オリンピックはくそだった。あとキャンセルカルチャーとVAR
オリンピックはくそだったな。本当に嫌だった。スポーツは好きだけど、オリンピックがいやすぎてスポーツまで嫌いになりそうな勢いでいやだったな。なにがいやだったのか、困っている人たちが放っておかれて大金が注ぎ込まれていることとか、コロナで大変なのにとか、大義っぽいこともあるっちゃあるが、なんでしょうね、そもそもよくある感動の押し売りとか、勝手にやってろ感とか、そういうしょーもない個人的な嫌悪感みたいのがはるかに大きいですね。この世の中、競争社会という茶番、その象徴みたいな雰囲気が出てて臭すぎた。サッカーは面白かったけど。オリンピック、マイナースポーツが4年に1度注目されたり、かけがえのないイベントだと思うので、一生ギリシャでやればいいと思う。ワールドカップだって一生イギリスとかウルグアイとかでやればいいし。オリンピックがいやすぎたので自分はもう一生優勝するとかしないとか勝つとか負けるとか口にするのやめようという強い意志を抱いた。ベストエフォートで。優勝しない。 オリンピックといえば小山田圭吾。僕は「スルーして流してきた」という事象の一部であった。小山田圭吾とかrei harakamiとかolive oilとか、音を聞くだけでその人が作ったってわかる音を出す人はすごい。小山田圭吾は打ち込みもギターの音も聞けば「あっこれは小山田圭吾だな」ってわかるのがすごい。コンポーザーとしてもギタリストとしてもすごいのだ。すごいが、ダメなものはダメだし、今までただただスルーして流されてきただけだし、キャンセルカルチャーを憂う向きもあるけど、自分は小山田圭吾がオリンピックの音楽担当を辞めて本当によかったと思う。キャンセルカルチャーにはサッカーのVARとなんとなく似た印象を抱いているんだけど、過去の過ちをきちんと認められる機会が増えることは、ノリ、グルーヴ感、リズムが損なわれるものの、基本的には喜ばしいことだと考えます。キャンセルカルチャーがくそなのは、適度に目立つ人ばかりキャンセルされて、本気の悪はなぜかキャンセルされないところ。そのカルチャー自体がひどく恣意的に対象を選んでいる雰囲気がくそ。 ただのサラリーマンやフリーランスは、発言を間違えると仕事を失うけれど、そのリスクのない人達は、言いたいことを言うことができる。政治家でも大臣クラスになれば、ナチスに学べと言っても釈明するだけで問題ない。
発言だけではない。現職の大臣は脱税をしても修正申告をすれば許される。そういう世の中なのである。
少し前に、なにも持たない弱者を、それゆえに何の恐れもないとして「無敵の人」と表現するのが流行った。しかし本当の「無敵の人」は、言うまでもなく強者なのである。
はっきり言って、昨今のキャンセル・カルチャーは格差社会の裏返しになっている。
とりとめもなくなんとなく正義感っぽい雰囲気のことをつらつらと書いてしまったが、そういう気分にさせる、考えるだけでこういうことを書かせてしまうので本当にオリンピックはくそでした(Q.E.D)