安倍晴明
安倍晴明・・・本来の読み方は確定していない。
そして安倍保名と葛の葉の子と言われる。
平安時代の陰陽師。延期21年摂津国阿倍野に生まれたとされる。 幼少期は童子丸と言われる。
陰陽師賀茂忠行・保憲父子に陰陽道を学び天文道を伝授されたという。 賀茂氏の門下生であり、後に陰陽道宗家となる。 天暦2年大舎人。天徳4年40歳天文得業生になった安倍晴明は村上天皇に占いを命ぜられたほど占いの才能があった。 貞元2年賀茂保憲が没した頃から陰陽道内で頭角を現す。
一条戻橋の下に式神を飼っていたと言われる。
陰陽寮を束ねる陰陽頭に就任することはなかったものの位階はそれよりも上位であった。 天元2年には59歳の安倍晴明が皇太子師貞親王(後の花山天皇)の命で那智山の天狗を封づる儀式を行った。 この頃から花山天皇の信頼を受けたそして一条天皇や藤原道長からも信頼を集めるようになった。 正暦4年に一条天皇が病にかかったが安倍晴明が禊を奉仕したするとたちまち一条天皇の病状が回復した。 寛弘元年に深刻な干魃が続いたた安倍晴明が雨乞いの五龍祭を行わせたところ雨が降り一条天皇は安倍晴明の力によるものと認め被物を与えた。
陰陽師として名声を極めた安倍晴明は、天文道培った計算能力をかわれて主計寮に異動し主計権助を務めた。 その後、左京権大夫、穀倉院別当、播磨守などの官職を歴任し、位階は従四位下に昇った。 さらに晴明の2人の息子安倍吉昌と安倍吉平が天文博士や陰陽助に任ぜられるなど、安倍氏は晴明一代の間に師である忠行の賀茂氏と並ぶ陰陽道の家としての地位を確立した。 系譜上安倍晴明の後裔とされる家柄としては、堂上家と土御門家だった。
江戸時代に分家した庶流倉橋家がある。
芦屋道満と安倍晴明はライバル関係であった。
安倍晴明が死んだ11世紀の内に、安倍晴明は神秘化された。
安倍晴明の生誕地とされる大阪市阿倍野区に安倍晴明神社が建てられた。
後世の陰陽師が安倍晴明を信仰して日本各地に晴明塚にを建設し祀った。
墓は京都嵯峨にある。
そこに安倍晴明は永眠している。
参考 ウィキペディア
参考 平安人物伝 安倍晴明