すべてはノートからはじまる
私達は他人の知識をあたかも自分のものであるかのように使えます。賢い生物として有名なタコは、他のタコの真似をするようですが、人間は実物を見たことがない知識まで手を伸ばすことができます。そんなことができるのは人間だけでしょう。
位置No 259
「何をどのようにであれ、書いていくことには効果がある」
位置No400
人が自由に生きられるように、ノートもまた自由に使えます。逆に言えば、ノートを自由に使うことで、人は精神の自由さを、つまりマスメディア的な情報環境からの離脱を手にできます。
位置No539
デジタルノートの難しさ
この物リマインダーの考え方は、名前通り実体を持った「物」であるアナログノートが活躍します。逆に、デジタルノートだとこうした物リマインダーとしての効能が薄れます。たとえば、スマートフォンでノートアプリを使っていても、そのアプリ内にノートブックを作ると、アプリを開くまではそれが目に入りません。つまり、思い出せないのです。だからこそ、デジタルノートの場合であれば普段よく使う(よく目にする)アプリにノートを作るのが大切になります。あるいは、その目的のためだけにしか使わない新しいノートアプリをインストールして、そのアプリを見れば自分が何をやろうとしていたのかを思い出せる形をとってみるのもよいでしょう。
位置No748
一般的に、計画の立て方にはフォアキャストとバックキャストの二つがあります。フォアキャストは、これまでがこうなってきたから未来はこうなるだろうと帰納的に考え、だったらどんな行動が必要になるかを決めるアプローチです。一方バックキャストは、「こういう未来を目指したい」という理想を立て、それを実現するためにはどんな行動が必要なのかを考えるアプローチです。もちろん、後者のアプローチでは理想が実現する保証はありませんが、前者であっても過去と同じ状況がずっと続くわけではない点で不確実性を備えています。(新型コロナウイルスでその事実は痛感されていると思います)。
よって、どちらの方式で計画を立てたとしても、やはり間違いがありうるのです。人間の直感的なバイアスを抜きにしてすら、計画には不完全性があります。だからこそ目標を立て、それを実現するために必要な行動のリストを作ったとしても、常にそれを修正していくことが有用です。
位置No808
忘れることのメリット
人間はどんどん忘れていったり、都合よく記憶を変えてしまうことが頻繁に起きます。もちろんそれは生物的な不具合ではなく、単にそうであった方が生存に適しているからです。もし不都合な記憶をまったく忘れられないなら、一度絶望を経験した人は二度と立ち直れないことになります。だから、脳が忘れる機能を有しているのはよいことなのです。だからこそ、覚えておきたいことはノートに記しましょう。忘れる脳、覚えるノートの役割分担です。
位置No851
フィールドバックには、それを送るものと受け取るものの二者が必要になります。同様に、管理であっても管理するものとされるものの二者が必要です。単一の存在ではフィールドバックも発生しなければ、管理もなしえません。記録をつければ、自分(今その瞬間の自分)以外の自分が生まれます。言い換えれば、他者が生まれるのです。そのように自分を二分することによって、フィードバックや管理が可能となります。逆に言えば、記録を一切とらずに管理することはほぼ不可能です。管理が目指すべき状態が記憶と共に失われてしまい、どう管理していけばいいのか、何を管理すべきなのか、そもそもなぜ管理しようとしていたのかが喪失するからです。管理あるところに、記録(ノート)あり。そんな風に言えるかもしれません。
なんにせよ、自分が管理したいと思っている対象についてはノートを取るようにしましょう。そしてフィードバックを発生させ、「私」というシステムを調整していきましょう。
位置No1158
作業しながら記録も残すように進めていくと、同じような効果が期待できます。漠然と作業を終わらせるのではなく、「今日はこんなことをして、ここまでやった」と記述することで区切りの感覚も生まれ、次に何をすべきなのかもはっきりしてきます。
その効果をより発揮させるためには、ラバーダックと同様に「誰かに向かって話かける」ことが大切です。文章で言えば、他の人が読んでも分かるように書くのです。自分用のメモではなく、それを読んでいる誰かがいて、その誰かに説明するかのように文章を書いておけば、時間が経った後に自分で読み返しても十分に意味が取れるようにもなります。
位置No1181
リストを閉じてしまうのです。一度作成したリストを、一通り行動を終えるまでは新規項目を追加しないと決めるのです。それがクローズドリストです。
たとえば、「今日一日でやること」を書き並べたリストを書いたとします。それを朝一に書き上げたら、以降はよほどのことがない限り、そこに項目をつけ足さないのです。もし、何か新しいやることが発生したら、それが喫緊のものでない限りは「保留」にしておきます。保留とは、今日中にリストの項目すべて達成した後に時間があれば取りかかる、ないしは明日以降に持ち越すという判断のことです。安易に追加するのではなく、保留をうまく使えば、「今日一日でやること」のリストには明確な「おわり」が生まれ、そこに向かって進んでいけるようになります。見通しとコントロール感が発生するのです。
位置No1236
リスト作りが有限化の技法だと言えます。この世界にある(あるいは頭の中にさまざまにうごめく)万物を記述するのではなく、その一部を特定の条件に応じて切り出すこと。それがリストの役割です。
位置No1252
たとえば、行動のノートについて振り返ってみましょう。前章で紹介した「やること」を列挙するリストは、自分が「やること」だと思ったことを書き留めるのが第一の役割です。頭に浮かんだ「やること」を書きつけていくわけですから、当然そうなります。そして、リストに書き込みながら、あるいは書き込んだ後で「これは本当に今日やることだろうか、あるいは自分がやるべきことだろうか」と考えることになります。まず「思ったこと」を書きつけ、それに対して「考え」をぶつけていく。それがリスト作りで生じている知的作用です。その他のリストの使い方でも基本は変わりません。思いを書きつけ、それに対してさらなる情報処理を行うことによって、適切な形に持っていくこと。それがこれまでノートで行ってきた情報処理の全体であり、「思考」という行為の核になります。
位置No1398
ダ・ヴィンチのノートなどが有名ですが、いつでも持ち歩き、思いついたことを即座に書き留めるノートは、飛散しがちな自分の「思い」を留めておくのに役立ちます。そうして書き・留めた「思い」はそれ自身で役立つというよりも、後々の「考える」の材料として(あるいは対象として)役立つことが期待できます。今すぐ使うのではなく、「今はこれについてじっくりと考えている時間がないので、また後にしよう」という一種の先送り(よく言えば未来へのパス)として機能するのです。
位置No1412
人間の「思い」は意識的にはコントロールできませんが、それが知覚に影響を受けることは間違いありません。つまり、何を「目に入れる」のかで、何を「思う」のかを擬似的に方向づけられます。このラジアルなマップは、その特性を最大限に活かすノーティングの技法です。なぜなら、人の「思い」は連想的に働き、一つの事柄に対して複数の要素を思い浮かべるからです。上下から左右に向かう一次方向の記述では、この多様な広がりをキャッチできません。一つの「思い」が複数の連想を呼び、それぞれの連想が、さらなる連想を呼び込んでいく。そのように、自らの「思い」を洗い出していくために、ラジアルなマップは使えます。
位置No1431
「思い」を明らかにしたら、次は「考える」です。自分の頭に浮かんできたものに、意識的に知的作用を向けていくターンとなります。そこで行われる行為は、整理・発想・分析・検討・統合・メタ化とさまざまな呼び方がされますが、ここではそうした分類には立ち入らず、ノーティングの観点からのみ検討していきましょう。
まず、一番シンプルな技法が「再び読むこと」です。自分が書き留めた「思い」を、時間が経ってからただ読み返すこと。これだけでも思考が発動します。なぜでしょうか。簡単に言えば、最初に思いついたときの自分と時間が経った後の自分が異なる存在だからです。
位置No1464
問題解決のアプローチには、別の分野でうまくいっている方法を持ってくる、あるいは問題を起こしている原因を別の場所に移動させて無害化する、などの方法が考えられますが、それらも基本的には「組み換え」だと言えます。組み換えることで、習慣的思考や行動を逸脱していくのです。むしろ、そうしたアプローチを取らない限り、問題は問題として残り続けます。だからこそ、積極的に組み換えていくことが大切です。うまくいくかは別にして、まず「習慣」から脱することを試みるのです。そしてまさに、自分がどのような行動・思考習慣を持っているのかは、それを記録して可視化しないと捉えられません。まずノートに書き、それを組み換える。それが変化に必要なことです。
位置No1521
私たちの脳が「それっぽい」答えを出すにせよ、無から生成するわけではありません。その時点で脳にあることを素材とします。よって、知っていることの多寡が答えのバリエーションに直接的に影響します(夢の中であっても知らない言語を話すことがないのと同じです)。だとすれば、たくさんの知識を持ってることは発想や創造においても大切です。
位置No1555
人間はそのとき知らないことを発想することができない。インターネットを使って調べることができるとしても、知らないことは発想できない。
「組み換え」の技法を拡張すると、「並べる・位置づける」技法になります。共通の性質を持つ情報を集めたり、一定の秩序に沿ってソートしたりすることで、欠落している情報や新しい情報を浮かび上がらせるアプローチです。身近なものでは年表作成がありますし、他にも元素周期表や生物の分布図を作るのも「並べる・位置づける」技法と言えます。
この技法は、本格的に行おうとすれば大量の情報を扱うことになり、それこそ論文や書籍執筆につながる研究活動になります。もちろん、ノートに一定の蓄積ができてからはじめて可能になる技法なので、最初のうちから意識しすぎても仕方ありませんが、ノートを使い続けることは、そうした射程の広さを持っていることは理解しておきましょう。
位置No1562
自分も大量のメモを持っているが、それを使って有益なアウトプットが出来るようにはなってない。情報の組み換えなどを行って、情報整理を行う必要はあるだろう。
書き写す効能
一度ある場所に書き留めたものを、別の場所に書き写すことで情報の文脈を変更する技法もあります。有名な手法は外山滋比古さんが『思考の整理学』で紹介しているメタ・ノートです。とは言え、別段難しい技法ではありません。まず着想ノートを書きつけ、その中で時間が経っても面白さを感じるものを別のノートに書き写し、さらにそのノートでも同じことを繰り返した結果として、アイデア純度の高いノートを作り上げるのがメタ・ノートです。前後に並べてある情報が変わるだけで、情報の受け取り方は変わってきますし、書き写しを行うと必然的に「もう一度読み返す」も発生するので、多重の効果を含む技法だと言えます。
利便性が高いデジタルノートでは、一度保存したら同じ形でずっと保持できてしまうので、アナログノート的な「書き写す」行為が持つ効果に気づけない傾向があります。ですので、デジタルノートであっても一度書き写してみてください。その際コピペするのではなく、もう一度キーボードで入力すると、内容が変化してしまうのに気がつくでしょう。書き手が変わっている(自分が別人になっている)からこそ、起こる変化です。それはもちろん「思い」にもう一度知的作用を与えているわけです。
位置No1575
人間は、繰り返し行うことを学習します。そして、一度学習したものは以降意識しなくても実行できるようになります(車や自転車の運転が好例です)。これは「考える」についても同様です。何かについて「思い」、その後に、意識的に「考える」を繰り返していると、やがては意識しなくても行えるようになるのです。
位置No 1622
刺激の制御も欠かせません。私たちの脳は不断に情報を処理しているのでした。だから、何か考えたいことがあっても、窓の外から「いしや~~き、いも~~」という声が聞こえてくると、途端に「思い」はホクホクの石焼き芋に飛び、最近の体重が気になり始めます。ここで強調するまでもなく、情報が不断に流れ込んでくるソーシャルメディアは不断に情報を処理する私たちの脳と好相性なツールであり、ゆっくりと思考することにおいては極めて不向きな環境だと言えます。「考える」ためには、不要な刺激が少ない静かな環境が必要です。
さらに、余計な嘲笑にさらされないという意味での静けさも大切です。「思い」を自由に発展していく上では、厳しい他者の視線は役立つものではなく、むしろ害をなすものです。閉じた場所で、できれば一人になれる場所で、「思い」と向き合うのが望ましい環境です。
位置No 1647
前章で確認したとおり、私たちは「考え」なければ、習慣的な自分から抜け出ることができません。逆に言えば、「考える」とは習慣的な自分からの逸脱を、つまり他人になることを意味します。本を読むことで他人の「考え」を体験し、ノートを使いながらその「考え」に自分の思考をぶつけていけば、私たちは「自分」でない自分へと変身していけるようになります。
位置No 1740
思考の拡張を目指すのならば、それまでの自分の「思い」とは別の視点を持つことが必要です。しかし、私たちは何かしらの「思い」を常に抱えて生きています。先入観を完全にゼロにするのはほとんど不可能か、可能であるにしても相当の苦労が必要でしょう。
位置No 1759
具体的には、どのような本であっても著者は書き手として資格があり、誠実に自分の考えを表そうとしており、読みてを貶めようなどとは思っていない、というスタンスの維持に努めるのです。そのようにして意識を組み換えない限り、脳の中の新しい運動は起きないでしょう。
位置No 1764
ここは書籍なら確かに信頼性の部分でネットの情報よりは信用して良いと考えてもよいという事だろうか?
ネットの情報を全部信用していると「ネットde真実」みたいなことになると思うのだが。
タスクリストの有用性はこうした点にあります。記録や日記が役立つのもこのためです。状況を確認し、そこから仮説を立て、現実に少し変化を与えて、結果を観察する。そのようなプロセスを繰り返してく中で、少しずつ自分の「実証結果」を増やしていくのです。このやり方を採る限り、他の人に「正解」を教えてもらう必要はありません。最初にヒントになる「考え」さえ提示してもらえれば、後は自分で実験してそれが使えるものなのかを確かめていけばいいのです。そうした実験を繰り返す中で、誰も気がつかなかった自分なりの発見をたまたま見つけるかもしれません。そうなったらすごく楽しいでしょう。楽しいことは続きます。
位置No 1942
完全には至れない僕たち
本=ノートを使うことで、私たちは他者の「考え」を自分の思考に役立てられるようになります。この世界には無数の本があるのですから、そうした本をどんどん読んでいけばぐんぐん知性が高まり、やがては真理に到達できるかというと、そういうわけにはいきません。
第一にたくさん本を読んだとしても、本の選択や読み方が問題となります。自分と同じ「思い」ばかりの本を読んでいても、思考は拡張されることなく、むしろ一つの「思い」ばかりが強まってしまうでしょう。また、自分の「思い」とは異なる「考え」が綴られていても、それを汲み取ろうとして読まない限りは自分の中に新たな「考え」が芽生えることはありません。よって、そのような読書をどれだけ続けても、最初の自分の「思い」からは一歩も抜け出せないでしょう。
それだけではありません。どれだけ他人の「考え」を取り込もうとも、最終的にその「考え」が発揮されるのは一人の人間の頭の中です。不完全な人間の中なのです。そのような思考が、完璧完全な場所にたどり着くことがあるでしょうか。かなり厳しいでしょう。以前よりも少し正確に、前の考えよりも少し精緻になることはあっても、完全無欠には至れません。
つまり、本を読んでどれだけ思考を鍛えたとしても、私たちはいつまで経っても不完全であり、その不完全性から抜け出ることは叶いません。いつでも誤謬が、盲点が、論証の甘さが、反証の可能性が、「そうでないかもしれない」がつきまといます。これは避けがたい事実です。
不完全でありながらも
だからこそ、二つのことが言えます。一つは「完全な考えに至ってから行動に移そう」と考えていては、いつまでたっても行動には移せない、ということです。求めている条件が満たせないのですから、必然の結果でしょう。言い換えれば、私たちは不完全な中でしか行動に移せないのです。計画を立てたり、準備を進めたりしても、それによって完全完璧に至れるわけではありません。だからどこかの段階で、「考える」を中断して、えいやと行動に移す必要があります。当然、うまくいかないことも出てきますが、それは仕方がありません。私たちが人間である以上受け入れるしかない不完全性です。
また、「どこかの時点では考えるのを止めて、行動に移すしかない」という状態に置かれているのは、自分だけではありません。身の回りのあらゆる人が同じ状態に置かれています。皆不完全な中で行動しているのです。よって、自らの不完全さを受け入れるのと同様に、他者の行動にも同様の不完全さがあることを受け入れるしかありません。行動とは、不完全であることと同義なのです。
位置No 1985
文章の書き方に関するノウハウはいくらでも見つけられますし、それらのノウハウは時間が経っても変質しません。
位置No 2102
そうしたノウハウで一番有用性が高いものが<読者のことを考える>です。『数学文章作法』シリーズで著者の結城浩さんが紹介しているこの原則は、すこぶる応用が利き、基礎的とすら言えます。むしろ、ほとんどのノウハウは、この原則からの応用や発展であると言っても過言ではありません。それぐらいに大切な原則です。
位置No 2106
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