書斎化学
ざっくりいえば、部屋の中でしか学問してないやつってことですね。yo3.icon
歴史的にまず最初に古くから発達したのは書斎化学であった。昔は、学問といえばこの書斎化学であった。そのような学問が人類におこったのは、われわれの祖先たちが部族的、田園的な文化の段階を乗りこえて、都市文明ともいうべき文化の段階に到達してからなのである。この書斎化学の特徴は、次の二つの点にあると思う。
一つは過去の情報のストックにおおいに依存していることである。これを別の言葉でいうと、古典に依存している。あるいはもうすこし広くいうと、文献に依存していることである。すべての学問が文献に依存しているには違いないが、とくに書斎化学で依存する文献は、一度だれか先人の頭脳のフィルターをとおして、体系づけられた形の情報になっている文献である。
たとえば歴史学者は古文書を資料に使うが、これはここでいう書斎化学における文献ないしは古典とはちがうのでる。彼が日本の近世地方研究の学者だったならば、日本の町や田舎に行って、そこでいろいろな古文書を見いだし、庶民資料なども使う。その古文書に書かれているのものは、文献にちがいない。しかしその特徴は、なんら学問的体系をつくろうという意図でなしに書かれた文献であり、それらがたくさん存在する。たとえば借金の証文とか、お上に奉る訴状などがそれである。そのような資料を探し求めて研究するのは、むしろ後でのべる野外化学に順ずる性格を持つのである。
これに反して、書斎化学に関連づけてここにいう文献とは、孔子がどういったとか、聖書の言葉とか、いろいろな形で体系づけようとした先学者の文献という意味である。したがって、狭くいえばいわゆる古典といわれるものになる。これに大きく依存しているのが書斎化学の一つの特質である。その意味では、西暦紀元前数世紀のギリシアの学問、おなじころから始まった儒学書、すなわち中国の古典といわれるもの、イラン(ペルシャ)文明の遺産、インドの古典など、すべて過去の文明圏といわれるものが、たくさんこういうものをつくりだしてきた。もちろんその後にも、それらを発展させ、あるいは注釈した数々の文献がある。それらに依存して仕事をするのが書斎化学である。
書斎化学のもう一つの大きな特徴は、頭の中の推論に重きをおいたことである。こうすればこうなるはずであるという論理的なつながり、推論過程を重視することである。一方でこれは文献に依存しながら、他方では推論過程を重要視する。文献と推論を重要視する。これが書斎化学の大きな特徴である。
なぜ特徴かといえば、ほかの実験科学、野外化学などでは、現実界の経験と観察が重要な基盤をなすのに対して、書斎化学ではそれらがなくても一応ことがすんだということである。文献は自分の頭の中の思考でないとしても、しょせんは先人の頭の中からの産物である。そこで書斎化学では、現実界を観察しないで、一応学問が成立していた。つまり、ものに触れなくてもいいのである。孔子が下町に実験室を建てたとか、中世の神学者が学問をするために、野外観察に歩きまわったということはあまり聞いたことがない。