虚無と、自由と、意志とに就いて(畢竟)
橘榛名ta haruna.icon
第一部 虚無の部 火星連邦市民 彁川暃の場合
僕は、火星の篦州市で生まれた。火星政府の推進する人口増加政策の一環として、遺伝子調整を受け人工子宮の中で育てられた子供達が、毎年何千人も生まれる。その大勢の中の一人として誕生したのが、僕だった。
誕生がこんな具合だったから、その後も推して知るべしだった。僕は、沢山の「兄弟姉妹」達と一緒に「国家の須要に応ずる為に」育てられた。
「先生」達は、それは幸福な事なのだ、と教えた。地球には百億人も人が住んでいるが、その九割以上は、愚かで貧しく堕落した親に育てられ、愚かで貧しく堕落した人間になる。火星の科学技術によって優れた才能を持って生まれ、火星の国家予算によって何不自由無い生活を送り、火星の教育機関によって高度な知識を身に付ける事が出来る事の、何と幸福な事か。君達はその恩に報いなくてはならない、と。
多くの「兄弟姉妹」は、その言を疑っていない様だったが、僕には、とても耐え難い事だった。なるほど、彼等の御蔭で、僕は多くの事を学ぶ事が出来た。だが、その学びは僕に、僕が「自由な一個人」であるという事を気付かせて呉れた。何故、自分の人生を国家の為に費やさなくてはならないのか。僕は、自分自身の人生を、自由な意志で選択していく事が出来るし、そうしたいし、そうせねばならない。僕は、中等学校を卒業する頃には、そう思う様になった。
一旦こういった考えを持つと、それまでの僕の生い立ちと現在が、酷く暗澹たる物の様に見えてきた。僕自身が「国家の須要に応ずる為に製産されたモノ」であるという事実は覆し様がなかった。周囲の誰もが、自分の全てを火星の栄光の為に献げる積もりでいて、その為なら(火星連邦国歌に歌われている様に)草生す屍になっても構わないと思っていて、そう思わない僕を非難した。
僕は、高等学校の途中で、養育施設を離れ、自分で生計を立てる事にした。とにかく、恩を売られ続け、未来を決定され続ける生活から、逃れたかった。火星では、教育は無償という事になっていたので、働いて生活費を稼ぎながら、大学に進む事にした。一人で暮らす様になると、これまでの過干渉は噓の様に無くなった。こんなに簡単な事だったのかと、気が抜けた様な気分だった。アルバイトを掛け持って月に七百火星円も稼げば、住む所と食べる物には困らない。僕は、とても充実した時間を過す事が出来た。自分の意志で、自分の選んだ仕事をして、自分の意志で学び、自分の選んだ未来に向かって努力する。僕は、その時、やっと幸福になれた気がした。
翌年の末、僕は火星で最も権威ある大学、高天原大学の文学部に入学した。学生の中では、結構優秀な部類に入っていたと思う。僕は記憶力が良かったので、語学系の科目は得意だった。だが、入学して十二箇月もすると、だんだんと、自分は未だに以前の暗澹の中から抜け出せてはいないと、思う様になった。
僕が学業で良好な成績を修めていられるのは、結局、政府によって記憶力や思考力に秀でる様に遺伝子を調整されたからに過ぎない、という考えが頭をよぎった時、僕は、結局僕の心は「この国」という幻想に呪縛されたままだという事に気付いてしまった。つまり、僕が自由とか意志とかいった物に価値を見出したのも、僕の周りを囲んでいた「この国」に反抗する事に、自分の安住の地を見出したからに過ぎず、それは僕の周りの人達が「この国」に依存する事に安住の地を見出していた事の裏返しに他ならない、という事であった。
僕は、本当に自由になるにはどうすればよいのか、色々考えた。その過程で、僕は、ガルデア帝国の首都星「ミェーグ・ア (ミェーガ・ア)」に行こうと思い立ったのだった。 ガルデア人は、今から一世紀程前に、太陽系外から突如として現れ、それ以来「慈悲深き征服者にして観察者」として全人類の上に君臨し続けている、大変に高度な文明を持った異星人である。太陽系には当時から火星連邦を始めとする幾つもの国々があったが、ガルデア人は、圧倒的な軍事力と技術力を背景に、太陽系人類の全ての国々に服従を誓わせ、全ての政府を監督下に置いた。ただし、監督下に置くといっても、太陽系人が各惑星圏外を自由に旅行する事を禁止しただけだった。火星の高天原市の宇宙港からは、地球の各軌道塔や月の広寒府、木星圏諸国へ向かう便は出ているものの、一般人の移動は火星連邦政府によって厳しい統制を受けている。勿論、太陽系の外へ向かう便は一本も無い。これはガルデア人が、太陽系人類の持つ文化と他の星の人類の文化とが混淆する事を嫌っているからだと言われている。彼等は、多くの技術や資源を太陽系にもたらして呉れたが、彼等が支配していると自称する二百以上の人類文明の文化や、彼等自身の文化について、多くを語ろうとしなかった。太陽系人類は、異星人とのファーストコンタクトにあたって、ガルデア人が全く文化について語ろうとしない事に驚いた。ガルデア人は、とかく、文化の混淆を嫌っているようだった。
太陽系人が太陽系の外の文化に触れる方法は唯一つ、ガルデア人によって、直接ミェーグ・アに招かれる以外には無かった。実際、幾人もの人が、彼等に招かれてミェーグ・アを訪れていた。しかし、そこで触れた文物について詳細に記述した本を出版したり、講演したりする事を、ガルデア人は禁止した。禁制を破った者がどうなるかについて、彼等は明言しなかったが、拉致されて帰ってこられなくなるとも、その場で殺されるとも噂されていた。そういう訳で、ガルデア人の文化については、出所の不確かな噂ばかりが流れる事になった。観光や貿易、技術の教授等の為に太陽系を訪れるガルデア人は結構な人数いたのだが、彼等の文化について訊ねられると、皆一様に口を閉ざした。
噂の中でも比較的確かな物として、ガルデア人は『姉』とよばれる何者かを信仰しているらしい事、文化の混淆を嫌がる一方で自分達はあらゆる文化を享受して楽しんでいるらしい事、彼等は誰一人労働せずに気儘な生活を謳歌しているらしい事、等があった。また、少なくとも、彼等は太陽系を遙かに陵駕する科学技術を持っている事は確かなので、彼等の生活も、太陽系人の生活よりも遙かに進歩した、幸福な物なのであろうと言われていた。
僕は、ガルデア人達は僕達よりももっと「自由な」生活を送っているに違いないと思った。しかし、その事を確認したり、或いは、彼等がその自由を如何にして手に入れたのかについて知るには、彼等の星に行くしかない。かくして僕は、ガルデア人達が一体どんな人達で、どんな生活を送っているのか、どうしても知りたいと思うに至った。
僕はあらゆる手を尽くした。太陽系を訪れるガルデア人は、それなりの数いる事は確かだ。その中の誰かに、その知り合いの太陽系人を通じて、渡航を頼み込む事が出来ればいい。大学の教授達や、国会議員、火星連邦天上自衛隊、連邦外務省等、思いつく限りの人々に手紙を出し、また、直接頼み込んで回った。しかし、誰に聞いても、ガルデア人の知り合い等いないと断られるか、全く無視されるかだった。連邦防衛省から連絡を受けたのは、何箇月も経って、半ば諦めかけていた所だった。太陽系人の長期滞在を引き受けて呉れるガルデア人が見つかったので、手続きに来て欲しいと聞いて、僕は嬉しさの余り手が震え、端末を落としてしまった程だった。
一旦渡航が決まると、その後はひどく慌ただしかった。各種の検査、休学申請、荷物の整理、等々。二週間後、僕は高天原宇宙港からの特別便で天上自衛隊のダイモス基地についた。そこで交通艇に乗り換えて、ダイモス基地の上空に浮かぶ、ガルデアの宇宙旅客貨物艦に乗り込むのだ。基地から見上げる宇宙艦は、これまでに見た太陽系のどの宇宙艦よりも大きく、僕は圧倒されてしまった。これに乗って、僕は、百年間誰も知らないままの、僕達の支配者の星へ行くのだ、と、僕は改めて感慨にひたっていた。
交通艇の発着所に立って窓の外を眺めていると、長い廊下の向こうから、六人もの護衛に囲まれて、一人の女性が、こちらに歩いてきた。彼女は、見た目には殆ど太陽系人と変わり無い様に見えた。背丈は五尺(百五十センチ)弱で、僕よりも頭一つ程小さい。白と薄紫を基調とした、ふんわりした長衣を纏っている。ストレートの黒髪が腰まで伸びていて、一見すると東洋系の顔立ち。服装も相俟ってまるで天人か何かの様にも見える。違う所といえば、鮮やかな紫色の瞳と、手の指が一本多い事ぐらい。
「彁川暃さん、ですね。」
僕は、初めて直接にガルデア人を見た。
「はい。」
「どうも初めまして。今日から、暃さんを案内する事になりました、シャハス・セールミェーグです。以後宜しく。」
彼女は、実に流暢な日本語でそういうと、ぺこりと頭を下げた。僕も会釈を返す。
「宜しく御願いします。」
声が震えているのが自分でも判った。
「そんなに改まらないで下さい。私は、未だ十火星年程しか生きてませんから、あなたとそれ程違わないんです。さ、行きましょう。」
シャハスはそういうと、その六本指の手を、差し出した。僕は、その手を取らなくてはならないような気がして、気付くと、その手を取っていた。そのまま手を引かれて、僕達は交通艇に乗り込んだ。シャハスの掌は、すこしひやりとしていて、しかし、柔らかかった。
十分も経たない内に、僕達はさっきまで見ていた宇宙旅客貨物艦の中にいた。護衛がついてくるのはここまでらしく、彼等は交通艇に乗ったまま、基地へ帰っていった。
船室に向かう昇降機の辺りで、僕達を待っている人が一人いた。彼女もガルデア人なのだろうか。シャハスと違って、黒い髪をおかっぱ頭にしている。瞳の色は漆黒。日本人の様な茶色ではなく、本当に黒。そして、黒地に濃紫のラインが入った、動きやすそうな、簡易な服を着ている。
「お帰りなさいませ。シャハス様。」
「ただいま。アエデーア。」
シャハスはこちらを振り向いて、彼女を僕に紹介して呉れた。
「紹介しますね。こちらはシク・ガーシュのアエデーア。何か困った事があったら、彼女に言いつけて下さい。」
「シク・ガーシュ?」
そこだけガルデア語で発音されていたが、初めて聞く単語だったので、意味が取れなかった。機械の民族、と言った程度の意味だろうか。
「御存知ありませんでしたか。シク・ガーシュ。機械民族、機族。機族はガルデア人に奉仕する為に産み出された存在です。」 「それは、機械なんですか? ヒトなんですか?」
アエデーアが代わりに答えた。
「機族は機族でございます。ヒトでも機械でもなく。」 僕は何だか釈然としなかったが、その事に就いて、ここで深く掘り下げる気にはならなかった。
「アエデーア、こちらが彁川暃さん。」
「アエデーアと申します。御用があれば、なんなりと。」
アエデーアは、恭しく一礼した。
それからの艦内生活は、ごく快適だった。食べ物は、日本風の物と、何だか良くわからない物があったが、どれも美味しかった。強いて言えば、天井が低くて圧迫感がある所が難点だったろうか。
「窮屈でしょうが、ちゃんと理由があるんです。」
その時僕とシャハスは、大きな窓のそばに設えられたテーブルの隣り合った席で、大きく青い見知らぬ惑星を眺めながら、アエデーアが注いで呉れた、温かくて奇妙な味のする飲み物を飲んでいた。
「真空の宇宙空間では、ヒトが居住できる空間は、とても貴重なんです。私達ガルデア人は、長年に渡る遺伝子操作で自分達の体格をコンパクトにしたんです。暃さんみたいに背の高いヒトは、ガルデア人には殆どいませんよ。」
「遺伝子プールを操作しているんですか。」
「そうです。太陽系でも、別段珍しい事ではないでしょう。」
「……。」
僕は、これまでに幾度も辿った思考を、辿り直していた。僕が応えあぐねている間、シャハスは、器を両手でもって、その飲み物を二口程啜った。
「……私達は、おんなじ生まれなんです。親からではなく、誰かの作為によって、人工の細胞から生まれた、という意味で。私達は、よりよく生きる為に、手段を選びませんから。」
僕は心を見透かされた様な気がした。シャハスは、僕の方に向き直ると、僕の目をじっと見て、徐ろに続けた。
「……でも、それは、どうでも良い事だと、思いませんか。」
「どうして。」
「だって、どう生まれた所で『自分の意志に従って』生まれてくるわけじゃない事は、みんな同じでしょう。自分の誕生は、きっと、自分の人生の内に入らないんですよ。私は、そう思います。」
僕には、シャハスの言っている事が、とても新鮮に感じられた。僕の周りに、そういう事を言う人は、かつてなかったのではないか。僕は、シャハスとなら、もっと色々な事を話し合えるのではないかと、そんな期待を抱いた。
「……僕は、自分が何の為に生まれたのか、何の為に死ねばいいのか、わからないんです。」
シャハスは、一瞬怪訝そうな顔をした。
「今から行く所では、何かの為に『生まれる』事も、何かの為に『死ぬ』事も無くて、そこに生きる人は、そう、自分が何の為に『生きる』か、それを何にも縛られずに選ぶ事が出来る、そんな世界なんです、私達の世界は。」
シャハスの言葉には、強い確信が込められていた。
「そんな事が、可能なんですか。」
そういう物を、人類は、楽園とか理想郷等と称してきた。
「そういう世界を、私は、暃さんに見て欲しいんです。その為に、ここにいるんです、私は。」
僕達は、その後いくつかの星系を経由して、太陽系から三万光年の彼方にあるミェーグ・アに到着した。
ミェーグ・アの宇宙港は、殆ど一個の都市が宇宙に浮かんでいる様な巨大な物だった。軌道塔から地上に降りて行く昇降機の窓から見下ろすと、見渡す限り、更に大規模な都市が広がっていた。都市以外の領域も、ヒトの手が加えられたと一目でわかる幾何学的な地形に占められていた。
「楽園へようこそ、暃さん。ここが、私達の都です。」
彼女の言う通り、確かに、この都市は楽園の様だった。
その日から、僕は、シャハスとアエデーアの家に置いて貰う事になった。
僕は、ガルデア人の世界について「学びに」来た積もりだったので、シャハスが僕を色々な所に連れ出したがるのは、好都合な事だった。シャハスは、僕の質問に叮嚀に応えて呉れた。一方で、アエデーアは本当に寡黙だったが。
僕は、シャハスとアエデーアと暮らしている内に、火星にいては解らなかった多くの事を知る事が出来た。
どうやら、ガルデア人は通貨という概念を持っていないらしい。シャハス曰く、ガルデア人の日常の行動は、全てニト・カズマという巨大制御系に集計され、それを元にシミュレーションをして、社会全体の流通を制御し商品の需給バランスを調整しているのだそうだ。これを、予定調和システムという。機族達は、皆ニト・カズマの指示に従って働いているのだとも聞いた。そう、この星では、機族と機械があらゆる労役をこなしているので、ガルデア人には労働する必要が無いのだ。「勿論、趣味で労働する事は出来ます。野菜の栽培や、工芸品の制作などです。」と、アエデーアは補足して呉れた。ニト・カズマが作られてから八百万年もの時が経過し、ガルデアの歷史は、ほとんど止まってしまったかの様に思われた。本当に、平和その物で、ごくささやかな不幸な出来事さえも、ニト・カズマによって事前に予知され、回避する事が出来るとも聞かされた。また、ガルデアのみならず、彼等が支配している数多の星々の文化も、学ぶ事が出来た。これは、彼等の言う通り、全くの趣味だった。何故なら、その学びを故郷の人に伝える事は、禁じられていたからだ。しかし、それでも、ここでの生活は、とても穏やかで、そして、幸福なものだった。ガルデア人の帝国こそ、文明の完成された姿と言っても良い、と、僕は思った。 そうこうしている内に、当初予定していた滞在期間は、あっという間に過ぎてしまった。僕は、この星を去り、元の火星に戻らねばならない。僕とシャハスは、帰りの宇宙艦の出港を翌日に控えて、軌道塔を登った。軌道塔の上から、僕は、大きな展望窓の下に広がった、ミェーグ・アの街並みを眺めた。
「暃さん、本当に、明日、火星に帰ってしまうんですね。」
シャハスが訊ねた。僕としても、この星を去るのは、残念だった。
「短い間でしたけど、僕は、」
そこまで言いかけた所で、シャハスに遮られた。
「あの、もし良かったらですけど。」
僕は、シャハスの方を振り向いた。
「私と、ずっと、この星で暮らしませんか。」
僕は、驚きのあまり、返す言葉が思い浮かばなかった。僕は、火星人であるこの僕が、この星に永住出来るなどとは、これっぽっちも思っていなかった。勿論、それだけではない。シャハスが、ずっと僕に寄せて呉れていた好意を、今まで気付かずにいたという事に、僕は衝撃を受けていた。いや、薄々気付いてはいたのかも知れない。この星はいつか去る星、という事に固執する余り、それを今まで無視していたのだ。僕は、火星に帰らねばならない理由が、シャハスの言葉の前には全く空虚な物である事に気付いた。僕の心は決まった。
「火星には、帰らない。」
シャハスは、出会った時の様に、僕に手を差し出した。
「帰りましょう。私達の星に。」
僕は、その手を取った。シャハスの掌は、すこしひやりとしていて、しかし、柔らかかった。
僕は、ついに、自分の中にあったしがらみから解放された様な気がした。僕は、何かの為に生まれたわけでも、何かの為に死なねばならないわけでもない者として、唯、シャハスの為に生きる事が出来るし、そうしようと思った。僕とシャハスとの幸福な生活は、しかし、私が思っていた程には、長く続かなかったのだった。
或る日訪れた配給所での事。シャハスは、ニト・カズマによる予定調和システムが働いているから、配給所では何でも好きな物を望みのままに持って行って構わない、と言っていた筈だった。その日僕は、ふと思いついて、棚に一つだけ残っていた蜜柑めいた果物を、もって行こうとした。すると、シャハスは僕を制止して、果物を取ると、棚に戻し、それとは別の果物を籠に入れたのだった。その時は、特に気にしていなかったが、家に帰った後、あの果物は嫌いだったのか、それとも他に何か理由があったのか訊ねてみた所、シャハスは、その事を全く覚えていない、と言った。 この出来事は、僕の心に、ある一つの疑念をもたらした。この疑念は、ゆっくりと、だが確実に、僕の心を覆っていった。それは、ニト・カズマが、いかにしてこの楽園を維持しているのか、に関する疑念であった。機族達がニト・カズマの命令に服する事を幸福と感じる様にあらかじめ設計されている様に、ガルデア人達の思考と精神も、ニト・カズマによる監視下にあるばかりではなく制御下にあるのではないか。だとしたら、機族とガルデア人達との間に、どんな差があるというのか。 アエデーア本人に聞いてみた所、機族とは、ヒトの脳を再現した有機演算装置、要するに脳、を機械の体に搭載した物である事を教えて呉れた。そして、その脳は予め、ガルデア人に奉仕する事を最大の幸福と感ずる様にリプログラムされていて、脳電子インターフェイスを通じて、ニト・カズマによって常に監督、制御されている事、脳を自在に制御する技術は、機族のみならずガルデア人達にも応用されているという事も教えて呉れた。 僕は、何だか恐ろしくなって来た。ガルデア人は、ヒトの脳を操作して、その意識を自在に変容しうる技術を持っている。白いものを黒いと言わせ、苦痛を幸福と思わせる技術を。ただ持っているだけならなんとも無いのだが、ガルデア人達はその技術を日常的に使用しているのだ。そして、ニト・カズマ。ガルデア人達は、この社会の基盤たる存在を信仰しているといっても良いぐらいだ。だが、その信頼自体も、ニト・カズマとやらによって強制されていないと、誰が言えるだろうか? 僕は、最早こう考えるしかなかった。シャハス達ガルデア人もまた、機族達と同じ様に、意志を制御されているのではないか。自由意志を持たない、傀儡に過ぎないのではないか。 その日僕達は、いつもの様にシャハスの家にいた。僕はテーブルで、何か林檎めいた果実の皮を剥いていた。シャハスは僕が剥いた果実を食べていて、アエデーアは部屋にいなかった。僕は、前々から気になっていた事を、シャハスに訊いて見る事にした。
「教えて欲しい事があるんだけど。」
「どんな事?」
「予定調和に就いて。」
「予定調和は私達の社会の基盤。その果実は、私が欲しいと思ったから、私の所に届いたの。」
「それ。そこがおかしいと思ったんだよ。」
「どういう事かしら?」
「君が欲しいと思ったから、君の所に届いたんじゃない。その果実が君の所に届く事になったから、君はその果実が欲しくなる様に仕向けられたんだ。予定調和ってのは、実はそういう風に働く物なんじゃないのかい?」
シャハスは沈黙した。
「配給所に、必要最低限の品物しか置かれていないのは、その品物が誰に配られるか、予め全部決まってるからだ。皆が自由な意志に従って品物を受け取るのなら、配給所には品物を山の様に置かなくちゃならない。」
「……そうね。」
「君は昔、自分達がより良く生きる為には、手段を厭わないって、言ったよね。若しかして、自由意志の抛棄も、その手段の内に入るの?」
「それは違うわね。」
「どう違うのさ。」
「よく聴いてね。私の意志も、貴方の意志も、神経系の化学的な演算によって規定されているの。そういった演算の一部は、私達の意識とは全く無関係に動作しつつも、現に私達の意識を支配している。御姉様は、もっと心の奥深く、全く意識されない領域に働きかけて、私達が皆、日々を幸福に生きられる様にして下さる。心の欲する所に従っても、矩を踰えずに生きていける様に導いて下さる。」
「それは結局意志の抛棄じゃないか。」
僕の悪い予感は最悪の形で証明されてしまった。ガルデア人達の精神は、ニト・カズマによって監視されているだけではない、制御されているのだ。結局の所、シャハスというヒトは、ニト・カズマによって用意された一つの虚構に過ぎなかったのだ。ひいては、ガルデア帝国もまた、壮大な人形劇の舞台そのものであったという事でもある。 僕は、足元が崩落して行く様な感覚に襲われた。目の前の何者かが、何かひどく冒涜的でおぞましい物の様に感じられた。
「君はずっと僕を騙していたんだ、傀儡である事を隠してた。」
「違う、御姉様は、」
「煩い!」
僕は、思わず立ち上がった。手には、未だ果物小刀を持っていた。
シャハスは、二秒間程唖然としていたが、すぐに、声ならぬ声を上げて後ろに飛退いた。飛退く方向が悪く、シャハスは部屋の隅の方に追い遣られる格好になった。
「アァ、アセーダ、アセーダヤット、ヤト、ヤッジェ、」
僕を落ち着けようとしているのだろうか。自分が落ち着いた方が良いと思う。ガルデア語に戻っている。面白い。僕もガルデア語で言う事にしよう。自由無きガルデア人が、決して口にする事の無い動詞だ。
「セーニュ!」
僕は、果物小刀を振り上げ、シャハスの頸部の根元目掛けて振り下ろそうとした。
そこで、僕の意識は途絶えた。
■■■
第二部 自由の部 ガルデア人 シャハス・セールミェーグの場合
私は、ガルデア帝国の首都星「ミェーグ・ア」の第五十四生誕施設で生を享けた。私には、多くの姉妹達と、それから大きな御姉様とよばれる、「ニト・カズマ」さまがいた。御姉様は、姿は見えないけれど、時々心の中に話しかけて来て、私が如何に生きて行くべきか、教えて呉れた。 「ニト・カズマ」は、世の人々を生きる苦しみから解放する事を目的として、科学者達の手によって、地球年換算で八百万年前に創られた、壮大な世界管理システムであり、またその核となった一人の少女の名でもあった。創られて以来、御姉様は、あらゆる人のあらゆる経験を、脳電子インターフェイスと情報ネットワークを通じて収集している。その膨大な経験を元に、全てのガルデア人の人生をシミュレートし、あらゆる人に的確なアドバイスを下さり賜うのだ。帝国の経済も、御姉様の計画に従って運営されている。予定調和経済システムは、御姉様の演算処理能力によって、需要と供給を絶妙に調整する事と、御姉様に従う数多くの機族達の労働力によって成立している。 ガルデア人は、銀河全体に支配を広げる過程で、余りに多くの文化を蒐集しすぎた為に、自分達に固有の文化と言える物の多くを失ってしまったので、各個人がどの様に生きるかは、純粋に趣味の問題だった。養育所にいる間に私は、ガルデア帝国が支配する様々な文明の文化に触れる事が出来た。中でも、太陽系の東洋といわれる地域の文化は、私にとって特別なものとなった。私は日本語、北京語、広東語、朝鮮語、ベトナム語、サンスクリット語等を学び、数多くの物語や紀行文、その他諸々を読み漁った。
養育所を卒業する時、私は自分の為に一人の機族を手に入れた。私はその機族を、アエデーアと名付けた。私は大勢でいるのがあまり得意な方ではなかったので、卒業後はアエデーアと二人で暮らす事を選んだ。時々、東洋趣味の人達の集まりに参加したりもしたし、何度かは、実際に支那や日本や火星へ観光旅行に出かけた事もあった。私は、おおむね幸福だったが、どことなく、物足りない物を感じていた。 私は、東洋の多くの物語に語られ、詩に詠われたる所の、『恋』に恋する様になっていたのだ、と思う。文字通りの「男女の仲」といわれる様な物は、ガルデア帝国においては、数百万年前に失われてしまっていた。何となれば、ガルデア人の男性は絶滅してしまったからだ。何故絶滅してしまったのか、その理由は解らなかった。御姉様の遠大にして精妙な計画は、私達の与り知る所ではなかった。アエデーアは、ガルデア人以外の人間と親密な関係に成る事は御姉様のシミュレーションに桁違いの不確定要素をもたらすので推奨しません、とか何とか言っていたが、私は気に掛けなかった。その不確定要素を楽しむ話をしているのだ。
或る時、何度目かの火星旅行の途中で、ミェーグ・アに行きたいという火星人の話を聞いた。私は、深く考えずに二つ返事で彼の滞在を引き受ける事にした。私は、きっと御姉様が私の夢想を読み取って、それを現実にするチャンスを与えて下さったのだ、と思った。
思えば、私達ガルデア人は、銀河中の諸文明の文化を享受しながら、その支配する諸文明には、自分達の文化も他の文明の文化も殆ど与えて来なかった。単純な話、文化が混淆してしまうのが嫌だったのだ。珍しい生態系を持つ島に、外来種を持ち込まないようにするのと同じ話だ。だが、相手も私達と同じ考えるヒトなのだとすれば、未知の文化に触れたいという欲求も良くわかる。
ダイモス基地にいる間に、私は、彼、彁川暃という人に関する情報を色々と教えて貰う事ができた。なので、私は、交通艇の発着所にたたずむ太陽系人を見て取った瞬間、すぐに彼だと判った。
「彁川暃さん、ですね。」
私は、慣れ親しんだ日本語で話しかけた。もしかすると、火星人より日本語は上手いかもしれない。そのぐらい自信があった。
「はい。」
「どうも初めまして。今日から、暃さんを案内する事になりました、シャハス・セールミェーグです。以後宜しく。」
私が会釈すると、暃も返して呉れた。
「宜しく御願いします。」
初めて会う異星人を前にして戸惑っているのだろう事が見て取れた。
「そんなに改まらないで下さい。私は、未だ十火星年程しか生きてませんから、あなたとそれ程違わないんです。さ、行きましょう。」
私は、暃に手を差し伸べた。暃が手を取って呉れるかどうか判らなかったが、彼は、手を取って呉れた。
その後、船室に行く途中で、アエデーアと再会した。火星旅行の間、艦で留守番させていたのだった。
「お帰りなさいませ。シャハス様。」
「ただいま。アエデーア。」
私は、暃の方を振り向いて、彼女を紹介した。
「紹介しますね。こちらはシク・ガーシュのアエデーア。何か困った事があったら、彼女に言いつけて下さい。」
「シク・ガーシュ?」
どうやら、暃は機族という物を知らない様だった。暃は、私達の日常生活に就いて、何の知識も無いのだろう。無理も無い事ではある。私達が、私達の日常に就いて何も語って来なかったのだから。 「御存知ありませんでしたか。シク・ガーシュ。機械民族、機族。機族はガルデア人に奉仕する為に産み出された存在です。」 「それは、機械なんですか? ヒトなんですか?」
難しい質問だ。暃が、どういう意味で「機械」と「ヒト」という言葉を区別しているか、私にはわからなかった。
アエデーアが代わりに答えて呉れた。
「機族は機族でございます。ヒトでも機械でもなく。」 上手い答えだ、と思った。私達の文明の根幹を成す制度である所の、御姉様による「予定調和システム」と、機族の存在に就いて、今一度に教えてしまうと、私達の文明に就いて、あらぬ誤解を招きかねない。尤も、暃は腑に落ちないとでも言いたげな雰囲気だったが。 「アエデーア、こちらが彁川暃さん。」
「アエデーアと申します。御用があれば、なんなりと。」
アエデーアは、恭しく一礼した。
ミェーグ・アに着くまでの十日余りは、行きの時とさほど変わらず、特筆すべき事は無かった。艦内の食堂で、暃は、太陽系の物以外に様々な文明の料理を食べてみていたが、一応彼の舌には合っていた様で、安心した。
惑星セルアムを眺めながら、アエデーアの淹れたセラミヤ茶を飲んでいた時に、天井の低さについての話題が出た。この艦はガルデア人の為に設計された物なので、太陽系人の暃は天井に頭が届きそうだった。
「窮屈でしょうが、ちゃんと理由があるんです。」
理由があっても圧迫感が軽くなる訳ではないが、「説明する事」は、私が引き受けた重要な仕事の一つだと、私は考えていた。
「真空の宇宙空間では、ヒトが居住できる空間は、とても貴重なんです。私達ガルデア人は、長年に渡る遺伝子操作で、自分達の体格をコンパクトにしたんです。暃さんみたいに背の高いヒトは、ガルデア人には殆どいませんよ。」
「遺伝子プールを操作しているんですか。」
「そうです。太陽系でも、別段珍しい事ではないでしょう。」
「……。」
調査資料によると、暃は、自分の出自について、余り良く思っていないようだった。暃は、火星にガルデア人がもたらした技術によって生まれたのだ。つまり、私をこの世に存在せしめるに到ったのと同じ技術で。ガルデア人にとっては、ごく当たり前の事でも、彼等にとってはまだ珍しい事。暃のわだかまりを解くには、どうしたらいいのだろう。私は、器を両手でもって、セラミヤ茶を二口程啜った。ほろ苦くて、ほのかに潮の味がする。巧く言う方法は解らないけど、考えるままに、話してみる事にした。そうする事は同時に、不確定な未来の甘美を味わう事でもある。
「……私達は、おんなじ生まれなんです。親からではなく、誰かの作為によって、人工の細胞から生まれた、という意味で。私達は、よりよく生きる為に、手段を選びませんから。」
暃は、少しく驚いた様に見えた。私は、ゆっくりと、言葉を継いだ。
「……でも、それは、どうでも良い事だと、思いませんか。」
「どうして。」
「だって、どう生まれた所で『自分の意志に従って』生まれてくるわけじゃない事は、みんな同じでしょう。自分の誕生は、きっと、自分の人生の内に入らないんですよ。私は、そう思います。」
暃は、しばらく何か思案していた様だった。
「……僕は、自分が何の為に生まれたのか、何の為に死ねばいいのか、わからないんです。」
火星人らしい問だな、と思った。火星政府は、我々の監督下にあるのに、一体何と戦っているのだろう。まあ、そうするのが彼等の文化だというならそうなんだろう。だが、暃は、その文化の故に苦しんでいる。そして、私は、暃をそこから救い出す事が出来る。嗚呼、御姉様に、この巡り合わせを感謝したい。
「今から行く所では、何かの為に『生まれる』事も、何かの為に『死ぬ』事も無くて、そこに生きる人は、そう、自分が何の為に『生きる』か、それを何にも縛られずに選ぶ事が出来る、そんな世界なんです、私達の世界は。」
「そんな事が、可能なんですか。」
「そういう世界を、私は、暃さんに見て欲しいんです。その為に、ここにいるんです、私は。」
私達は、その後いくつかの星系を経由して、我が懐かしの故郷たる、惑星ミェーグ・アに到着した。
軌道塔を下る昇降機の窓からは、見慣れた街並みが見える。銀河に冠たる都、御姉様の創り賜うた楽土である。
「楽園へようこそ、暃さん。ここが、私達の都です。」
その日から、私とアエデーアと暃の三人の生活が始まった。
私は、 暃を連れて、都のあちこちを案内して回った。
銀河一の資料数を誇る大統合図書館、様々な惑星から採取してきた植物を一堂に会した両銀河植物園、銀河中の数千の文化圏から数十万種もの料理を提供する大食堂、その他にも、趣味を同じくする人の集まりや、唯の散歩にも連れて行った。
私は暃の質問に、出来るだけ応える様にした。私達の経済が、御姉様による予定調和システムに則っている事、機族達は予定調和を実現する為に働いている事、機族達にとってはそれが幸福なのだという事、御姉様の御蔭で、私達の身に降りかかる不幸は、どれも事前に回避しうるという事や、みんなが満ち足りているので歷史の流れさえも無いのだという事を、説明した。 暃は、この星での生活に満足している様で、私は嬉しかった。しかし、暃が火星に帰る日が少しずつ近づいてくる中で、私は、彼をこの星に引き留められるだけの何事をも、伝えられずにいた。
そうこうしている内に、当初予定していた滞在期間は、あっという間に過ぎてしまった。暃は、この星を去り、元の火星に戻らねばならない。帰りの宇宙艦の出港を翌日に控えて、暃と私は、軌道塔を登った。暃は、大きな展望窓の下に広がった、ミェーグ・アの街並みを眺めていた。
「暃さん。」
これが最後の機会だと思って、私は、暃に話しかけた。
「本当に、明日、火星に帰ってしまうんですね。」
しばしの静寂。
「短い間でしたけど、僕は、」
私は、最後まで言葉を待てなかった。
「あの、もし良かったらですけど。」
暃が、私の方を振り向いた。
「私と、ずっと、この星で暮らしませんか。」
暃は、かなり驚いた様だった。私にこんな事を言われるとは、思っても見なかったのだろう。暃はしばらく考えていたが、やがて、ゆっくりと言った。
「火星には、帰らない。」
私は、出会った時の様に、暃に手を差し伸べた。
「帰りましょう。私達の星に。」
彼は、手を取って呉れた。
私は、暃を、彼のわだかまりの中から救い出す事が出来た。そして、長年の夢を叶える事が出来た。私は、心の底から、御姉様と運命に感謝した。私と暃との幸福な生活は、しかし、私が思っていた程には、長く続かなかったのだった。
或る日、配給所で食べ物を幾らか貰って帰って来た時の事。暃は、私に「あの果物は、嫌いだったの?」と問うた。私は、暃がどの果物の話をしているのか解らなかった。私が聞き返すと「配給所で僕が手渡したのに、棚に戻してしまった果物」の事だと言う。私は、彼から受け取ったレトレスの実は、そのまま籠に入れたし、現にここにある事を、籠からレトレスの実を取り出して示した。彼は、腑に落ちない様子であったが、思うに、只の記憶違いだろう。
あの日、私達は、いつもの様に私の家にいた。暃はテーブルで、ケテルの皮を剥いていた。私は暃が剥いたケテルを食べていて、アエデーアは部屋にいなかった。ケテルは、良く熟れていて、甘かった。
「教えて欲しい事があるんだけど。」
暃が沈黙を破った。
「どんな事?」
「予定調和に就いて。」
予定調和に就いては、何度か説明した筈だ。……婉曲にではあるが。
「予定調和は私達の社会の基盤。その果実は、私が欲しいと思ったから、私の所に届いたの。」
「それ。そこがおかしいと思ったんだよ。」
「どういう事かしら?」
暃は続けた。
「君が欲しいと思ったから、君の所に届いたんじゃない。その果実が君の所に届く事になったから、君はその果実が欲しくなる様に仕向けられたんだ。予定調和ってのは、実はそういう風に働く物なんじゃないのかい?」
実際の所、まさにその通りだ。予定調和経済を実現するには、供給を調整するだけでは駄目で、需要の方も或る程度調整しなくてはならない。
「配給所に、必要最低限の品物しか置かれていないのは、その品物が誰に配られるか、予め全部決まってるからだ。皆が自由な意志に従って品物を受け取るのなら、配給所には品物を山の様に置かなくちゃならない。」
「……そうね。」
「君は昔、自分達がより良く生きる為には、手段を厭わないって、言ったよね。若しかして、自由意志の抛棄も、その手段の内に入るの?」
「それは違うわね。」
「どう違うのさ。」
「よく聴いてね。私の意志も、貴方の意志も、神経系の化学的な演算によって規定されているの。そういった演算の一部は、私達の意識とは全く無関係に動作しつつも、現に私達の意識を支配している。御姉様は、もっと心の奥深く、全く意識されない領域に働きかけて、私達が皆、日々を幸福に生きられる様にして下さる。心の欲する所に従っても、矩を踰えずに生きていける様に導いて下さるの。」
「それは結局意志の抛棄じゃないか。」
暃が激しく苛立って、今にも怒りが爆発しそうになっている事はわかったが、彼がどうして腹を立てているのか、わからなかった。
「君はずっと僕を騙していたんだ、傀儡である事を隠してた。」
「違う、御姉様は、」
「煩い!」
暃は、突然に立ち上がった。
私は、一瞬何が起こったのかわからなかった。が、すぐに、彼の手に握られていた果物小刀が、まっすぐこちらを向いているのが見えた。
私には、とっさに立って、飛退くのが精一杯だった。
暃が迫って来る。後ろは壁だ。どうにか、どうにか彼の気を落ち着けなくては。だが、私は全く動転してしまっていて、もう日本語が出て来なかった。
「アァ、アセーダ、アセーダヤット、ヤト、ヤッジェ、」
御願いだから、それを離して、と言う積もりだった。
駄目だ。聞こえてない。彼はもう目の前にいる。アエデーアを呼ぼうとしたが、もう声が出て来なかった。もう駄目だ。
暃は、小刀を高く振りかざした。
私は、目の前が真っ暗になった。
気が付いた時、私は寝室の布団の中にいた。傍で、アエデーアが鎮座していた。
「気が付きましたね。」
いったい何があったのだろう。あれは悪い夢だったのだろうか。
「暃さんは?」
「暃さんは、精神に不調をきたしてしまいましたので、医療機族に任せ、火星に御帰り戴きました。」 「そう、それは残念だわ。」
あれは夢ではなかったのだ。彼は一体どうしてしまったのだろう。何が彼を狂気に導いたのだろう。
「余り気を落とさないでくださいませ。諸人類の精神は、ガルデア人の精神とは違って脆弱で、変調し易い物です。」
アエデーアは、彼女が剥いたケテルを一切れ、差し出した。私は、それを取って、一口齧った。
ケテルは、甘かった。
■■■
私が初めて意識を持ったのは、もう何百年も前の事だ。
私は、ガルデア帝国の首都星「ミェーグ・ア」の、第十七機族生産調整所で製造された。最初に起動された時点で、私の脳には様々な記憶や、感覚、情報が、予め与えられていた。存在理由も、自己同一性も、運命も、幸福も、全てが、ガルデアの統合者にして全一者である「ニト・カズマ」、或いはより親しみを込めて「御姉様」と呼ばれる存在によって保障されていた。 私は或る人の幸福の為に造られ、私が仕えるその人の人生を、より満ち足りた物とする為に働くのだという事が、目が覚めたばかりの私の心を満たした。それは、幸福なことだった。
私が仕えた何人目かの主人が、シャハス様だった。
シャハス様は、太陽系人類の文化を殊の外好まれる方で、家にいる間はずっと太陽系の諸言語で書かれた本を読んでいらっしゃった。それだけなら、他のガルデア人にも珍しい事ではないのだが、シャハス様の普通と違う所は、実際に太陽系まで出掛けて行きたがる所だった。
御姉様の保護が十全に得られるのは、首都星「ミェーグ・ア」を始めとする帝国直轄領星に限られる。それ以外の惑星では、シミュレーション上の不確定要素が多すぎる為、ガルデア人の滞在は制限されている。以前は、制限は非常に厳しく、ガルデア以外の人類文明が存在する惑星では、その軌道上に入る事さえも、例外無く禁止されていた。
今からおよそ百年程前、御姉様の大々的な方針転換があり、諸文明はガルデアの直接統治下に置かれる事になり、同時に、極々例外的ながらガルデア人の諸文明訪問も認められるようになった。
シャハス様は、この「例外」に認定されたので、私はシャハス様と一緒に幾度か太陽系を訪れた。御姉様は、このような非ガルデア人との交流は、ガルデア全体の安定を脅かす物として、余り良く思ってはいらっしゃらないようだった。非ガルデア人との交流を許可するのは、ガルデア全体の「経験」の収集の為の一時的な実験である、というのが、御姉様の意図する所であった。
御姉様は、ガルデア全体、そして一人一人のガルデア人が、より良く存在できる様に、あらゆる事を予想なさっている。そして、私達機族を通じて、その御意志を実現なさる。もちろん、御姉様は、ガルデア人の心の中に語りかけられる事もあるが、しかし、その意図なさる所の遠大な計画を、直接示して下さるのは、我々機族に対してだけなのだ。 何度目かの太陽系訪問の時の事だった。御姉様が私に語りかけられた。御姉様は、シャハス様の太陽系への執着が、修正を必要とするレベルにまで強まり過ぎている、修正のために、シャハス様には「破局」を用意せねばならない、と仰った。
太陽系に対する幻滅を投与する事によって、より安定した状態にせねばならない、という事だ。
好きであれ嫌いであれ、精神の極端な傾斜は、良からざる傾向とされていた。ガルデア人がガルデア人に憎しみを抱く事は、ガルデアの破壊に繋がりうるので回避されねばならない。ガルデア人が非ガルデア文明を愛しすぎれば、その人は御姉様の監理できる領域から出て行こうとするかもしれない。出て行けば、その人の幸福は最早保障できない。ゆえに、これも回避されねばならない。
シャハス様は、太陽系を愛しすぎていた。精神を傷つけてでも、目を逸らさせねばならない。
一人の火星人の青年が、シャハス様に投与される破局の種として選ばれた。ガルデアに強い期待と恐れを抱いている事。思い込みの激しい事。精神の激しやすい事。猜疑心の強い事。破局の種として申し分ない。
そして、火星を離れる日。御姉様の計画された通りに、シャハス様が彁川さんを伴ってお帰りになった。
「お帰りなさいませ。シャハス様。」
「ただいま。アエデーア。」
シャハス様は、彁川さんの方を振り向いて、私を紹介した。
「紹介しますね。こちらはシク・ガーシュのアエデーア。何か困った事があったら、彼女に言いつけて下さい。」
「シク・ガーシュ?」
「御存知ありませんでしたか。シク・ガーシュ。機械民族、機族。機族はガルデア人に奉仕する為に産み出された存在です。」 「それは、機械なんですか? ヒトなんですか?」
彁川さんは自覚していない様だったが、彼の「機械」という言葉には、自ら物を思わない存在に対する強い憎しみが感ぜられた。成程、我々の体は精巧な機械の組み合わせで出来ているが、機族は「自ら物を思う」存在である。彼のいう「機械」にはあたらない。私は「機械」呼ばわりされた事に憤慨していた。 シャハス様に代って私が答えた。
「機族は機族でございます。ヒトでも機械でもなく。」 彁川さんは、何だか腑に落ちないという顔をしていた。それで良い。
「アエデーア、こちらが彁川暃さん。」
「アエデーアと申します。御用があれば、なんなりと。」
ミェーグ・アに着くまでの十日余りは、行きの時とさほど変わらず、特筆すべき事は無かった。艦内の食堂で、彁川さんは、太陽系の物以外に様々な文明の料理を食べていた。
お二人が、惑星セルアムを眺めながら、私の淹れたセラミヤ茶を飲んでいた時に、天井の低さについての話題が出た。この艦はガルデア人の為に設計された物なので、太陽系人の彁川さんは天井に頭が届きそうだった。
「窮屈でしょうが、ちゃんと理由があるんです。」
シャハス様は、「説明する事」を、シャハス様の引き受けた重要な仕事の一つだと考えていらっしゃる様だった。
「真空の宇宙空間では、ヒトが居住できる空間は、とても貴重なんです。私達ガルデア人は、長年に渡る遺伝子操作で、自分達の体格をコンパクトにしたんです。暃さんみたいに背の高いヒトは、ガルデア人には殆どいませんよ。」
「遺伝子プールを操作しているんですか。」
「そうです。太陽系でも、別段珍しい事ではないでしょう。」
「……。」
しばしの沈黙。
「……私達は、おんなじ生まれなんです。親からではなく、誰かの作為によって、人工の細胞から生まれた、という意味で。私達は、よりよく生きる為に、手段を選びませんから。」
彁川さんは、少しく驚いた様に見えた。シャハス様は、ゆっくりと、言葉を継いだ。
「……でも、それは、どうでも良い事だと、思いませんか。」
「どうして。」
「だって、どう生まれた所で『自分の意志に従って』生まれてくるわけじゃない事は、みんな同じでしょう。自分の誕生は、きっと、自分の人生の内に入らないんですよ。私は、そう思います。」
彁川さんは、しばらく何か思案していた様だった。
「……僕は、自分が何の為に生まれたのか、何の為に死ねばいいのか、わからないんです。」
空虚な問だ。その彼の内なる虚無は、精神の不安定を産む。精神の不安定は、予定された破局の重要な一因である。
シャハス様が応えた。
「今から行く所では、何かの為に『生まれる』事も、何かの為に『死ぬ』事も無くて、そこに生きる人は、そう、自分が何の為に『生きる』か、それを何にも縛られずに選ぶ事が出来る、そんな世界なんです、私達の世界は。」
「そんな事が、可能なんですか。」
「そういう世界を、私は、暃さんに見て欲しいんです。その為に、ここにいるんです、私は。」
私達は、その後いくつかの星系を経由して、惑星ミェーグ・アに到着した。
軌道塔を下る昇降機の窓からは、見慣れた街並みが見える。銀河に冠たる都、御姉様の創り賜うた楽土である。
「楽園へようこそ、暃さん。ここが、私達の都です。」
シャハス様は、彁川さんに、そう言った。
その日から、私とシャハス様と彁川さんの三人の生活が始まった。
私は、シャハス様が彁川さんを連れて、都のあちこちを案内して回る間、二人にずっと同行していた。
銀河一の資料数を誇る大統合図書館、様々な惑星から採取してきた植物を一堂に会した両銀河植物園、銀河中の数千の文化圏から数十万種もの料理を提供する大食堂、その他にも、趣味を同じくする人の集まりや、唯の散歩にも、私はシャハス様の影の如く、付いて行った。
シャハス様は彁川さんの質問に、出来るだけ応える様にしていらっしゃった。ガルデアの経済が、御姉様による予定調和システムに則っている事、機族達は予定調和を実現する為に働いている事、機族達にとってはそれが幸福なのだという事、御姉様の御蔭で、ガルデア人の身に降りかかる不幸は、どれも事前に回避しうるという事や、みんなが満ち足りているので歷史の流れさえも無いのだという事を、シャハス様は説明された。 シャハス様の説明する内容は、彁川さんの期待を裏切らぬ様、奇妙にフィルタリングされていた。御姉様による誘導の結果だ。「破局」を用意するには、まず「関係」を用意せねばならない。「関係」が深ければ深い程、「破局」もまた強力な影響力を持つのだ。
当初予定されていた滞在期間が過ぎるまでの間に、「関係」の醸造を充分に成功させる事が出来た。明日の宇宙艦で、彁川さんは、この星を去り、元の火星に戻らねばならない事になっている。しかし、それを額面通りに信じているのはお二人だけだ。帰りの宇宙艦の出港を翌日に控えて、彁川さんとシャハス様は、軌道塔を登る昇降機にお乗りになったが、私は地上でお二人を待った。御姉様は、二人ともここに戻って来ると、予め定めていらっしゃったのだ。私は、御姉様を信じて待った。翌々日、御姉様が予定された通り、お二人は連れだってお戻りになった。
しばらくは、三人の幸福な生活があるだろう。だが、それは予定された「破局」の為に用意されているに過ぎない。私がそれをもたらす事が、シャハス様とガルデア全体の真の幸福の為になるのだと、御姉様が仰った。
およそ人と人との関係性という物は、ごくささやかな切っ掛けで、変化してしまう物だ。「信頼は築くのは難しいが、崩れるのはあっという間」などと言う人がいるが、半分誤っている。適切な環境からの刺激があれば、築くのも、あっという間だ。尤も、私の仕事は、あの日から、二人の関係を崩す側に回ったわけだが。簡単な仕事だ。疑問の種を植え付ければ、後は御姉様がちゃんと育てて下さる。
或る日、配給所で食べ物を幾らか貰って帰って来た時の事。彁川さんは、シャハス様に「あの果物は、嫌いだったの?」と問うた。シャハス様は、彁川さんがどの果物の話をしているのか解らないようだった。果物を取り替えた事は、シャハス様にとっては、記憶に値しない些細な行動だった。だがそれは、私が、シャハス様がマルダよりはレトレスを食べたく成る様に、何日も掛けて少しずつ適切な振る舞いを積み重ねた結果だ。感覚されるあらゆる情報は、全く無関係そうな事柄同士でさえ、脳内で結び付いて思わぬ行動の変化をもたらす。そう言った現象を、残らずシミュレートした御姉様は、私がいかに行動すべきかを、指先の曲げ伸ばし到るまで、教えて下さった。結果私の行動は、シャハス様をして、果物を無意識に交換せしめた。シャハス様の行動は、彁川さんの心内に、僅かの疑問を残した。
ある時、彁川さんが、本当の所、機族とはどの様な存在なのか、詳しく教えて欲しい、と、言ってきた。着実に、疑いが育ちつつあるようだ。私は、機族とは、ヒトの脳を再現した有機演算装置、要するに脳を、機械の体に搭載した物である事を教えた。そして、その脳は予め、ガルデア人に奉仕する事を最大の幸福と感ずる様にリプログラムされていて、脳電子インターフェイスを通じて、御姉様によって常に監督、制御されている事、脳を自在に制御する技術は、機族のみならずガルデア人達にも応用されているという事も教えた。 彁川さんは、機族を、人よりは機械人形に近い物と思っている様だった。彼が信じていたガルデア人も、私と似た様な存在なのだと仄めかせば、あとは、彁川さんが黙って考えている内に、彼の心はシャハス様への疑いに満たされていく事だろう。予定された日は、確実に迫りつつあった。 その日、私達は、いつもの様にシャハス様の家にいた。彁川さんはテーブルで、ケテルの皮を剥いていた。シャハス様は彁川さんが剥いたケテルを食べていた。私はというと、隣の部屋で、来るべき「破局」に備えていた。御姉様は、予定された破局が今日訪れる、と仰っていた。私は、二人の様子に、感覚を集中させていた。隣の部屋にいても、機族である私は、家中に張り巡らされたセンサーやカメラを通じて、二人の状況や心的衝動を観測する事が出来た。 彁川さんが沈黙を破った。
「教えて欲しい事があるんだけど。」
「どんな事?」
「予定調和に就いて。」
彁川さんは、自らの妄想した理想郷とガルデア帝国とを重ね合わせた上で、ガルデア帝国が、その架空の理想郷よりはディストピアに近かったといって、勝手に絶望しているのだ。
「予定調和は私達の社会の基盤。その果実は、私が欲しいと思ったから、私の所に届いたの。」
「それ。そこがおかしいと思ったんだよ。」
「どういう事かしら?」
彁川さんは続けた。
「君が欲しいと思ったから、君の所に届いたんじゃない。その果実が君の所に届く事になったから、君はその果実が欲しくなる様に仕向けられたんだ。予定調和ってのは、実はそういう風に働く物なんじゃないのかい?」
実際の所、まさにその通りだ。予定調和経済を実現するには、供給を調整するだけでは駄目で、需要の方も或る程度調整しなくてはならない。
「配給所に、必要最低限の品物しか置かれていないのは、その品物が誰に配られるか、予め全部決まってるからだ。皆が自由な意志に従って品物を受け取るのなら、配給所には品物を山の様に置かなくちゃならない。」
「……そうね。」
実際の所、それは誤りだ。現に、全てのガルデア人と機族は、自分の望んだ物を受け取っているし、同時に、配給所にある品物は、どれも、誰によって選ばれるか予定されている。人の意志は、様々な外的要因から、決して自由ではない。その事を以て、自由意志を否定するのは、短絡である。 「君は昔、自分達がより良く生きる為には、手段を厭わないって、言ったよね。若しかして、自由意志の抛棄も、その手段の内に入るの?」
「それは違うわね。」
「どう違うのさ。」
「よく聴いてね。私の意志も、貴方の意志も、神経系の化学的な演算によって規定されているの。そういった演算の一部は、私達の意識とは全く無関係に動作しつつも、現に私達の意識を支配している。御姉様は、もっと心の奥深く、全く意識されない領域に働きかけて、私達が皆、日々を幸福に生きられる様にして下さる。心の欲する所に従っても、矩を踰えずに生きていける様に導いて下さるの。」
余り巧い説明とは言えない。彁川さんの感情の振れが、一気に激化していく。破局のシークエンスはすでに開始されている様だ。否、合ったその時から、この破局は予定されていたのだから、シークエンスはその時点で開始されていたのだった。
「それは結局意志の抛棄じゃないか。」
「君はずっと僕を騙していたんだ、傀儡である事を隠してた。」
「違う、御姉様は、」
「煩い!」
彁川さんは、突然に立ち上がった。彼の手には、果物小刀が握られている。シャハス様を護らなくては、と、思ったが、体が動かなかった。
〈未だです……。もう少し待って……。〉
御姉様の声が聞こえた。
立って飛退いたシャハス様に、彁川さんが迫って行く。後ろは壁だ。シャハス様は全く動転してしまっていて、もう日本語が出て来なかった。
「アァ、アセーダ、アセーダヤット、ヤト、ヤッジェ、」
シャハス様の懇願も、今や彁川さんには聞こえてない。早く、早く止めなくては、でも、未だ体は動かない。一瞬の内に、幾度もシミュレートするが、彁川さんの生存を保ったまま制止できる確率はどんどんゼロに近付いていく。ゼロになった。未だなのか。
〈未だです……。未だ閾値に達していない……。〉
彁川さんは、小刀を高く振りかざしていく。
「セーニュ!」
未だなのか。
〈未だです……。もう少し……。〉
振りかざされた小刀の上昇速度がゼロになり、下降に転じた。
〈良し。〉
扉が開かれた。内蔵されている慣性制御系をほぼ最大出力で駆動し、一気に加速する。体当たりする体勢で、そのまま肩から彁川さんの上半身に衝突する。衝突の強い反動を肩に感じる。次の瞬間、彁川さんの胸郭は潰れ始めた。肋骨が砕片になっていく。肺の組織がはじける。頭部を除く上半身が一気に動いた為に、頸椎も次々に壊れていく。慣性制御系を逆転させると、直ぐに、彁川さんの全身は宙を舞い始め、ほぼ回転せず、直線軌道を描いて部屋の反対側の壁にぶちあたった。はなはだ頑丈な壁に衝突した彁川さんの頭部と胸郭と骨盤は、直ぐに原形を失った。私が静止した時には、彁川さんは壁にへばりついた何だか良くわからない物になっていた。一秒程の間の事だった。
シャハス様は、意識を失って後ろに倒れた。
五秒後に、三人の管理機族が、部屋に入ってきた。二人は、直ぐに片付けを始めた。一人は、私に、御姉様が用意されていたシャハス様の服の替えを渡すと、何も言わずに片付けに取り掛かった。 私はシャハス様を抱えて浴室に入り、飛び散った血液や色々な何かで汚れてしまった服を脱がせ、体を拭った。倒れた時に打った箇所を検めたが、特に怪我や痣は見られなかった。御姉様が、倒れ方まで考えて下さった御蔭であろう。私はシャハス様に新しい服を着せ、寝室の布団に横たえた。
かくて破局は成立した。シャハス様の未来は、大幅に書き換えられる事になるだろう。それは、シャハス様にとっても、そして、ガルデア全体にとっても、幸福な事に違いない。御姉様の指示する所は、全て、ガルデアの幸福の為にあるのだから。
シャハス様が目を覚ましたのは翌朝、破局の衝撃が脳に定着した事が確認された後になってからだった。
「気が付きましたね。」
記憶の定着の為、脳にかなりの負担が掛っていたからか、シャハス様はまだ朦朧としていらっしゃる様だった。
「暃さんは?」
「彁川さんは、精神に不調をきたしてしまいましたので、医療機族に任せ、火星に御帰り戴きました。」 嘘だ。彁川さんは死んだ。私が殺したのだ。かつて彁川さんだったものは、管理機族が回収して持って行ってしまった。今頃は有機物転換炉に投ぜられて、植物工場の栄養液にでもなっているだろうか。 「そう、それは残念だわ。」
「余り気を落とさないでくださいませ。諸人類の精神は、ガルデア人の精神とは違って脆弱で、変調し易い物です。」
これは本当だ。特に、彁川さんの精神は、破滅的に変調する事を期待されていたのだ。そして、全ては成就された。御姉様の御心のままに。
私は、ケテルを一切れ剥いて、シャハス様に差し出した。シャハス様は、それを取って、一口齧られた。
御姉様の御意志によって用意されたケテルが、甘くない筈がない。
【了】
これどういふ立場(と云ふ事に成ってゐる)の人間が書いた文章なのかne-sachirou.icon
作品内小説ではなく兩河世界を俯瞰できる基底現實の橘榛名が書いた事に成ると思ta_haruna.icon