ISBN:978-4106037481 精神論ぬきの保守主義
印象に残らない理由ははっきりしている。名誉革命時代のイギリスを代表する哲学者ロック John Locke(一六三二―一七〇四)が、「タブラ・ラサ(心は白紙)」の標語で知られるイギリス経験論の創始者で、名誉革命を正当化する、抵抗権込みの新しい社会契約論を理論化した人として、大きくかつ分かりやすく取り上げられているのに対し、ヒュームは、因果関係や自我の実在を疑う懐疑論の哲学者としてさりげなく紹介される。 ヒュームが再評価されている要因はいくつか考えられるが、あえて一つにまとめると、近代合理主義・啓蒙主義の全盛期である一八世紀半ばにあって、理性の限界、言い換えれば、人間が自らの周囲の世界を把握する能力の限界を見極め、「理性」を相対化する方向に思考を進めたから、ということになるだろう。
デカルトは、有名な「我思う故に、我有り」という命題によって、「考えている私」が〝いる〟限り、「私が存在する」ことだけは確実であるということを自らの議論の起点にしたが、ヒュームに言わせれば、「私」は、自分自身のことを常に意識し、考えているわけではない。「私」が連続的に存在し続けていると、どうして言えるのだろうか。
トクヴィルは、そうした革命思想の淵源を、一八世紀半ばの啓蒙主義の哲学者たちや重農主義 physiocratie者たち(physiocrates)が、公的自由を軽視していたことにあると見ている。重農主義というのは、農業を中心として経済システムを分析し、効率的な経済運営を提言した学派である。代表的な理論家に、『経済表』(一七五八)によって経済の循環サイクルを描き出し、重商主義的な国家の保護・統制を批判したケネー François Quesnay(一六九四―一七七四)や、ルイ十六世の下で財務総監を務めたテュルゴ(一七二七―八一)がいる。 英国の憲法=国家体制の特徴を論じた、彼の主要著作『イギリス憲政論』(一八六七)は、バークの『フランス革命についての省察』に次ぐ、英国の保守主義の政治哲学の古典と見なされている――この著作の中の英国王室に関する記述は、福澤諭吉の皇室観に影響を与えている。
ここから分かるように、バジョットは、憲法が機能するよう支えている「威厳をもった部分 dignified parts」、それらの部分に備わっている憲法の「権威 authority」を重視している。この場合の「権威」とは、人々の忠誠心や信頼を繋ぎとめ、政府による統治を可能にする精神的影響力である。 バジョットに言わせれば、そうした「威厳をもった部分」が具体的な機能を遂行しないからといって不用だとか、もっと機能的なものに置き換えようとする議論も、その逆に、そうした部分で実は有用なのだとして擁護しようとする議論のいずれも見当外れである。統治を可能にしている「権威」の意味を理解していないからである。
ドイツ思想史、そして西欧法制史においてもっとも危ない思想家とされるカール・シュミット Carl Schmitt(一八八八―一九八五)は、現在でもドイツ系の憲法学や法哲学に強い影響を与え続けている。また、近代の自由民主主義や経済的合理性を核とする市民社会的な諸規範、(西欧の男性を標準とする)「人間」概念等をラディカルに批判するポストモダン postmodern左派の陣営(の一部)からも高い評価を受けている。 この論争を通してハイエク Friedrich August von Hayekは、市場での価格というシグナルを通して、人々がその商品に関連するさまざまな「知識」を共同で利用していることに注目するようになった。商品の価値は、地域や時期によるニーズの違い、生産に必要な技術や人材、財の希少性、輸送手段などさまざまな要因によって決まるが、一つの商品についてでさえ、すべての情報を把握している人はほとんどいない。実際、各人がすべてを知ったうえで取引することなどできない。しかし、市場で価格メカニズムが働いていることによって、人々はすべてを知らなくても、その商品の適正な価格を知ることができる。つまり価格メカニズムを介して、我々は不特定多数の他人の「知識」を利用しているわけである。ハイエクはこれを、アダム・スミス以来の経済学の前提になっていた「労働の分業 division of labour」との対比で、「知識の分業 division of knowledge」と言われる。 この著作でハイエクは、自然科学・工学の発想を社会や歴史の分析にそのまま適用しようとした、一八世紀のフランスの啓蒙主義・革命思想や、その申し子である一九世紀の「実証主義 positivism」が、社会・経済を中央でコントロールしようとする集団=集産主義(collectivism)――後にハイエクはこれを設計主義(constructivism)と呼ぶようになる――の母体になったという見方を示している。 このことは、丸山眞男(一九一四―九六)が、「日本の思想」の「無構造の伝統」と呼んでいる問題と関係しているように思われる。新旧の思想の対立・和解や、連続/断絶が意識化されることなく、いろんな思想が登場しては何となく消えていく、雑多な要素が未整理のまま混在している「日本の思想」の〝伝統〟とパラレルに、日本の法・政治制度も、本質的には、無構造的なのかもしれない。 このように考える限り、日本において制度論的な保守主義の思想を展開するのは、かなり困難な状況にあるのは確かである。福田恆存(一九一二―九四)、三島由紀夫(一九二五―七〇)、江藤淳(一九三二―九九)など、日本の論壇で代表的な保守論客と見なされる人の多くが文学者であり、経済思想を本来の専門とする西部邁(一九三九― )や佐伯啓思(一九四九― )のような人たちも、制度よりも、日本人の精神の在り方を論じることに力を入れるのは、この困難と関係しているように思われる。