写真を撮ることの解像度について
続いている。以前会社の人に「カメラどうですか?」ってきかれて、楽しすぎる、楽し過ぎて、毎日ディズニーランド行ったら1週間も経たずに飽きるに決まっているのと同様に、長く続かないと思う、的なことを言っていて、本当にそう思っていたけど、2週間以上続いている。途中飽きたりしながら、まいにち全力ではないやり方にシフトしていけているからだと思う。が、すこしはいい写真が撮れるようになるにつれて、罪深いことに、誰かにみてもらって「良い写真だね」と褒めてもらいたい欲求にかられるようになってしまった。
1週間カメラを持ち歩いて、写真を撮りまくる生活をしたがなんだかすごく良い。写真を撮る人達は今までずっとこんなに良い思いをしてたのか!と思う。夜その日撮った写真を見返して、気に入ったものを誰にも知られることのないtumblrに投稿していく時間は至福と言える。ものごとの解像度が上がるだけで今までとは全く別の新しい発明になりうる、ということを今年になってからよく考えているが( /cd/2019-01 | yuta25 )、写真を撮ることによって人生の解像度が上がったような錯覚に陥る。写真とはいわば一種のライフログである。ライフログの中でもっとも解像度の高いものは、短絡的に考えるとそれは動画である。自動車に搭載されるドライブレコーダーのように、人間に、目に映ったもの全てを録画するドライブレコーダー機能が搭載されると、それは究極のライフログとなるのか?というと、答えはノーだろう。モアいずレス!写真はその情報量の少なさこそが素晴らしさであり、ライフログであり消費されるべきコンテンツでもある。この二面性が素晴らしいと思った。他にも色々思ったことがあったりしたはずなのだが、書いてる途中に忘れた。