最近の悩み:競争原理と牧歌性からの脱出(執筆中)
「yuwdくんは全てを競争としか見ていない.憐れだ.」
友人Aにそう言われた.精神の暗渠に投げ入れたつもりが,未だ尾を引いている.一月ほど精神の奥底へ横たわり,僕を苦しめているようである.全てを競争としか見ていない ─ 肯定する自分と否定する自分.歪な二項対立感情が僕を歪ませ,歪んだアンビバレンスが何度もこの言葉を水面へ浮上させる.(注1)
競争は大切だ,それは信念として曲がっていない(競争とは些か宗教的な観念形態である.それゆえ信念と書いた).しかし,競争と非競争の間に現存するグラデーションも同時に肝要である.憎い,二項対立を破壊したがる人間の面倒な性分が憎い.白黒で考えられれば,0-100で思考できれば,一方へ傾く思い切りがあれば,人間はどんなに楽だろうか.
ふと「シュプランガーの六類型」を思い出した.この分類型が今日の学術界にてどの程度支持されているのかは門外漢ゆえ分かりかねると共に,たった数例への写像は余りに多くを捨象するため危険ではあるものの,少なくとも,解釈が過度に癒着した自己を捕捉し直すには大変有用なツールである.
シュプランガーは、人がどの領域に文化的価値をおいているかにより、6つの類型に分類した。
理論型 - 理論が通じることや真理に価値をおく。論理的に理解することで真理を追究する。
経済型 - 金銭的・社会的地位に価値をおく。利己主義的で、経済的観点から物事を捉える。
審美型 - 美的なもの、楽しいことに価値をおく。ものごとを感情を通して考える。
宗教型 - 神を崇め、信仰に価値をおく。博愛的で、人生を見つめ、道徳的に生きようとする。
権力型 - 他人を自分の意のまま従わせることに価値をおく。権力掌握に満足感を覚える。
社会型 - 社会への奉仕活動や福祉にかかわることに価値をおき、人の役に立つ行動をとる。
なるほど,確かにシュプランガーの言う「審美型」や「理論型」ではなさそうである.シュプランガーの当初想定した本来の意味がどうであれ,敷衍すればどう転んでも僕は経済型である.資本主義的文脈から離れ,より敷衍した概念としての経済,そしてそこから物事を捉える人間.ひとまず,これを仮言的な事実として受け止め,<生存原理としての競争>を括弧に入れてみる.そうすると,僕の「経済」性はどこから来たのだろう.何が僕を経済型にさせ,競争を第一義とせしめたのか.手がかりを掴むために,今までの人生の轍を思い返してみたい.
「牧歌的時間の流れる非競争的閉鎖空間からの脱出」思い返せば,念頭にあったのは常にそれだった.九州という地理的孤立感とそれに伴う独特な牧歌性からの脱出.そこから脱するには,佐賀(厳密には当時属したコミュニティ)という非競争社会へ,過激的競争の原理を持ち込む必要があった.「牧歌性からの脱出」それが何よりの指針であり,生きる意味だった.高校生の僕は確かにレーゾンデートルを競争に見出していた.
地元を脱した今の自分はまだ競争に囚われているのか?どうやら未だそうらしい.競争の観念は今や脱牧歌性そのものからは遊離し,別の観念へと転移している ─ そして教義としての競争原理は神経症的な速度を持って加速し,僕の非競争的な部分を啄んで増殖している.
(注1):この会話は友人との精神分析的な会話に端を発したものであり,決して彼に悪意があるわけではない点に留意されたい.自分が嫌になったという感覚に近く,友人の発言で気を病んでいるわけでもなければ,友人にdisられたという感覚もない.
memo
不感症・誤った全能感
飯を食っても,食欲から湧いた短絡的な美的快感しかない
感情を観察する離人.
ビールで酩酊し,いい気になって友人Cに反出生主義について話す.「キモいし面倒くさい」
ビジョンがないことに気づく.人参をぶら下げられた馬のようにただ奔走する日常.人生どうすればいいかわからない
大学受験に失敗し,神経症的に加速していった.
肥大化する自意識.自分をどう制御すれば良いのかについて考えるのに必死だった.思考について考える日々.
コミットメントとデタッチメント
コミットメントの轍に現前する明確な壁のようなものを感じる
あるいは,エクリチュールとパロールと言い換えても良い.
競争は評価の問題である.プロセスではなく結果を誇示することによる承認欲求.肥大化した承認欲求.