現代哲学の重要キーワード
5つ、概念をシェアします。
1. 価値自由
ドイツの社会学者:マックス・ウェーバーによる概念です。哲学用語ではないですが、有用だと思うので。
Quoraでは、日々多数の政治・社会・人生についての質問が寄せられます。しかし基本的に、それら社会科学に類する問いに、数学的な”正解”は存在しません。Quoraというオープンな議論の場ではいざ知らず、普遍性や厳密性を重視する学問領域においても状況は変わりません。あるのは不確かで主観的な、提言・仮説のみです。では、私たちは”正解”がない社会科学の疑問に対して、どのような態度であるべきか。「価値自由」は、そうした問いに対する一つの提言です。
曰く、社会科学は研究者(論者)の視点が否応なく入り込むものであるが、むしろ研究者は自分のよって立つ価値観・立場を明確に示すべきだ。自らの視点を明らかにすることによって主張の制約を明らかにし、その制約内での一定の客観性を確保できるようにしよう。そんな考え方です。
私は社会科学分野に対する関心が高く、ときに回答もします。その際は、この「価値自由」の考え方を意識して、自分の立場をできるだけ示すことで、少しでも”客観性”や適用範囲を明確にしたいと思っています。
2. 上部構造・下部構造
『資本論』でお馴染みの、カール・マルクスによる概念です。「正義は人によって違う」と言います。ではその違いはどのようにして生まれるのでしょうか。
マルクスは、社会の諸概念を上部・下部に分けました。上部構造は、人権・正義・法律・政治・芸術などの抽象的な概念。下部構造は生産体系や経済性、いわゆる食い扶持です。マルクスは、この下部構造のあり方が、上部構造のあり方を決めるとしました。労働者の立場からの「正義」と、資本家の立場からの「正義」は違います。なぜなら生存戦略が異なるからです。サラリーマンが良しとする「芸術」と、ニートが良しとする「芸術」が異なるのは、(少なくとも社会階層で分断して考えるのであれば)教養の問題ではありません。どのように経済性を持ち、ご飯を食べるのか、という生活の基礎がまずあり、それに従って種々の価値観は決まるからです。
SNS上での国内政治についての議論を見ると、正義やら民主主義やら平和やらの抽象概念が飛び交っているのをたまに見ます。しかし、基本的に万人が納得する上部構造概念はないですし、言ってみればそれらは二次的な要素です。より良い政治を考えるのであれば、上部構造の達成を重視するのではなく、まずは下部構造の、つまり皆が経済的に安定できることを、考えるべきではないかと思います。
3. 家族的類似性
オーストリアの哲学者:ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインによる概念です。元々は、言語に内在する意味の探究から生まれた概念ですが、広く私たちの考える”意味”や”真理”一般に適用できる視点です。
家族的類似性とは、あるカテゴリーに属する各要素について、それら全てに共通する性質は存在しない。あるのは部分的で緩やかな繋がりのみ、とする考え方です。
例えば「ゲーム」という概念について。ゲームであるとは、どういうことでしょうか?勝敗がある、楽しい、得点がつけられる。どれも一部当てはまっています。しかし反例も見つけられる。(はず。忘れましたが、解説書にはちゃんと反例も示してくれてます…)。これは私たちの考えている概念が、”中心”を持ったものではなく、なんとなくの緩い繋がりで形作られているものであるからです。
何が真の「愛」なのか、何が本当の「家族」なのか。こうした問いは不毛です。そんなものは端から無いです。ゴチゴチの原理主義に陥る前に、言葉に踊らされる前に、もっと緩く考えて然るべき理屈を示してくれます。
4. 死の衝動
無意識でお馴染み、ジークムント・フロイトの概念です。
彼は精神分析の過程で、被験者がトラウマ的行動や、本人にとって辛いはずの経験を繰り返し行う事例に出会います。例えば、何度も暴力的な夫と結婚し離婚を繰り返す、遅れるとわかっているのに毎回直前まで準備をしない。これは快楽原則から考えたら、全く不合理です。なぜそのようなことになるのでしょうか?
フロイトは、この不合理について考えを逆転させ、そうした経験を「繰り返し反復すること」それ自体に、行為それ自体の不快を超える快があると考えました。これが「死の衝動」です。私たちは、ある面では新しい情報を求め、自らを変えていこうとする反面、別の面ではそれまでの習慣を維持し、変わらないことを求めます。
これは、近年大流行したアドラー心理学に見られる「あなたが変わらないのはかわりたくないと思っているから」のテーゼに、補助線を加える視点です。あなたがなぜ変わらないのかというと、人は変わらないこと・反復することそれ自体を快楽としているからです。
心理療法では、無意識的なものを意識的なものに変えることで、それをコントロールしやすいように変化させるそうです。もし、変えたくても繰り返してしまう習慣があるとき、「死の衝動」を思い出すことで、より意識的にそれを変えられるようにしていけるのではないかと思います。
5. 奴隷道徳
みんな大好き、ニーチェ先生の概念です。
彼は、かの時代に蔓延っていたキリスト教的な善悪規程を切って捨てます。例えば、「弱者に対しては優しくあらねばならない」という慈悲、「強欲は悪であり、清貧こそが人間の美徳である」という節制。これらは、強者に対する反感・恨みから生み出された「奴隷道徳」です。
ニーチェは”強さ”に、より輝く善性を見ます。美しいこと、自律的であること、快活であること。これらは、それ自体が自立した善性です。こうした強さから導かれる道徳を「君主道徳」として、人間の美徳の基礎であったとします。
しかしそれはキリスト教の大衆化に伴い、反転します。弱者が自らの不遇について、その不遇さこそが自分達の真面目さ・勤勉さ・純白性・正しさを示すものと論理を立て、反対に強さを暴力性・美しさを強欲・快活さを無知で無頓着の悪性であると攻撃します。これが「奴隷道徳」です。
私たちがこれから学べることは、道徳や善というものは、自己肯定や他者非難のレトリックとして使われることもあり得るのだ、という視点です。上の各概念でも言われるように、世の中の概念は曖昧で、人により異なります。そして人は弱い。様々ある価値の対立から、どれを選び取るべきか、自分の主張が牽強付会に陥っていないか。「奴隷道徳」は、そうしたチェック機能を強化してくれる視点であると思います。
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