近代化における小児性愛のタブー視に関する資料集
子どもの話の前に、前提として確認しておきたいこと
第1条(自由・権利の平等)
人は、自由、かつ、権利において平等なものとして生まれ、生存する。社会的差別は、共同の利益に基づくものでなければ、設けられない。
第2条(政治的結合の目的と権利の種類)
すべての政治的結合の目的は、人の、時効によって消滅することのない自然的な諸権利の保全にある。これらの諸権利とは、自由、所有、安全および圧制への抵抗である。
第3条(国民主権)
すべての主権の淵源(えんげん=みなもと)は、本質的に国民にある。いかなる団体も、いかなる個人も、国民から明示的に発しない権威を行使することはできない。
第4条(自由の定義・権利行使の限界)
自由とは、他人を害しないすべてのことをなしうることにある。したがって、各人の自然的諸権利の行使は、社会の他の構成員にこれらと同一の権利の享受を確保すること以外の限界をもたない。これらの限界は、法律によってでなければ定められない。
第5条(法律による禁止)
法律は、社会に有害な行為しか禁止する権利をもたない。法律によって禁止されていないすべての行為は妨げられず、また、何人も、法律が命じていないことを行うように強制されない。
(以下略)
子どもという概念の誕生
中世ヨーロッパには教育という概念も、子供時代という概念もなかった、と言う。 7〜8歳になれば、徒弟修業に出され、大人と同等に扱われた、と言う。飲酒も恋愛も自由とされた、と言う。なぜ大人と子供の一線を7〜8歳に引いたのかと言えば、この時期に言語によるコミュニケーションが可能になると考えられたためである、と言う。 7〜8歳以前の子供は動物と同じ扱いであり、大人がフリスビー代わりに投げ遊び、落として死なせたこともあるという。乳幼児死亡率が高く、5歳までは頭数に入れられなかった。もっとも、乳幼児死亡率が高かった理由として、医学水準が低かったことだけではなく、両親のベッドの中で、あまりにも頻繁に窒息により非業の死を遂げる子供が多かったといった理由も挙げられている。 教会は、嬰児殺しを厳禁していた。が、両親があれは事故だったと主張してしまえば、それ以上追及する者はいなかった。 近代的な学校教育制度が現れたのは、17世紀のことである。当時の教育者たちは、古代には存在した学校教育を倣い、「純真無垢」を理念とした。「純真無垢」とは何か。子供と大人を引き離すこと、特に子供にとってセックスを禁忌にすることだった。また、子供として保護される期間の延長も提唱した。この時期から、美術も子供をテーマにし始めた、それ以前は美術が子供をテーマにすることはなかった、と述べる。 権力による性の統治
フーコーは、一連の活動により、「知と権力の関係」「知に内在する権力の働き」を説明した。また、『性の歴史』研究により、古代を題材としながら、本来あるべき人間像と社会像を語った。フーコーの思想においては、「絶対的な真理」は否定され、真理と称される用語や理念は、社会に遍在する権力の構造のなかで形成されてきたものであると見なされる。フーコーの思想においては、知の役割は「絶対的な真理」を証明することではなく、それがどのようにして発生し、展開してきたか調べる(知の考古学)ことにある。 晩年のフーコーは、どの著作においても、西洋社会で「生の権力」という新しい権力、つまり、伝統的な権威の概念では理解することも批判することも想像することもできないような管理システムが発展しつつあることを示そうとした。従来の権力機構においては、臣民の生を掌握し抹殺しようとする君主の「殺す権力」が支配的であった。これに対して、この新しい「生の権力」は、抑圧的であるよりも、むしろ生(生活・生命)を向上させる。たとえば、住民の生を公衆衛生によって管理・統制し、福祉国家という形態をとって出現する。フーコーは、個人の倫理を発展させることによって、この「生の権力」の具体的な現れである福祉国家に抵抗するよう呼びかけた。
2. フーコーの<生-権力>と<ビオ・ポリティック>
■ビオ・ポリティック(生命を管理する政治学)とは
規律を特徴付けている権力の手続きである「人間の身体の解剖政治学(アナトモ・ポリチック)」と同時に、生に対する権力の1つとして第五章にて提起。
ビオ・ポリティックは本著で提起された新しい概念であり、後期フーコー思想を特徴付ける。
■近代国家は、国民の名のもとにすべての人々の身体が管理される時代
→君主のためではなく、国民全体を動員して、国民全体の生存のために殺しあうため、人口調節を行い、住民の健康を管理し、保護し、人口を調節する国家。
結果として、オナニーをするこどもたち、性的逸脱とされる人々、子供を産まない女性「普通ではない」と管理される。「近代社会」は、ビオ・ポリティクスに従って、絶えず国民の性的欲望をかきたてている社会ともいえる。
3.「知への意志」概論
『知への意志』は、フーコーが「抑圧の歴史」と呼ぶ思考への批判を起点とする。「抑圧の仮説(歴史)」とは、17世紀以降近代のキリスト教社会にて性は抑圧されており、性を語ることはタブーであったとする一般的見解のことである。実際には16世紀以来人々はますます性について語るようになっており、とりわけキリスト教の「告白」という儀式において自己の性について隠さず告白することが求められており、性についての言説が逆に増大しているとフーコーは言う。
性に関する言説の空間においては<生-権力>が行使され、18世紀には性は公共のものとなり、行政の管理の対象となった。具体的には、人口増大に関心をもった国家が19世紀に一夫一婦制のもとでの家族制度を権力の維持基盤として活用するようになる。さらに性を管理する科学も形成された。成人と子ども、未成年男女をそれぞれ分離し、オナニーの禁止指導がなされ、様々な国家の人口政策に基づく性的指導が行われた。それに伴って、同性愛や少年愛などは異常性愛として取り締まりの対象となってゆく。人々は、ソフトに権力に管理、保護され、「生命を管理する政治学」が機能する社会となった。
フーコーは、中国や日本における「性愛の術」と西欧における「性の科学」を対比する。性愛の術において快楽はそれ自体のために追求され権力とも実用性とも無縁である。それに対して西欧の性の科学では、告白という形式を通じて、性は知としての権力にさらされてきた。さらに医学が登場し、性の科学は聖地化するのである。こうした権力装置によって、人間の<服従=主体化>が進行したのである。
4. 内容紹介
■「歴史的過失」とは何か
人々は17世紀初頭、人々のあいだで卑猥なもの(性的なもの)のコードは19世紀よりも緩やかであったといい、ヴィクトリア朝ブルジョワジーの時代になると、夫婦を単位とする家族が性現象を押収し、人々が性を口にすることを禁ずるようになる。
このような性と権力の関係を抑圧の関係として語ることが一般的に好都合であるのは、語り手の利益、つまり既成の秩序に対抗しているという意識、自分は体制破壊的であるということを示し、現在の悪を祓い、未来を読んで、その日の出の到来を早めるのに貢献していると信じる熱情による。(フーコーはこれを『経済的効果』と呼んでいる)。
第一の疑い
「性の抑圧」は本当に歴史的に明らかなことなのか。17世紀以来、性に対する抑圧体制が明らかになったのか。歴史的な問い。 第二の問い
権力の仕組み、我々の社会において働いている権力の仕組みは、本質において抑圧の次元のものなのか。歴史的―理論的問い。
第三の問い
抑圧の時代と抑圧についての批判的分析の間には、本当に歴史的断絶があるのか。歴史的―政治的問い。
問題なのは、人間の性現象についての言説を支えている<権力-知-快楽>という体制を、その機能と存在理由において決定すること。本質的な点は、性について総体的な「言説事象」、性の「言説化」。 拒否、検閲、否認は、言説化や権力の技術や知への意志といった、局地的かつ戦術上の役割をもっている「部品」に過ぎないとする。
→目的は、言説的産物にとって支えでもあると同時に道具ともなっている「知への意志」を、はっきりと取り出してみること。言説の産出の決定される場と、権力の産出の決定される場と、知の産出物の場の追求。 第二章 抑圧の仮説
1 言説の煽動 「性について、人は語らねばならぬのだ」
性に関する言説の爆発、権力の行使の場における、性についての言説の増大。
(e.g. 性について語ることを、制度が煽り立て、執拗に語らせようとする、カトリック教司教規律と告解・悔悛の秘蹟)
人々はその言説から、欲望に対する強化、方向付けといった効果を期待し、結果的に、性について引き受けられる際限のない務めとして、自分のすべての欲望を言説にしようと努めるべしという言表作業の強制が行われる →「近代西洋社会の桎梏の誕生」とフーコーは形容。
2 倒錯の確立 「運用構造に従わない性的欲望形態を追い出すという務め」
多くの言説は、ひとつの基本的な配慮「人口の増加を保証し、労働力を再生産し、社会的関係をそのままの形で更新すること。経済的に有用であり、政治的に保守的な性行動を整備すること」を通じて、「取るに足らぬ」倒錯 - 早く性に目覚めすぎた少年、早熟な少女、いかがわしい召使や教師、同性愛者 - を法的にますます断罪するに至った。性的に不規則なものを精神病に結びつけた。そしてすべての逸脱を特徴付けた。
→「道徳的狂気」「生殖神経症」「生殖感覚の錯乱」「心的不安定」といった刻印を一世紀の間に負わされる。
日本の法治主義における子ども
刑法における責任能力とは、刑法上の責任を負う能力のことであり、事物の是非・善悪を弁別し、かつそれに従って行動する能力のことである。責任能力のない者に対してはその行為を非難することができず(非難することに意味がなく)、刑罰を科す意味に欠けるとされている。
刑法第41条は14歳に満たない者の行為の不処罰を定めている。これは14歳未満の者を一律に責任無能力者とすることにより、その処罰を控えるという政策的意味を持つものと解されている。14歳に満たない者で刑罰法令に触れる行為をした者(刑事法学では一般に触法少年と呼ぶ)は、少年法により審判に付され、要保護性に応じて保護処分を受けることになる。
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