南方曼陀羅
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この図は、民俗学者の間で「南方曼荼羅」と呼ばれているものである。この奇妙な図を南方熊楠は、土宜法龍宛明治36年7月18日付書簡の中で描いて見せた。この書簡の中で熊楠は、例の通り春画やらセックスやらとりとめのない話題に寄り道をした挙句に突然仏教の話に入るのであるが、この図はその仏教的世界観(熊楠流の真言蜜教的な世界観)を開陳したものとして提示されたのであった。
熊楠は、仏教は耶蘇教や回教とは異なる独自の世界観を持っているということを強く自覚していた。その仏教のうちでも小乗仏教は単に個人の救済を目的としている点で矮小なものであり、真に仏教といえるものは人類全体の救済を目的とする大乗仏教である。しかし大乗仏教の中でも禅などは、個人の「さとり」に重きを置いている限りにおいて、小乗仏教と五十歩百歩というべきである。真言密教こそが大乗仏教の神髄と言うべきであって、それは真言密教が、我々が生きているこの宇宙と言うものの本質について教えてくれる唯一の宗教だからだ。熊楠はそう考えるのであるが、それは恐らく子供の頃に叩き込まれた真言密教の法力によるものではないか。
真言密教には曼荼羅というものがある。それは大日如来を中心としてさまざまなイコンを配置することを通じて、世界のあり様というものを開示したものである。人々はこの曼荼羅を拝むことによって、自分の生きているこの現実の世界はもとより、生きている自分には隠されている様々な世界(死後の世界を含めた)の潜在的なあり様まで理解することが出来る。つまり曼荼羅とは壮大な世界像を示したものなのだ。この世界像を読み取ることによって、人は自分の存在についての深い理解に達することが出来るのである。
この真言の曼荼羅を手掛かりにして、熊楠は自分なりに世界のあり様について思いを巡らし、彼なりに掴んだ世界像を彼なりの曼荼羅にして見せた。それがこの奇妙な図なのである。
この図は様々な線の組み合わせとして描かれている。真言の曼荼羅にある様々なイコンに対応するのがこれらの線なのである。線には直線らしいもの、曲線らしいもの、円らしいものなど様々な種類がある。大事なのは形ではなく、それらの配置の相互関係なのだということが次第に明らかになる。
熊楠は、これらの線は事理を現しているという。事理とはものごとの筋道と言った程度の意味に考えてよい。この世界と言うものは様々な事理からなっている。それらの事理は互いに交差しあったり、あるいは相互に離れていたり、もつれあったり、絡みあったりしている。図でいえば、各々の線の配置が様々な事理の布置を現しているわけだ。
たとえば図の(イ)という点では、多くの線が交叉している。熊楠はこれを萃点(すいてん)と呼んだ。萃点は多くの事理が重なる点だから、我々の目につきやすい。それに対して(ハ)の点は二つの事理が交わるところだから、萃点ほど目立たぬが、それでも目にはつきやすい。(ロ)の点は(チ)、(リ)二点の解明を待って、その意義が初めて明らかになる。(ヌ)はほかの線から離れていて、その限りで人間の推理が及び難いが、それでも(オ)と(ワ)の二点でかろうじて他の線に接しているところから、まったく手掛かりがないわけではない。だが(ル)に至っては、ほかの線から完全に孤立している。したがって既に解明済みの事柄から推論によって到達するということが困難なわけである。
このように熊楠は、世の中の成り立ちを事理の組み合わせと見、それを人間の認識能力とのかかわりにおいて、体系づけたのであった。
さてその事理であるが、熊楠はこれを不思議とよんだ。そして不思議には五つあると熊楠はいった。物不思議、心不思議、事不思議、理不思議そして大日如来の大不思議である。
物不思議とは、物の道理のことである。それは自然科学の対象となる世界である。また心不思議とは心をめぐる現象世界のことである。とりあえずは心理学の対象となる世界だが、今日の心理学は、心を物のように取り扱っている点で十分だとは言えない。心には物とは違った世界が成り立ちうるのだ、そう熊楠は考えている。
心が物にはたらきかけて成立するのが事である。事不思議とはだから人間の働きかけの結果として成立するものだ。熊楠は事不思議を学問的に展開したものとして、数学や論理学をあげる。この二つの学問とも、物としての対象的な世界を、人間の認識の枠組みを通してとらえる過程を主題にしたものだ。熊楠はそう考えて、このようにいうのだと思う。
理不思議とは、以上三者を超えたところに成立する世界のようである。これは目前の目に見える現象とは異なり、人間が知性を行使して作り上げた世界である。つまり理性が純粋に理念的な推論を重ねて紡ぎあげた観念的な創造物といってもよい。それは西洋哲学が対象としてきた形而上学的な世界に似ているともいえる。上の曼荼羅の図でいえば(ル)がそれにあたるだろう。それは物や心や事と言った我々に見える世界で展開される事理に比べ、一段高くかつ独立した事理なのである。
さて、では大日如来の大不思議とはいかなるものか。それはこの図でいえば、図からはみ出た部分、図を超越したところにある世界とでもいうことになる。つまり人間のすべての認識、それが対象とするすべての対象世界、そういったすべてを超えたところに成立してあるもの、それが大日如来の大不思議だということになる。
だがこれは消極的な定義であって、積極的には何も言っていないというに等しい。そこで熊楠は別の書簡のなかで改めて大日如来を取り上げるのであるが、そこで熊楠は大日如来を物や心を生ぜしむる根本的な原因であるという。つまり、世界の根源として、大日如来の大不思議を位置づけるわけなのだ。もしそういうのならば、それは世界の創造主、つまり神であると考えてよい。ここに至って熊楠は、大日如来を本尊とする真言密教の奥儀にたどりつくわけである。
南方曼荼羅
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ここに一言す。不思議ということあり。事不思議あり。物不思議あり。心不思議あり。理不思議あり。大日如来の大不思議あり。予は、今日の科学は物不思議をばあらかた片づけ、その順序だけざっと立てならべ得たることと思う。……心不思議は、心理学というものあれど、これは脳とか感覚諸器とかを離れずに研究中ゆえ、物不思議をはなれず。……さて物心事の上に理不思議がある。……これらの諸不思議は、不思議と称するものの大いに大日如来の大不思議と異にして、法則だに立たんには、必ず人智にて知りうるものと思考す。……さて妙なことは、この世間宇宙は、天は理なりといえるごとく(理はすじみち)、図のごとく(図は平面にしか描きえず。実は長、幅の外に、厚さもある立体のものと見よ)、前後左右上下、いずれの方よりも事理が透徹して、この宇宙を成す。その数無尽なり。故にどこ一つとりても、それを敷衍研究するときは、いかなることをも見出し、いかなることをもなしうるようになっておる。その捗りに難易あるは、図中(イ)のごときは、諸事理の萃点ゆえ、それをとると、いろいろの理を見出すに易すくしてはやい。……(ヌ)ごときに至りては、人間の今日の推理の及ぶべき事理の一切の境の中で、(この図に現ずるを左様のものとして)(オ)(ワ)の二点で、かすかに触れおるのみ。(ル)ごときは、あたかも天文学上ある大彗星の軌道のごとく、(オ)(ワ)の二点で人間の知りうる事理にふれおる(ヌ)、その(ヌ)と少しも触るるところないが、近処にある理由をもって、多少の影響を及ぼすを、わずかに(オ)(ワ)に二点を仲媒として、こんな事理ということは分らぬながら、なにか一切ありそうなと思う事理の外に、どうやら(ル)なる事理がありそうに思わるというぐらいのことを想像しうるなり。……さてこれら、ついには可知の理の外に横たわりて、今少しく眼鏡を(この画を)広くして、いずれかにて(オ)(ワ)ごとく触れた点を求めねば、到底追蹤に手がかりなきながら、(ヌ)と近いから多少の影響より、どうやらこんなものがなくてかなわぬと想わるる(ル)ごときが、一切の分かり、知りうべき性の理に対する理不思議なり。さてすべて画にあらわれし外に何があるか、それこそ、大日、本体の大不思議なり。
出典:
eco-philosophy8号別冊_055-066.pdf