卒論についてのメモ
卒論をどう考えるべきかについて、しばらくいろいろ考えています。ここではその結果と考えた過程もふくめて、ざっくばらんにメモとして残しておきます。(卒論タイムラインも) 結論から言うと、
あなたは卒論を気楽にとらえてテキトーにこなさなければならない、しかしあなたは卒論に大真面目に取り組んで、自分の可能性を探求しなければならない
という一見矛盾した感じかなと思います。
卒論作成にはいろいろな面があると思いますが、ここでは二つの方向からアプローチしてみます。
1つ目は、これはあくまで数あるタスクの一つに過ぎないと気楽に構え、テキトーに済ますべきだ、という一見ドライにも見える考えです。まずそもそも、ある程度気楽にどっしり構えないと、やる気がでません。この打席で甲子園に行けるかどうか決まるとか、このレースで日本新記録を出さないとオリンピックに出場できないとか、そういうプレッシャーとごっちゃにしない方がよいでしょう。いや、そもそも、甲子園もオリンピックもどうでもいい人からしたら、上のような例もハナクソほどどうでもいいことでしょう。誰しも、自分のやっていることを一歩引いて観察するような時間があっていいと思います(そればっかりの冷笑キッズもつまらないと思います。それについては2つ目のアプローチを参照)。
卒業論文はあなたの4年間の勉学の集大成ではありません。ましてやあなたの人生を決めるものではありません。あんまりたいそうなものだと思い込んでしまうと、身動きが取れなくなります。そんなたいそうなものではありません。必修単位という意味では、語学の単位と同列なわけで(語学は8単位、研究プロジェクトは4単位、つまりむしろ語学の半分の値しかないものです)、語学の勉強をコツコツまじめに取り組んで「こなす」ように、卒論もこなせばいいというわけです。こなしましょう。
「テキトー」には適切な分量、さらにはちょうどよさ、中庸といったニュアンスもあります。卒論は裁量と制約が同時にあるタスクをこなす訓練と言えるかもしれません。われわれは誰もが制約のある中で生きています。ご飯も食べないといけないし、睡眠もとらないといけないし、バイトとか働かないといけないし、etc. etc. すべての時間を卒論に捧げるわけには当然いきません。限られた時間の中で、さらには体調の悪い時期も、外的な要因でそれどころではないときもあるでしょうが、それはみんなこれからもずっとそうなわけで(残念ですがこれからの人生ずーっとそうです、みなさん。あなたの思い通りにはいきません。え、思い通りに行きました? へー。。。ほんとかなあ)、それでも、与えられたタスクをこなして生きていかねばなりません。時間も余裕もないので完璧にタスクをこなすことは誰もできません。それでもそれなりに適切な時間、適切な分量働いて、適切にタスクを達成しないといけないわけです。
卒業後、会社員、個人事業主、主夫(婦)になろうが何になろうが、誰もが裁量と制約が同時にあるざっくりとしたタスクをこなさないといけません(生きている限りそうじゃないでしょうか?)。主夫だとしたら、たとえば「月額XX円で家庭を運営せよ」といったタスク、銀行員だったら「このフィンテックの真似をしろ」なんていうのもあるかもしれません。どうしますか? なにから始めますか? わからないから調べますか? よくわかんないですよね。予行演習したいですよね。シミュレーションしたいですよね。レベル上げから始めたいですよね。まずはじっくり最初の街で準備を整えたいですよね。でも、万事全て準備完璧だ、さあやろう、なんていう段階までずーっと会社や家庭が待ってくれますか? そんなわけないですよね。とにかく作業を始めないといけません。自分なりにタスクを分割して、できるところからとりあえず進めないといけません。どう進めましょうか。
卒論はとてもよい訓練の機会をあたえてくれます。目標や締め切りがあり、各種制約(アカデミックなものであること、テーマも学科と関連があること etc. )があるが、裁量も大きいです。締め切り/納期さえ守れば進行の仕方はまったく自由ですし、テーマに制約があるといっても、「電気自動車を作りたい」とかは設備の面で困る、というだけで、ありとあらゆる人間・文化についてのテーマから自由に選べるわけです。
しかし、さすがに締め切り1日前に徹夜して終わらしました、とかいう作業量ではないわけで、1年間にわたり作業を分散させないといけません。定期的に進捗を教員に報告しないといけません。今日はこれをしよう、来週はあれをしよう、来月中に・・・といった感じで、うまくスケジュールを立てながら(そして進行に応じて変更しながら)、自分で考えて進めないといけません。これくらいの時間があるから、自分にはこれができる、あれはできない、と取捨選択していく判断も絶対に必要です。そして完成したときは、自分の成功体験としてカウントして構いません。内容に不満があろうがなかろうが、それなりにタスクを達成したからです(達成できてなければこちらは通しません)。裁量と制約があるざっくりしたタスクをこなすことができる、という能力の証明がなされるのです。悪くないですよね?
2つ目の考え方として、一方で卒論というのは、外的な正当化が与えられながら、これほど自分の趣味を爆発させ、クリエイティビティを追求できる場面はそうそうない、というものです。
まずそもそも、結構みんななにかを作りたいわけですよね。ユーチューバーしかり、同人活動しかり、友達とだけつながってたいんならラインだけでいいわけで、そうじゃなくてあんだけSNS上でみんないろいろ活動しているわけです。創作活動というのは楽しいんですね。卒業論文も創作活動の一種です。作品は学術的論文ですが、一から構成を考えて、パラグラフ/パーツを作って、推敲/演出をして、組み立てて/編集して、などなど、創作の要素がつまっています。
それが哲学者の著作についてのマニアックな話なのか、「幸福」とか「愛」とか身近なことついての話なのか、「AI技術」とか「企業倫理」とか社会についての話なのか、どんなテーマであれ、自分の興味にあるテーマについて、大きく裁量を持った状態で好きに探求していいーそして、次が大事ですーその活動が「卒業論文だから」という形で大きく正当化されている、という場面は、みなさんのこれからの人生で多分ないと思います。
社会人になって、DTMとか夜中もぞもぞやって投稿して、結構再生回数あるんですよーとかいばってみても(そんなのimaseとか米津玄師とかにでもならない限り)、「ふーん、それ趣味でしょ? なんでもいいけどちゃんと仕事やってね」と言われるだけです。創作活動は「趣味」として「余暇」(そんなものがあるなら)にやるものとされています。
ところが、「卒業論文だから」は趣味ではありません。人文学のカリキュラムの中でかなり大きな部分を占めるまっとうな活動です。1000年前に誰かが愛について語った文章を、真昼間寝っ転がりながら読むのは、その作業の一貫なわけで、堂々と、「これ卒論やねん」と言いながら寝っ転がりながら読めるわけです。社会人になったら、真昼間にそんなことはできず、夜中隠れて、睡眠時間を削って、なんとか本を読む時間、創作的な活動をする時間を捻出するしかなくなります(繰り返しですがこれはよっぽど不労所得がない限りみんなそうです。どういう仕事につこうが、家庭内労働に従事しようが、一緒です。すでに相当のマンション経営・駐車場経営でもない限りは(知らんけど)結構労働しないとやっていけません)。
というわけで、こんなチャンスはそうそうない、という気持ちで、卒論に取り組むといいと思います。