22世紀の民主主義
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成田悠輔サン、俺でも知ってる炎上した人、この本が出たのは炎上前だと思うけど、今となっては(?)帯の文言が悲しく響く。俺は(あらゆるグラデーションの中であえて言葉にして位置づけるのであれば)左翼とかリベラルみたいなラベリングに属するという自覚があるが、しかし本の冒頭で「家でカフェラテを飲みながらゲームでもしてるか、革命をするか」とか言われちゃうと、「それはラテですわ...」ってなるな。 テレビ出演やSNS(交流サイト)上の発言で注目される経済学者・データ科学者が、政治や選挙について論じた本。民主主義のルールを変える革命を考えようと呼びかける。人口に占める割合の小さい超マイノリティーの若者が選挙に行っても何も変わらない。部屋でカフェラテとゲームを楽しむ方がいい。「革命か、ラテか? 究極の選択を助けるマニュアルがこの本」だという。 「革命か、ラテか?」究極の選択ってもっと、どっちを選んでも地獄(e.g. うんこ味のカレーかカレー味のうんこか)とか、どっちも捨てがたくて選べねぇ!(e.g. ビアンカかフローラか)とかそういうイメージだけど、これはノータイムで選べちゃうから、単純にワードセンスとかユーモアが微妙みたいな感じになっちゃう。「生きるか、死ぬか?」みたいなニュアンスならわかるけど、それを究極の選択とは言わないと思う。まぁ、言葉尻とか些細なことだし、刺さる人には刺さるんだろう。「超マイノリティーの若者」のスコープから、年齢的に自分が外れてきたからかもしれないし、20代前半とかに読んだらけっこう感化されてたかも。
ノータイムでラテ、って断言できてしまうのはひょっとしたら既得権益の側に自分がいるからなのかな?と少し寝かせてから考えて冷やっとした。が、いずれにしろラテってチョイスが微妙。そもそも家でカフェラテ飲みながらゲームできる人って、コンビニやスタバまで歩いていける都会に住んでるか、家にエスプレッソマシーンあるような人でかつ、ゲームするゆったりとした時間が作れる人なわけで、庶民の生活の象徴?としてラテを持ってくるのは微妙というか、家でゲーム遊びながらカフェラテが飲めるなんて優雅な生活憧れるっしょ、それもう十分革命っしょ、っていう。
書いてあることは知らなかった事実もこれからの予想も面白い。そのうちネコが政治家になるというのは最初意味分かんなかったけど、最後には「確かに、なりそう」って思っちゃった。それはそれとして、なんか編集者なのか筆者なのかが強調したいところを太字にしたり、背景を灰色に塗ってハイライトして目立たせたり、そういうのが多用されている新書、なんか胡散臭いなという感じを受けてしまう。そっちのほうが読まれる(売れる)んだろうが。読み手を信用していない感じというか...まぁ、本の紹介からも分かる通り、下は10代後半ぐらいからの「超マイノリティーの若者」が想定読者だと思われるので、しょうがない。