イリア戰記Ⅰ
東方世界は、戦乱の中にある。
内海の東に浮かぶ小王国の王位継承権問題に端を発し、東方世界の諸国は、カトリルイシス国 kAtoriruixis 率いる家督を母から娘へと継承する国々と、タールアカナ国 tAruakana 率いる家督を父から息子へと継承する国々とに分かれ、二十年以上に亙って争い合っている。 北方民族諸邦は、多くの都市国家が女系継承文化圏に属していた為、内海中央のカトリルイシス国に物資や技術を提供していたが、此を討伐する為、タールアカナ国は北大陸のタンドラ湖周辺地域に攻め寄せ、同地の北方民族の諸都市を蹂躙した。
イリアは、其の驚異的な記憶力で、見る見る内に天文学の知識を吸収し、数年程で、神官達の中でも大変な秀才として知られる様に成った。
イリア、十四歳の夏。
真夜中の黒く透き通った天球から、赤い月の不安げな光が、ジャカーノルアハトの街と神域に降り注いでいる。
長く盛大な夏至祭も終り、ジャカーノルアハトにも日常の色が戻りつつあった。家々の窓や商人の店に飾られていた太陽餠は、既に人々の胃の中に消え、広場の一角に植えられたリヨントーニの木も、今や其の薄紫の花は無く、青々とした葉を一面に茂らせている。 一方で、神官寮の中では、多くの神官見習達が落ち着かない日々を過ごしていた。毎年恒例の、神官叙任式が間近に迫っているのだ。多くの神官見習の中から、充分な能力を有すると認められた者だけが、正式に一人前の神官として認められ、其の部門を象徴する色、即ち、神祇は白、文官は黒、武官は赤の神官服と、カトリルイシス国の紋章が刻まれた頸飾を贈られる儀式である。
其の夜も、下四位読星官見習イリアは、毎晩の様に月と惑星の配座を記録し、客星の無い事を確かめると、師範や同窓達と、其の夜の星辰の位置が地上に齎す影響に就いて論じた。
其の夜の直が解かれた後、観測塔の長い階段を下り、寮の部屋へと戻る途中、イリアは不意に呼び止められた。振り返ると、其処には見知らぬ神官が立っていた。闇に紛れて顔は良く判らないが、黒い神官服の色と、其の襟に入れられた緑の帯の数から、黒月の大神官配下の高位の神官であることが判る。
「イリア・下四位読星官見習だね?」
黒衣の神官は、周囲に聞こえる事を懼れるかの様に、か細い声で尋ねた。
自然、イリアも少々声を落として応えた。
「はい、そうです。」
「宜しい。人事院に、君を連れて来る様にと命ぜられている。私に付いて来なさい。」
黒衣の神官は、イリアの返事を待たずに歩き出した。イリアは、黙って其の後に付いて行った。
歩き乍、イリアは人事院が自分を呼び出した理由に就いて、思いを巡らせていた。
実の所イリアには、可也明瞭な心当たりがあった。二月ほど前、白月神官団が開催した、正式な読星官に成る為の考査の終了後、他部門の神官に成る為の考査も受けさせて貰っていたのだ。読星官の仕事が無い昼間の内に頻繁に通っていた書写院の院長が、イリアの向学心に惚れ込み、黒月神官団の開く考査も受けられる様、取り計らって呉れたのだった。
此は、白月神官団には知らせずに行われた。実は各神官団は其程仲が良くなく、今回の事も、自分の団に属する者を、他の団が青田刈りしようとしているという事が知れでもしたら、余り宜しくない事に成るであろう、という「配慮」からであったが、どの道叙任の段階で露見する以上、問題化は避けようが無かった。
イリア達は、神域の中央近く、ジャカーノルアハト大書院に着いた。イリアは、書物を読み漁る為に此処にはよく来ていたが、此処の門の脇に、「三神官団人事院」の文字が刻まれた小さな看板が貼り付けられている事には、今まで気付いていなかった。
人事院は、ジャカーノルアハト大書院の地下にあった。ジャカーノルアハト大書院には、世界中から蒐集せられた古今東西の写本や図譜、何より重要な事には、カトリルイシス国の神官団が数百年に亙って記録し続けた天体の運行に関する記録が納められていた。中でも重要な物は、変質や虫害などで失われない様、石板や金属板に彫り刻まれ、書院の地下深くに安置される。人事院が此の様な場所に置かれたのは、彼らの扱う人事に関する情報が、此等の彫り刻まれた情報と同じ位重要であり、また秘匿せられるべき物であると、彼らが考えたからであろう。
大書院の奥の、余り目立たない階段を下り、長い廊下を行った先に、確かに、人事院を象徴する三つ月と瞳を組み合わせた紋章が記された扉があった。
此処に至る迄、一度も眼を合わせる事の無かった黒衣の神官は、漸くイリアの方を振り向いた。
「中から呼ばれる迄、暫く此処で待っていなさい。」
そう言うと、またしてもイリアの返事を待たずに、滑り込む様に扉の中へと消えて了った。
其から暫くの間、確かにイリアは待たされた。だが、其の「暫く」は、イリアには永遠の如く思われた。イリアの心中に、幾つもの突拍子も無い憶測や不安が明滅した。果たして人事官達は、下っ端の見習神官を直々に呼び出して、何をする積りなのだろう。複数部門の考査を受けたのは、矢張り軽率に過ぎたのではないだろうか。ひょっとすると、神官を馘にされてしまうかも知れない。今思えば、誘われたからとは言え、他部門の考査を受ける等、師や同窓に対して著しく礼を失する行為であったと謂える。若しも此処を追い出されたら?
イリアは気付いた。イリアには、他の多くの同窓達と違って、最早帰るべき故郷も家族も無い。其の事を、神域での生活に慣れ切って了っていたので、今此の時迄忘れていた。此処を失えば、イリアは此の広い世界の中で、天涯孤独の身の上なのだ。
孤独と云う言葉の響きと共に、イリアの脳裏に嘗ての記憶が蘇り始めた。天を焦がす様に立ち籠める炎と煙。大気中に満ちる、人を焼く臭い。人々の声の輻輳。泣く聲、叫ぶ声。剣戟の響き。異様な装束を身に纏った男達の群れ。喊声。異国の言葉。振りかざされた刃。そして、奇妙な格好で投げ出された肉塊。血。目の前に横たわる其は……。
イリアの髪から、汗の雫がぽつりと落ちた。
「イリア。」
我に返ると、イリアは人事院の扉の前に立っていた。扉は開いていて、例の黒衣の神官が、こちらを見ている。イリアは、慌てて額の汗を拭った。
「どうしたね?」
「いえ、何でもありません。」
「さあ。入りなさい。」
「はい。」
扉の奥は意外と広く、幾つもの机、椅子、書物棚、燭台が並べられていた。燭台のぼんやりとした光に照らされた奥に、一際立派な机が三つあり、内、中央と右側の机の椅子に、白い服と黒い服を着た神官が二人、座っていた。人事院の長達だ。
「イリア下四位読星官見習を、連れて参りました。」
イリアは、おずおずと人事院長達の前に進み出、正式の作法に則り、胸元に手を当てて深々と頭を垂れた。
白衣の院長が、口を開いた。
「さて、イリア。早速用件に移ろう。此の度、我々人事院は、君に関して、未だ前例の無い二つの決定を下すに至った。」
白衣の院長は、机の下から幾枚かの文書を取り出した。
「一つ目は、考査の結果を、叙任式以前に本人に通達する事。本来、人事に関する情報は、定められた日付迄は決して口外しては成らない物なのだが、君の場合、少々常とは事情が異なるのでね。予め知って置いて貰いたい。」
黒衣の院長が、後に続いた。
「二つ目。寧ろ此方が本題だ。君には、君自身がした事の責任を取って貰わねば成らない。」
イリアは、掌に汗が滲むのを感じた。
一瞬の間。
「君に、同時に二つの役職を与える事に成った。叙任式以降、君は上四位読星官と、権下四位巡察官見習を兼任する。」
「権下四位、ですか?」
カトリルイシスの神官は、基本的に八つの階級に分けられている。大神官に当る上一位に始まり、下一位、上二位と下って、下四位が見習である。権下四位と云う階級は、聞いた事が無かった。
「然様。権下四位。ごんの、即ち、仮に其の位を与える。君は本来白月神官団に属するのだから、考査を通過した以上、正式に上四位読星官とする事には、何の問題も無い。」
白衣の院長が、持っていた書類を机の上に広げた。其は、イリアの書いた考査の答案だった。
「君の答案には、非の打ち所が無い。斯様な才能の持ち主を、抛って置くとしたら、其は我々白月神官団に取って大きな損失だ。」
「一方で、此方でも、」
黒衣の院長も、書類を取り出した。矢張り、イリアの答案だった。
「大変優秀な成績を収めている。我々黒月神官団としても、君は是非欲しい人材だ。いや、斯様な成績を収めた上で、君が叙任を辞退するとしたら、寧ろ黒月神官団に対する侮辱と取られても可笑しくはない。しかし。しかしだ。君は未だ一日も、黒月神官団で修練を積んではいない。故に我々は、君を正式に神官とする訳には行かない、と云う事に成る。」
「要するに、苦肉の策なのだよ。」
白衣の院長が、口を挟んだ。黒衣の院長が続ける。
「然様。権下四位巡察官見習と云うのは、幾重もの妥協の産物なのだよ。先ず以て、権下四位と云う位階。のみならず、巡察官見習と云うのも、此亦中途半端な役職に成って了った。巡察官とは、地方を巡って其の地域の司法や徴税が正しく機能しているかを監察する役職故に、本来は律法神官や財務神官を或程度務めた人間が就くべき地位で、最低位でも下三位相当の役職だ。飽く迄見習として下四位、其も仮の位に置くものの、実際上は上四位相当官と成る。」
イリアはずっと説明を聞いていたが、正直な所、直ぐには理解できず、きょとんとして了った。
「まあ、君がする仕事が、実際どの様な物に成るかは、叙任式後に学んで呉れ給え。今晩の所は、もう帰って宜しい。」
「はい。有難う御座いました。」
イリアは再び深く礼をしてから、踵を巡らし、人事院を後にした。 寮の部屋に戻ると、相部屋の先輩、スヮティアが待っていた。イリアとスヮティアは、イリアが神官見習に成った直後から、ずっと同じ部屋で暮らしている。
「今日はどうしたの? 大分遅かったじゃない。」
「えーと、窮理学の事で、解らない事があったから、同窓達で話し合ってたんです。其だけ。」
「成程ね。ま、勉強し過ぎで体を壊さない様にね。」
「はい、解ってます。一応。」
「ならば良し。」
スヮティアは、机の上の燭台を取り、燈りを吹き消した。
「それじゃ、御休みー。」
「御休み。」
イリアは寝台に身を埋めたものの、其の夜は殆ど寝付けなかった。
数日後。
其の日は良く晴れていて、ジャカーノルアハトには、真夏の日差しが燦々と降り注いでいた。
見習神官達と一部の関係神官は、鼎月の神殿に集められ、神官叙任式が開催せられた。イリアの同窓達からも、其処其処の人数が、白い神官服と頸飾とを贈られていた。
「ハミュルファリア・イリア。前へ。」
イリアの番が廻って来た。
周囲の視線が、一斉にイリアに集まる。背中に視線達が突き刺さる様に感じられた。
イリアは、背筋を伸ばして、神官達の前に進み出た。
「ハミュルファリア・イリア。汝を、上四位読星官、兼、権下四位巡察官見習に任ずる。」
壇上の神官が、頸飾と共に、白と黒の二着の神官服をイリアに手渡すと、神殿の中にざわめきが広がった。イリアが元の場所に下がっても、暫くはざわめきの止む事は無かった。
叙任式が終った後、部屋に戻ろうとしていたイリアを、スヮティアが呼び止めた。
「ねえ、イリア、あれは、其の、どう云う事なの?」
「あれって?」
「あれよ、黒い方の神官服。」
「ああ、あれは……。」
イリアは少し考えた。叙任式は、もう終わった。今なら、事の次第を話しても大丈夫だろう。
「実は、私、皆には内緒って条件で、黒月神官団の考査も受けさせて貰ったんです。」
「成程。其で、見事合格して了ったと。」
「はい……。」
「そう。でもさ、折角特例を認めて貰った訳でしょ。此の儘行ける所迄行って見なさいよ。私、応援してるからさ。」
「……ホントですか? 嬉しいです! 私、きっとやり遂げて見せます!」
「急にやる気に成ったね。まあ、うんと学ぶといいさ。」
イリアとスヮティアが寮に戻ってくると、何処かで見覚えのある黒衣の神官が、寮の前で待っていた。
「どうも。また御会いしたわね。」
「あなたは先日私を迎えに来て下さった人事官の方ですね。」
「半分合っているが、半分誤っている。私は、人事官ではない。私は、下二位巡察官ニルリク・ファネティア。イリア、君を指導してやる様にと、人事院から仰せつかっている。以後宜しく。」
「はい。宜しく御願いします。」
ファネティアは、スヮティアの方に向き直った。
「イリアを少々御借りしても宜しいかしら? 巡察官の仕事に就いて、幾つか説明しようと思うのだけど。」
「あ、はい、どうぞ。」
「では、イリア。早速、其の黒神官服に着替えて来なさい。今日から巡察官の一人として振舞って貰うから、其の積りで。」
「分りました。」
イリアは、素早く部屋に駆け込み、今日貰ったばかりの黒衣に袖を通した。同じく今日貰ったばかりの頸飾を掛けると、イリアは暫しの間、其を身に付けている自分を眺めて、微笑んだ。中途半端で曖昧な地位とはいえ、遂に、イリアは神官になったのだ。頸飾のずしりとした重量感も、誇らしく思えた。
文房具の入った巾着を腰に付けると、イリアは再びファネティアの所に戻った。
「さて、要するに、巡察官の仕事と云うのは、都から離れた所に迄カトリルイシス国の法と秩序が行き渡る様に、監察する事。地方で税金が適正に使われているかとか、地方官僚の勤務状況とかを調べて、中央に報告するのが、私達の役目。と、云う訳で。」
ファネティアはイリアの目を見て言った。
「私達は、地方へ出張する事に成りました。」
「何所へ、ですか?」
「五日後、タンドラ湖周辺地域に向けて派遣される遠征軍の、従軍神官団の一員として、同軍の出納管理及び兵糧の管理調達を行います。」
「えっと、期間は、どの位……。」
「短くとも一年。恐らく一年と数箇月、と謂った所かしら。」
「一年……ですか。」
「そ。一年。」
イリアは、一瞬くらりとした。神官に成って一番最初の仕事が、一年間の戦地派遣とは、思っても見なかった。
しかし、カトリルイシス国は今正に戦時下にあるのだ。イリアも亦、神々と国家に仕える者として、従軍の義務を負っていた。
「五日の間に、遠征軍の派遣に向けた準備を全て終え、同時に、君自身の出立の準備も終える事。宜しい?」
「……分りました。」
其の日の午後は、ファネティアの後に付いて、遠征軍の兵站に関わる彼方此方の部署を訪れ、夜中に寮の部屋に戻った頃には、すっかりへとへとに成っていた。イリアは、部屋に戻るなり、神官服を脱いで寝台に倒れ込んだ。スヮティアは、書き物の手を止め燈りを消すと、イリアの横に腰掛け、心配そうにイリアを覗き込んだ。
「先輩……。」
「どうしたの?」
「私、今度の遠征に付いて行くことに成ったんです……。一年程、タンドラ湖の辺り迄……。」
「今一番戦が激しい辺りじゃない。」
「先輩、私、不安なんです。若しかしたら、帰って、来れないんじゃないかって。」
「……。」
スヮティアは、黙ってイリアを抱き寄せた。
「大丈夫。イリアなら絶対帰って来れる。私、信じてるから。」
「先輩……、私は……。」
イリアは、スヮティアをひしと抱き返した。
其の晩二人は、互いの息遣いと体温を感じ合い乍寝た。
五日後の朝。
カトリルイシス国北方遠征軍の出征の日である。
ジャカーノルアハトの大通りの沿道には、多くの人が、見送りに来ていた。イリアは、兵糧を運ぶ荷車の上に便乗していた。因みに荷車を牽いているのは、駝鳥の様な大型の鳥類である。この世界には大型の哺乳類がいないので、労役に供せられる動物は殆ど大型鳥類に限られた。
此から、遠征軍はジャカーノルアハトの外港迄は陸路を、其処から内海北岸のイズミニシス王国 (Izuminixis) の王都イズミナハト迄は海路を、イズミナハトから目標地域であるタンドラ湖迄は西タンドラ街道を北上するルートを取り、所要日数、凡そ六十日の行程を踏破する予定に成っている。 イリアは、此から先の長い行程に思いを馳せた。タンドラ湖周辺には、イリアが幼い頃住んでいた都市があるに違い無い。失った故郷を再び見る事が出来るかも知れないと云う事に、イリアは期待半分、不安半分の心持だった。
遠征軍の列が、都市の城門を出た所で振り返ると、城壁の所々から、にょっきりと観測塔が生えている。目を凝らすと、その一つから、此方に手を振っている人影が見えた。スヮティアだ。
イリアは、荷車の上に立って、大きく手を振り返した。今と成っては、イリアに取っての故郷は、此のジャカーノルアハトである。イリアは、此の、三月神の守護せられ給う学術の都に、必ず帰って来ようと思った。