さ止め、み止め、き止めをなるべく使わない
——日本の新しい世代がより良い未来を作るには何が必要?
若者が口癖のように使う『普通』。「めっちゃ好き」の意味で「普通に好き」とか。。そういった言葉のせいで、良し悪しや自己判断の主体が自分ではなくなってしまい、それが日本社会をめちゃくちゃ縛っている。それを普段の生活でちょっと意識して使わないようにするだけで結構変わることだと思う。
関連して、「良さ」「尊さ」とかのさ止め(?)、「分かりみ」などのみ止め(?)、「良き」などのき止め(?)も私は意識してなるべく使わないようにしている。もうずっと。
関連して、とか言って、これにかこつけて自分が主張したいことを思い出してぶり返しただけではある。
さ止め、み止めのなにが嫌かって言うと、moment joonさんが言及した、 良し悪しや自己判断の主体が自分ではなくなってしまい、それが日本社会をめちゃくちゃ縛っている。 という点に尽きる。日本社会をめちゃくちゃに縛っているのかはわからないけど。主体が自分から一歩引いた視点になる、自分の感情を巧妙に隠した言い方だと思う。「良いと思う(私は)」から「良さがある(わかるやつにはわかるんだじょ)」という転換、「尊い(と感じる)」から「尊み(うまみと同じ、わかるやつにはわかるやつやん?)」への転換というペテン。 良さ(goodness)とかってindividualなものでしかないはず、objectに対して各人それぞれがどう思うかでしかないでしょう、自分が抱いた感想が普遍的なものであると思える時点で飛んだ浮かれ野郎。100人いて99人が良いと感じても1人が「良いところは一個もない」と感じるなら、それに対して「良さがある」と断言できるものはないでしょ、すべての場合でfor meが省略されているのだけど、日本語はなんかしらんけどfor meを省略することによって全体主義的な空気を醸し出しやすいような気がする。