しょぼい生活革命
中田考、 矢内東紀、 内田 樹
えらいてんちょうはすごい生き方をしてると思うけど、自分は全然共感出来なくて、自分は結構型にはまった生き方とか考え方をするのだと思う。
自分は、なんかこういう思想家的な人嫌いだね。論をこねくり回してる感じで、鬼面人を脅かす事を言うけど腹落ちしない。
共感の議論が気になった。共感を元にして社会を作ってるから、いじめなどが起きてる事など。
何となく分かった。ネット論客の言ってる事は単なる言葉遊びで、相手を言い負かすためだけの論で、建設的に何かを成し遂げるための知識じゃない。
こりゃ、全共闘という人達と自分の違いはなんだ?と相対化しないとダメだ。自分はネトウヨも嫌いだけど、この手の人達も嫌い。全共闘と相対化 自分はえらいてんちょうという人がどんな人なのか未だに分からない。あんまり信用出来ないと思ってる。 対話と共感。なんか、土曜日に読んだ「しょぼい生活革命」の中で、共感を元にした社会は脆弱みたいな記述があったと思うけど、対話と共感というのは不要なものなのか気になった。
思想的なものをどう理解したらいいのか?と思った。彼らは共感を基にしたコミュニケーションは否定するらしい。
巫女はもともと旅をしながら布教活動をするような者たちだったらしい
そう。「ツイッターは長文が読めない人間のツールだ」と中田先生がおっしゃっているのは、まさにそのとおりですが、ユーチューバーでは「文字が読めていない」と思うコメントがいっぱい来るんです。もう話が通じない。YouTubeというのは本当にどうなんだと思いながらやっていると、次はティックトックが出てきました。
歴史的にものを見ると、同じものが何度も何度も、外見をちょっと変えただけで繰り返して登場してくることがわかります。この「いつものあれ」をチェックしておくことがすごく大事なんです。「本当に新しいもの」の登場に気づくためには、「古い出し物の再演」をチェックして、タグをつけておかないといけない。「新しい顔をした古いもの」をわきに除けた後に残ったものが「本当に新しいもの」なんです。「新しい顔をした古いもの」は歴史的にものを見る習慣がないと検出できない。
村上春樹が言ってた事らしいが、社会の中で知性の総量は変わらなくて、どこかに偏在している。 内田 中国、ロシア、フィリピン、トルコ……と非民主的な体制のところがいまのところ成功しているという事実があります。そして、ヨーロッパや日本では極右が進出してくる。彼らは右翼というよりは、強権的な支配を好む人たちなんです。民主的な粘り強い対話によって合意を形成するのが嫌いなんです。それよりは、外交も、経済政策も、教育も、医療も、全部トップが決めて、上意下達で末端まで指令が行き渡るシステムの方が好ましいと思っている。だから、自民党や維新を支持している。そして、そういう日本人が無意識に参照しているのは「中国の成功例」なんです。わずかの期間にここまで成長した中国について、彼らが学習したのは、「それは一党独裁と徹底的な国民監視システムのおかげだ」ということなんです。自分ではそうと知らずに「中国みたいな国にしたい」と思っている。
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