野外科学
さて問題は野外化学である。野外化学には、実験科学と重要な共通点がある。それは実際の観察と経験を重要視するということである。しかしながら、まさにこの共通性のために、両者の方法の違いがほとんど認識されていない。まず、外形的な点から問題にしてみよう。野外化学においては、観察し経験する場所が実験科学とはぜんぜんちがう。つなりそれは実験室ではなく、野外だということである。野外化学という用語の適切さは、一つにはこの点に存するのである。けれども、私はここで、場所が部屋の内か外かという単純な表面的なことだけを問題にしているのではない。この働き場に象徴された、ある重要な方法の差こそ問題なのだ。したがって、ひとしく現実界を観察するといっても、実験室と野外ではどうちがうかということが、まず第一に問題になってくる。ここには大変重要なちがいがある。 仮に観察する対象を、広い意味で「自然」と呼ぶとすれば、実験室的な自然と野外的な自然とは、どこがちがうのか。野外的自然は、いいかえればありのままの自然である。これに対して実験室的自然は、ありのままの自然のなかから、操作を加えて人工的自然を作ることである。ありのままの自然と人工的自然のちがいがそこにある。しかしこれは逆にいうと、実験科学者たちが、次のように表現するのとおなじことである。
実験科学者たちの考え方では、実験室のなかの自然が「純粋な自然」だという表現をする。その流儀をうけいれるなら、野外的自然は、「不純な自然」ということになる。純粋な自然か不純な自然かという表現もできるし、人工的自然か、ありのままの自然かともいえる。つまり実験室で対象になる自然は、自然のごく少数の選ばれた要素を純粋に取り出そうということである。そこに実験化学の方法の分析的性格がある。ところが、野外的自然が扱うのはありのままの自然であり、そこではほとんど数えきれないぐらいの複雑な自然の諸要素がからみあっている。
また、実験室のなかで研究対象になる自然は、なんども繰り返して再現することができる。反復が可能である。すくなくとも研究目的に対しては、反復が可能として扱ってよい。それに対して野外的自然は一回性を帯びている。これは歴史的に二度と同じ状況が繰り返されないことを意味する。またそれとおなじ現象がおこることは、他の地域ではありえない。場所的一回性がある。つまり歴史的、地理的一回性を帯びている。これは別の言葉でいうなら、個性的な自然ということもできる。
たとえばフランス革命は歴史上、一度しかおこらなかった。おなじようなことはそれ以前にもけっしてなかったし、これから先にも二度とはおこらないだろう。また北海道は地球上どこにもない地域で、北海道だけにしかない、一回性的、個性的なものである。また、ある会社や職場で、ある特定の意地の悪い部課長がいるという現場の状況は、ここのほかに世界中どこにもない。それがありのままの自然、あるいは野外的自然というものなのである。 このような野外的自然を研究の対象にしなければならない必要性がある。学問でいっても、たとえば歴史学でフランス革命を研究する。それは一回性的、個性的なもので、もう一度それがおこるという可能性はにが、しかもしれを対象に研究しなければならない。あるいはまた、経営学のコンサルタントがある企業、職場を研究する。その職場はそこだけにしかな野外自然であり個性的な世界である。しかもひじょうに複雑な世界である。
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つまり野外化学はある意味では「場の化学」なのである、あるいは「現場の化学」だといってもよい。ひとしく経験を基礎にして現実界を研究の対象にするといっても、研究態度によって実験室的化学と現場の化学の双方が成り立つことを、これで理解していただけたろう。
実験化学は学説を検証するところに重要な性格があるのに対して、野外化学はむしろその仮説をどうして思いつけばよいのかという、仮説を発送させる方法と結びついているのである。この性格のちがいが今日まだあまりよく理解されてはいない。
野外科学の原則
関係ありそうなことは全部列挙する必要がある
みたいな考え方、室井さんが川野さんを評価していた点
川野くんが、THE起業家という感じで、イズムと安心感があったかな。建築やアート、テックまで幅広く研究していて、広い範囲の特定のものに対しての探究心がある人だなと思っていて
に重なるなと思いました
リコメンドとかこの真逆ですね、とにかく精度を上げて正解を探す姿勢が。実験科学は収束していくイメージですね。