
しかしながら、丸山にせよ、福田にせよ、そのように論じつつも、戦前と戦後の間の思想と政治における「断絶」を克服し、そこに何らかの連続性を見出したい、あるいは見出すべきだという主張を潜在的に共有している。丸山については、後に触れる「重臣的リベラリズム」論が重要であるし、福田については、「切断を乗り越えて、なんとか連続を見出し、その懸け橋を造ること、言ひかへれば、征服による疑似革命を進歩の中に吸収せしめること」という指摘がきわめて示唆的である。
しかしながら、吉田の遺産に負の側面がなかったわけではない。すでに指摘したように、吉田の判断はすぐれて現実主義的なものであった。その選んだ軽武装・経済国家についても、それがどこまで彼の信念に深く根を張っていたのかは明らかでない。現実に迫られ、状況対応的に選んだという側面を否定できないのである。占領下にある敗戦国の指導者としてやむをえない事態であったとしても、結果として、戦後日本の保守主義が、必ずしも現行の憲法秩序に価値的にコミットしないという皮肉な状態をもたらしたことは否定できない。
社会心理学者のジョナサン・ハイト ハイト Jonathan Haidtは、アメリカ社会の左派と右派の分断について、イデオロギーや利害の対立ではなく、むしろ感情的な対立であるとして分析を試みている(『社会はなぜ左と右にわかれるのか』)。ハイトによれば、人々は自らの道徳や政治的立場を、理性に基づく熟慮によって決定しているわけではない。重要なのは感情による直観である。理屈づけや合理的説明は後からなされるが、最初からそのような理由で決めていると人々は錯覚してしまうのである。 リベラルが政治を政策や計画の問題として理解しているのに対し、保守は政治を「勘」と「価値観」の問題として捉えている。選挙戦は人々の頭ではなく、心に訴えることで決まるという点をよく心得ているのは、保守の方である。