論理は感情の侍女だとして,我々は何をどう生きていけば良いのか
#poem #memo
「我々の議論やアイデアや考えは,なぜいつもフワフワとしているのか?」
「フワフワとした我々は,何をどう行きていけばよいのか?」
ハイデガーが『存在と時間』で問いの重要性を指摘し,幾遍も問いの厳密化を試みたように,まずは問いの十分性を担保してみたい.
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映画を見た若者がSNSで感想を溢す ─ 「泣いた。」
滔々と持論や観察を述べるのではなく,簡単な批評を連ねるのでもなく,ただそれだけの感想しか持たない人々.こうした空疎な人間が世の中には星の数ほどいる.このふわふわとした感想が厄介なのは,これらが極めて原初的かつ強力な身体性に根ざした論であって,他人からの一切の反論を許さない点である.ある人が「あんなもので泣くわけない」と問い詰めても,落涙は事実として存在する.事実がそうなのだから,それを否定することはできない.その強力な反論不可能性が塹壕となり,感想の希薄性に対する他者からの攻撃を引き離す.あるいは人格否定という虚ろな攻撃を誘引する.感情とは決して揺らぐことのない実体(cogito ergo sum)である以上,強い反論不可能性を有する.
一方,若者とは言えない論客同士の議論が平行線を辿ることがある.論客は同じ轍を踏むまいと努め,概ね失敗に終わる.平行線を辿る過程で,激論の舌戦となることもあれば,お互いふわふわとした論を主張することもある.
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漸進主義的,あるいは少しでも漸進の性格がある行為においては,実体への接地(grounding)が肝要なのではないか,と最近気が付いた.漸進主義である科学の多くは常に,揺るぎようのない定量的結果=実体に接地し,日々何かを生み出している.コンピュータサイエンスの文脈において,ある決定論的アルゴリズムの定量結果が,東京とピッツバーグとで結果が違う,なんてことはあってはならない.すなわち,漸進主義的行為は常に,確固たる揺るぎない実体への接地を要請するのである.
一方,科学以外の大多数は(あるいは科学の一部も),実体のない仮設の何かに,見かけ上接地していることが多い.例えば,ビジネスや哲学なんかが良い例である.ビジネスでは,市場心理はこうであると仮説を立て,PoCやMVPによって仮説の立証を試みる.しかし,その市場心理が突如市場自らの手で塗り替えられることも少なくない ─ すなわち,エンドユーザ自体が潜在的な新たなニーズに”自覚”するのである.つまるところ,ビジネスは真の分布が推定不可能な形而上的概念に接地・立脚しているに過ぎない.哲学においても,仮置きの定義に接地していることが多いため,過去の理論は容赦なく薙ぎ倒され,反駁されていく.これは技術的な分解能の限界に起因しない限り,科学ではほとんど発生しない.
議論が,アイデアが,考えが,フワフワしているとき,それは「あなたの考えが何にもgroundingしていない」ことを意味する.数学には公理系がある.公理系があって定理があり,定理があって偉大的発見がある.公理が尤もらしくなければ,あらゆる定理が瓦解する.逆に言うと,あらゆる定理は公理系を起点として論を進める.Groundingとはその行為における公理系を探すことである.
こうして,冒頭に提示した第一の問いは幾分の厳密化が成される.つまり,「我々の議論やアイデアや考えは,なぜいつもフワフワしている=groundingされていないのか?」である.
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しかし,この問いも依然十分性に欠ける ─ 「何にgroundingするのか」が明瞭でないためである.では,我々は何にgroundingすればよいのだろうか?これは行為によって少々答えが変わってくる.
最近,三宅香帆の本がバズっている.「言語化ができない人間」にも2種類があり,三宅氏がスコープに扱うような類の人間と,どこかで見たような月並みな感想しか言えない人間の2タイプ存在する.前者については三宅氏の本を参照されたい.私が常々疑問に思うのは後者である.こうした後者の悩みは,先に述べた落涙の感想に関する論,およびgrouningの論と接続されうる.彼らの問題は,そうした主張が何にもgroundingされていない点である.彼らは,まず先にアプリオリな感情があって,その上で論理がある,という第一原理を想起せねばならない.論理は感情の侍女でしかない.だとすると,我々は自分自身=感情に立脚するだけで良い.感情は決して揺らぐことのない実体(cogito ergo sum)であり,我々は自分自身という実体へ接地するだけで良いのである.そのうえで,どう掘り下げて行けばよいかがわからない人は,考える武器を身に着け,Five Whys のように深く,意識の深層の方に掘り下げていけば良い,というだけの話である.
(執筆途中)
この気付きと自己成長は,仕事でも研究でも得られぬ,未踏ならではの成長であり,今後の開発者人生において重要な試金石となりうる,大変ラディカルな自己成長に繋がっていると感じる.
本プロジェクトが始まったばかりの我々は,このふわふわとしたプロジェクトがどこへ向かい,何に接地させればよいのか,日々苦悩していた.未踏性という曖昧模糊な概念へ志向・接地すればいいのか,ただ単に圧倒的結果を示せばよいのか─ 当然,漫然と自分がやりたいことをやる,というのも違う.そんな中,一貫してPM から提示されてきた「世界観」という単語,ならびに福島での作業から大きな学びを得た.すな
わち,定量的にも定性的にも目を見張る未踏性を絶対的基盤としたうえで,