ハイデガーの世界劇場
世界を変える武器となる
20世紀前半に活躍したドイツの哲学者ハイデガーは「世界劇場」という概念を通じて、 現存在我々の本質と、我々が社会において果たしている役柄は異なっていると考えまし た。舞台で演じる役柄のことを心理学ではペルソナといいますが、ペルソナというのは 元々は仮面という意味です。
実際の自分とは異なる仮面を身につけて、与えられた役柄を演じる。 英語では人格のこ とを「personality」といいますが、この言葉は元々ペルソナからきています。
そして、すべての人は世界劇場において役割を演じるために 世界に投げ出されることになります。これをハイデガーは「企投」とよびました。そして企投された人々が、世界劇場におけ る役柄に埋没していくことを耽落=Verfallen と名付けた。
ハイデガーによれば、私たちは世界劇場における「役柄を演じるのに耽落していくこ
とで、現存在=我々の本質を忘れてしまいます。 良い役柄をもらっている人は、役柄では なく自らの現存在を「良いもの」と考え、ショボい端役をもらっている人は、役柄ではな 自らの現存在を「ショボいもの」と考えてしまう。
そして、当たり前のことながら主役級の役柄をもらっている人はごく少数に過ぎませ ん。多くの人はショボい端役を与えられた大根役者として世界劇場の舞台に立つことにな 役柄を演じるのに四苦八苦している一方で、役になりきって高らかに歌い踊る主役級 の人々を喝采しつつも、陰で「ああはなりたくはないよね」という態度を取ってしまった り、何らかの事件で主役から引きずり下ろされるのをみて溜飲を下げたりしている。
この世界が健全で理想的な状況にあると思っている人は世界に一人もいないでしょう。 つまり世界劇場ということでいえば、この劇の脚本は全然ダメな脚本なのです。したがっ て、この世界劇場の脚本は書き換えられなければならないわけですが、ここで非常に難しい問題が浮上してくることになります。
それは「誰がその脚本を書き換えるのか」という問題です。
テレビドラマの制作を考えてみればわかりやすいでしょう。 脚本の修正に口を出せるの は橋田壽賀子クラスの大物脚本家か監督、それに泉ピン子クラスの大物俳優だけです。
しかし、少し考えてみればわかることですが、まず、この社会に適応している人、 つまり花形役者には脚本を変更するインセンティブがありません。彼らは、いわば世界劇場に 「おける「脚本の歪み」ゆえにさまざまな利益を享受しているわけで、脚本の「歪み」を是正するインセンティブがないのです。
これは監督や脚本家についても同様で、世界の脚本を作っている立場の人はやはり同様 にそれを改変するインセンティブを持ちません。これはつまり、いまの世界劇場に完全に は適応できていない人、端役を押し付けられた大根役者こそが変革者になりうることを意味しています。
大根役者が、大根役者である自分に失望せず、この世界の中に居残りながら決して耽落 もせず、いかに内部から世界をより良い世界に変えていけるか...これが最大の課題で す。そして、現在の脚本を離れて、新しい世界の脚本を描くのに必要な技術がまさにリベラルアーツなのです。
現在の脚本が歪んだものである以上、この歪んだ脚本を前提にして書かれている「より 良い役柄を生きる」技術、つまりそれはほとんどの経営学やキャリア論のことですが、これらはまったく役に立ちません。新しい世界の脚本を構想するには、より本質的で普遍的な大地を立脚点にしなければなりません。
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