発想法
発想法というものはいったい世の中にあるのか。文字どおり考えれば、それはアイディアをつくり出す方法である。そんなものはいかがわしいものであって、いいかげんな思いつきであり、きわものとして取りあげられるのではないかと考える人が多いかもしれない。私もはじめは発想法などを考えるつもりはなかった。ところが、その私のなかにいつのまにか、発想法が存在しうるという見解が成長してきたのである。
発想法という言葉は、英語でかりにそれをあてると、アブダクション(abduction)がよいと思う。ーー略ーーインダクション(induction 帰納法)、デダクション(deduction 演繹法)とならんでアブダクションがあるのであり、アブダクションは日本語であてると、発想法といわざるをえないだろうということであった。(略したが上山 春平の発言であるyo3.icon) この3つの分け方は、ギリシアのアリストテレスがすでに問題にしている。それはアリストテレスによって論理学の三つの方法としてあげられた。それ以来、インダクションとデダクションは連綿として発展させられ、今日まで学問の重要な方法となっている。ところが、アブダクションのみは、アリストテレスのせっかくの提唱以来埋もれたままで、現在まで十分に伸びていないという。これが上山氏の見かたである。 字引を引いてみると、日常用語としてのアブダクションには物騒な意味がある。「子どもをかどわかす」とか、「ひったくる」とか、「他人の奥さんを奪う」などの意味がある。それとも関連しつつ、論理学的には、いろいろな資料から、なにか新しいアイディアをひっぱりだすという意味で使われるわけだ。あるいは、モヤモヤとした情報群の中から、いっそう明確な概念をつかみ出してくる意味あいがある。